第1話 リアラは静かに本を読みたい【0日目】
静かな時間が、私にとっての至福だった。
魔法学校の長い廊下を、掃除道具を積んだ台車を押しながらコツコツと歩く。窓の外では、生徒たちが楽しそうに談笑していたり、小さなボールを追いかける運動に興じたり、実に気ままに過ごしている。その姿を見るたびに、私は心の奥でため息をついた。
私、リアラは今年で十九才になる。小柄な体躯に幼い顔立ち。この地味で目立たない作業服がなければ、学生と間違われてしまう。教会の運営する孤児院で育ち、信心深く善良な夫婦に引き取られた。十五才になったときに、魔法学校の用務員として働くことになって養家を出た。
用務員になったのには、深い理由がある。本が好きだから。演劇の本を心ゆくまで読み耽りたい。それだけが、私の願いだった。学校職員になれば、図書室に出入りする許可がもらえる。業務外の時間は図書室の本を読んでも構わないと言われて、この職に飛びついた。きっとたくさんの本を読めるはず。そう信じていた。
現実は違った。働けど働けど、読む時間は作れない。午前中は掃除、午後は備品の補充、夕方はゴミ捨て。授業の準備の手伝いや設備の補修など、ありとあらゆる仕事が湧き出してくる。業務が終わるのはいつも夜遅く。へとへとになって自室に戻ると、そのままベッドに倒れ込む。仕事が終わったら本を読む生活のつもりだったのに、その気力さえ奪われていく。
今日もまた、私は廊下を歩きながら、窓の外で楽しそうに過ごす生徒たちを目の端に追いやり、不満を募らせる。
「本を読む時間があるくせに」
誰もいない廊下で、私は小さく呟いた。
そんなある日の朝、私はレティシア校長に呼び出された。彼女は私を雇ってくれた恩人であり、私が本好きであることを知っていて、何かと気にかけてくれる優しい人物。本心では、学校の仕事を早く終わらせて読書に耽溺したい。私にとって、レティシア校長からの仕事の依頼は、大切な、それはそれは大切な、読書時間が奪われる面倒なものに感じた。
「リアラさん、あなたにひとつ、頼みたいことがあります」
レティシア校長は私の目を見つめて、微笑みかけてきた。
私にとって、鋭い目つきは長年のコンプレックスだった。だから、人と視線を合わせるのが苦手だ。以前は前髪を下ろして目元を隠していて、それがかえって視線を集めてしまうと気づいてからは、前髪を分けて顔を出すようになった。それからは目を逸らすと不自然なので、その癖をがんばって治した。けれど、今は何となくレティシア校長のローブの大きなボタンを眺めている。
「明日、視察のため、セドリック様が我が校を訪問されます。彼の案内役を頼みたいのです」
セドリック。私は、その名前に聞き覚えがある。高貴な一族の次男だか三男だかで、気ままに遊び回っているという噂の道楽息子。私の数少ない友人が、彼の噂話をしていたことがあった。そんな人物の相手をするなんて、時間の無駄だ。
「面倒なことに巻き込まれるのは、ごめんです」
嫌です、という言葉が喉から出そうになって言い換えた。面と向かっては言わないものの、内心は不機嫌だった。
レティシア校長は、そんな心中を察したのか、優しく微笑み、こう付け加えた。
「彼の案内役をしている間、あなたの日常業務は臨時雇いの職員に頼むことになっています。この後、引き継ぎが終われば、今日はそのまま帰っていいのですが」
このまま帰っていい。ということは、本が読める? いやいや、こんなあからさまな餌に食いつくわけにはいかない。私は、興味をそそられていないふりを演じようとした。
レティシア校長は、私の耳がぴくりと動くのを見逃さなかった。
「実は、表向きは視察ですが、我が校で起きたある事件の捜査に来ることになっています。事件が起きていることは、当事者とあなた以外、誰も知りません。あなたにしか頼めないのです。どうか引き受けていただけませんか」
事件? 捜査?
私は、面倒なことこの上ないと思った。関わりたくない。早く仕事を終わらせて、本を読んで、その世界に浸りたい。
そう願いながらも、レティシア校長に恩義を感じている私は、頼みを断ることができなかった。不承不承、その依頼を引き受けることになってしまった。
◆
引き継ぎを終えた私は、嬉々として、足早に、一心不乱に図書室へと向かった。今日は、前から読もうと決めていた、とある喜劇の本を心ゆくまで読むことができる。
図書室は、大きな本棚がずらりと並び、天井まで届くほどだ。ほこりや紙、インクが混ざった独特の匂いが、私の心を安らぎで満たしていく。この空間だけは、時間の流れがゆっくりと、静かに流れているようだった。
本を手に取って、窓際に並んだ机へと向かう。差し込む夕陽が、机の上に温かい光の帯を作っている。
「今日のお仕事は終わり?」
声は、私の友人、シオリだった。ライトブラウンの髪が夕陽に照らされて、きらきらと輝いている。彼女は、教科書を前に、難しい顔で考え事をしていたようだ。
「うん。今日はもう大丈夫」
そう答えると、シオリはほっとしたように微笑んだ。
「よかった。リアラはいつも忙しそうだから、休む暇もないんじゃないかって心配してたんだ」
「大丈夫。それに、明日からは別の仕事があるから、今日は早く帰れたんだ」
私がそう言って、少しだけ表情を曇らせると、シオリは首を傾げた。
「別の仕事?」
「レティシア校長に頼まれて。とある高貴な殿方の案内役。前に話してたセドリックっていう人」
その名を聞いた途端、シオリは驚いたように目を丸くした。
「えっ、セドリック様? 本当に?」
シオリがそんなに驚くとは意外だった。私は、以前シオリと話したとき、彼女がセドリックについて良くない噂話をしていたような気がしていた。正直、あまり興味がなくて、記憶もおぼろげだ。なのに、シオリはセドリックという名前を聞いて、どこか嬉しそうな、懐かしそうな表情を浮かべている。
「入学前に、家族と劇を観に行ったことがあって。それが、私の大好きな作品で、『月の雫』っていう悲劇なんだけど、リアラは読んだことあるかな。でね、観劇後にクロークで荷物を預かってもらおうとしたら、家族が先に行ってしまって、迷子になっちゃって」
シオリは、そのときのことを思い出したのか、少し恥ずかしそうにしている。
「そのときに声をかけてくれたのが、セドリック様だったの。優しくて、紳士的で、家族を探すのを手伝ってくれた。でも、そのとき緊張しちゃって、きちんとお礼を言えなかったんだ。それから、帰りに家族とディナーをしてたら、隣の席からセドリック様の名前が聞こえてきて。でも、話の内容は、あまり良い噂じゃなくて」
困惑したようにシオリは眉根を寄せた。
「私を助けてくれた優しい人と、その噂の人物像がどうしても一致しなくて。私、噂なんて当てにならないんだって思った」
私は、シオリの話に相槌を打ちながら、静かに聞いていた。
私が劇を見たのは一度きりだった。私が演劇の本が好きだと知った養父母が、私を『夜明けの星』の演劇に連れて行ってくれた。心から楽しみにしていた。
でも、実際に観た劇は、本で読んでいた世界とはまるで違っていた。セリフもストーリーも同じなのに、どうしてこんなにも違うのだろう。自分の感性がおかしいのかと、ひどく悩んだ。「人が多すぎて疲れちゃった」と言って、それ以来、劇場に行くことを拒んでしまった。
結局その悩みを、誰にも、養父母にさえ打ち明けることはできなかった。善良な養父母は、私の喜ぶ顔が見たくて観劇に連れて行ってくれたのだとわかっているから、今でも心がちくりと痛む。
それ以来、私は、同世代の子どもたちが劇場で活躍する俳優や女優の話で盛り上がっていても、興味を持つことができなかった。きっとそれからだろう。身近ではない人の話を聞いても、頭の片隅に記憶はするものの、心から関心を持つことはなくなったのは。
ふと我に返ると、シオリは心配そうに私を見つめていた。
「シオリが良い人だって言うんだから、なんだか安心した。ありがとう」
熱っぽく、そして、珍しく饒舌に話すシオリがかわいらしくて、私は思わず微笑んだ。セドリックのことは心底どうでもよかった。シオリの話を聞けたことは嬉しかった。
私が読みたかった本は、物語の佳境に入っていた。ページの端を指でなぞりながら、私は物語の世界に没入していた。その後もしばらく、シオリは教科書を読み、紙に書き込んでいた。
日が暮れる頃に「リアラ、私、そろそろ寮に帰るね」とシオリが声をかけてきた。私は顔を上げて、「うん、またね」と小さく手を振った。
私は退出時間まで粘りに粘った。顔なじみの司書が呆れたように「また今度来なさい。私もそろそろ帰らなければ」と言ったので、しぶしぶ重い腰を上げた。結末まで読めなかった。書架に本を戻して図書室から外に出た。
図書室は、魔法学校の広大な敷地の東エリアに建てられた平たい建物の中にある。東エリアは近年整備されたばかりの土地で、もともとは通称『校庭』と呼ばれる小規模演習場や倉庫くらいしかなかった。他のエリアの建物が増えてきて、新しい建物は東エリアに建てられるようになった。明るい時間帯には美しい見た目の研究棟が見えるし、日が暮れると静かになる。私のお気に入りの場所のひとつだ。
私は、学生たちがいなくなった静かな校庭を抜け、食堂へ向かった。