第14話 街の教会【3日目】
朝早くに目が覚めた。
よく食べてよく眠ると不思議と気分が晴れる。前の日にどれだけつらい気持ちになっても、次の日には何事もなかったように過ごせてしまう。
ゆっくり伸びをして、部屋の窓を開ける。寝衣のまま職員寮の洗面所で朝の支度を済ませて部屋に戻る。いつもの流れで無意識にクローゼットから作業着を取り出そうとして、着慣れない派手な服に目が留まる。今日が学校の外へ出かける日であることを思い出した。窓からの風に吹かれて、床には外出票が落ちていた。
その後、学校の通用門を出た私は、街に向かって歩いていた。学校から街までは少し距離がある。学校の周囲には、教員たちの家がぽつりぽつりと建ち、その先は延々と続く林を半刻ほど歩く。広くて綺麗な道が整備されているのに、周りには何もなく、ちぐはぐな風景だ。空は晴れていて日差しが強いけれど、吹き抜ける風が気持ちいい。学校の近くにある広大な森から聞こえてくる鳥の鳴き声を聴きながら歩いた。
ふと、今日が休校日だったことを思い出した。図書室は夕方まで解放されて早めに閉まってしまう。セドリックの家は街のほうだから、学校に戻る頃には図書室が閉まっている。休日にゆっくりと本を読むことが、最も大切にしている楽しみなのに!
そう思って足を早めたものの、待ち合わせの時間まで余裕がある。街に着いても特にすることがない。せっかく街に行くのだから、何かできることはないかと考えることにした。
街の家がちらほらと見え始めた頃、街の方向へ荷車を引いて歩く人の姿があった。調理師のリヒャルトだ。朝の買い出しだろうか。
「おはよう。手伝いは必要?」
「やあ、リアラ! 今日はお休みかい?」
リヒャルトはいつもにこやかで、話しかけやすい。
「ううん、仕事。教会に用事があって」
「おしゃれしてきて、デートかと思ったよ」
彼はいつも冗談めかして話す。屈託のない笑顔で話してくれるから、まったく嫌な気持ちにならない。
調理に使う食材は、街で買い付けてから、後で納入業者が学校まで運んでくる。荷車に目を向けると、そこには大量の灰が積まれていた。私は目を丸くした。
「この灰、どうしたの?」
「焼却場で出た灰を教会に寄付しているんだ。良い肥料になるらしいよ」
学校では、様々なゴミを焼却場で燃やして処理する。調理場では大量の生ゴミが出るため、専用の焼却場がある。この街の教会はいくつかの農場を運営しているから、灰を寄付として受け付けているのだろう。
リヒャルトは、この街の孤児院の出身だった。その後、街の調理場で働き、教会から学校の調理場を紹介された。普段の明るい様子からは想像できないけれど、学校に来るまでは誰にも心を開けなくて、おとなしい性格だったらしい。「教会と学校に助けられてきたから、誰かのために料理をすることが、僕のすべてなんだ」と話していたことがあった。
学校には孤児院の出身者が多い。レティシア校長の代に変わってから、孤児院の出身者を積極的に職員採用するようになったらしい。孤児には、私のように養子にもらわれることもあれば、リヒャルトのようにそのまま孤児院で過ごす者もいる。孤児院の出身者には、どことなく親近感を覚えてしまう。
私は彼の名前が呼びにくくて、出会ったばかりの頃に『リハルト』と発音したことがある。ところが、笑顔で人差指を立て、「僕の名前は『リヒャルト』だよ」と指摘した。彼には名前の発音にこだわりがあるらしい。
ふと、私は生まれたときから『リアラ』だったのかという疑問が、頭の片隅に芽を出した。答えがない悩みに飲み込まれると止まらなくなる。私はいつもその芽に気付かないふりをして、気持ちに蓋をする。
そうだ、身体を動かそう。答えのない問いを、考えなくていいように。
私が荷車を後ろから押すと、リヒャルトは「汚れるから、そんなことしなくていいよ」と慌てた。私は笑って「私も教会にいくから」と言った。
街の教会に着くと、リヒャルトは教会の裏手にある堆肥置き場に行ってくると言って、荷車を押していった。
教会の前で何をして過ごそうかしばらく考えたけれど、何も思いつかなかった。結局、ドアを開けて礼拝堂のベンチに腰を下ろした。礼拝堂の中には人の姿がなく、空気はひんやりと澄んでいた。荷車を押していたせいか、身体が疲れて手が痺れてしまい、しばらくの間、礼拝堂でのんびりと休んでいた。
確かどの教会にも読書室、つまり図書室のような部屋があったはずだ。そう思い出して席を立った。
養父母の家がある街で過ごしていた頃は、休日の朝に礼拝していた。学校の敷地内にも礼拝堂があって、休日の朝には信心深い教員や職員たちが集まる。信心深くない私は行ったことがない。学校の礼拝堂では、派閥ごとに分かれることは禁じられていて、教会派、国粋派、教典派の御歴々が隣り合わせて並んでいるらしい。まるで物語の登場人物が繰り広げる喜劇みたいな光景を想像してしまう。
この街の教会には来たことがなかった。教会ごとに内装や間取りがまったく違うことを初めて知った。読書室を探して散策していると、どこからか歌声が聞こえた。
主旋律だけの、あの曲。
歌声の元を探して教会の中を歩き回る。どんな場所にいても音がよく響いて、どこから聞こえてくるのか分からない。早足で、そして少し駆け足になって探した。曲が終わってしまう。
小部屋のドアが開いていて、その中から歌声が聞こえてきた。部屋の中では、私より少しだけ年上の女性が、幼い子をベッドに寝かせて歌っていた。
あれは、子守唄だったんだ。
気品に溢れた女性が、私に気がついて微笑んだ。
「どなたかしら?」
私はついつい、「ごめんなさい。読書室はありますか?」と謝りながら口早に質問した。
「一度、礼拝堂に戻られましたら、階段をお上がりください」
優しく、透き通る声だった。
私は礼をして立ち去った。どういうわけか、目には涙が溜まっていた。
読書室には、読み慣れた本が並んでいた。そのひとつを手にとって読み始めたけれど、時間を気にしているせいか、物語がさっぱり頭に入ってこない。本を読んでは時計を眺めるのを繰り返し、落ち着かない気分のまま、本を閉じて外に出た。
教会の前にはすでに馬車が止まっていた。慌てて振り返り、教会に据え付けられた時計を確認しても、まだ半刻以上前だった。馬車の隣には、白く輝くシルクのシャツを着た三十代の男性が立っていて、「失礼ですが、リアラ様でしょうか」と声をかけてきた。私が返事をすると、男性は馬車の小さなドアを開け、こちらに向き直って礼をした。言われるままにステップに足を乗せて馬車に乗り込むと、小さなドアが閉められた。小柄な私でも跨げば超えられそうな、小さなドアだった。
やがて馬車は静かに動き出した。御者のシャツの襟がしっかりと糊で固められているのを見つめていると、なんだか日常から切り離されたような感覚におそわれた。街の中を馬車で進んでいき、それほど遠くない場所に、大きな屋敷があった。門をくぐって庭を進む。緩やかにリズムを刻むような馬の蹄の音を聴いているうちに、いつの間にか屋敷の前に着いていた。御者の男性がまた小さなドアを開け、私は地面に降り立った。頭がくらくらとして、世界が揺れている感じがした。
せっかくなので非日常を楽しんでみたものの、正直にいえば、これといった感慨はなかった。帰りは普通に歩こう。
◆
導かれるままにセドリックのいる部屋に通された。部屋の中にある調度品は、そのすべてに手が行き届いている。できれば近づきたくない。
セドリックは、やや驚いた顔でこちらを見て、「ようこそ」と短く言ったきり、しばらく何も話さずにこちらを見ていた。この慣れない服を着ている姿を見られるのは恥ずかしいからやめてほしい。私には地味な作業着がいちばん似合っていることくらいわかっている。
彼は小さく咳払いして、ドアの前で凍っている私に近づいてきた。
「緊張しているのか? ここは君の想像するような堅苦しい場所ではない。気楽にしてくれていい」
そう言われても、緊張するものは仕方がない。
「予定よりは早いが、フェリックス先生のところへ向かう。ついてきてくれないか」
私は素直に彼の後を追った。自分でもわかる。借りてきた猫とはこのことだ。
階段を登った先の客室のひとつにフェリックス先生がいた。セドリックとフェリックス先生の二人は、テーブルを挟んで向かい合って座っている。普段と変わらない様子のフェリックス先生を見ていると、安心して緊張がほぐれてきた。壁際に椅子が置いてあったので、私はそこに腰を下ろした。
フェリックス先生は「お顔に何か付いてますよ」と自分の頬を指差して教えてくれた。私が慌てて顔を拭うと手が黒くなった。どうやら顔に灰がついていたらしい。
「さっき、リヒャルト……えっと、調理師の方が荷車を運んでいて、手伝ったんです」
「灰を肥料として教会に寄付していると聞きました。自分ができることで人を助ける。私も見習いたいものです」
フェリックス先生はそう言った後、私の顔についていた灰が伸び、煤けてしまったことを優しく教えてくれた。
洗面所で煤けた顔の汚れを落としているとき、セドリックがやたらと私を見ていたのはそういうことだったのかと気づいた。そう教えてくれればいいのに!
洗面所から戻ると、セドリックは何食わぬ顔で私のほうを向き、「昨日のことは先生に話してある」と言った。フェリックス先生は髭を触っていた手を止めて「保管庫の中で詰め替えられ、場所を移動されていたとは。盲点でした」と返した。
「あれから何か思い出したことは?」
唐突にセドリックが切り出した。フェリックス先生は静かに首を振った。セドリックは、私が会話に置いていかれていることに気づき、説明してくれた。
「昨日、先生と試作機が盗まれた理由について話し合った。だが、これまでは、研究内容を流出させる代わりに対価を支払うなどの不審な手紙が届く程度の、間接的な接触しかなかったようだ」
今回は間違いなく、学校の内部、教員の中に犯人がいる。その心当たりを訊いたのだろう。
フェリックス先生は「あれから考えたのですが、試作機を盗むということが不思議でなりません。それがどうしても分からないのです」と続けた。
私には、先生の言葉の意味が理解できなかった。セドリックもうまく飲み込めなかった様子で、「というと、試作機を盗むことに意味がないということだろうか」とつぶやいた。それを聞き、フェリックス先生は「それに答えるには、私の研究について触れる必要があるでしょう」と言った。