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第二話 見えない痛み

 その日。少し坂になったプラタナス並木の石畳を、二人は西へ向かって歩いていた。郊外から町の中央に続く、ウェスト通り。庭のある住宅が建ち並び、四つ角には食堂やパブ、ベーカリーが店を構えている。


「まるで振り子時計だよ、ユーリ」


 不意にマイオールが話しかけた。ユーリはまだたきをひとつ入れ、視線をマイオールに向けて言葉の意味を問う。


「何がだ?」

「今の君の歩き方さ。踵の音——聖堂に大きな振り子時計があってね、それを思い出したよ」


 マイオールは指を立てた右手を、大げさに顔の前で振った。中空を差すように伸ばされたその指は、まるでマエストロのタクト。ユーリの足音に合わせて左右に揺れる。その表情はどこか楽しげで、仕草にも温かみがあった。


「踵を鳴らすのを提案したのはマイオール、君だ」

「鳴っても構わない、と僕は言ったんだ。ずっと鳴らないのも不自然、ずっと鳴らすのも不自然。そうだろう?」

「そうか——」


 ユーリはふと立ち止まり、自身の足元に視線を落とした。身体操作を確かめるように足踏みをひとつ。先を行く形になったマイオールも歩みを止め、振り返ってユーリの青い瞳を覗き込む。

 歩き出したユーリがマイオールと並んだとき、ユーリは涼やかな表情のまま静かに告げた。


「ではマイオール、君が見本を」

「足を動かすのを意識しながら、自然に見えるようにかい? 簡単だね。やってみるよ」


 並んで歩く二人の姿。ぎこちないのは、マイオールの方だった。


「あれ、おかしい……考えながらでは、身体がついていかないな。普段とはどこか違う……」


 困惑した表情で首を傾げながら歩くマイオールと、彼の歩調にリズムを与えるかのように、踵を鳴らして歩くユーリ。マイオールに向けた彼の眼差しは、木漏れ日の光を浴びて優しげに揺れる。

 やがてマイオールの表情が変わった。


「あぁ、そうか。歩く動作はほぼ無意識。意識してないからこそ、自然に踵が鳴るの——っと」


 石畳のわずかな段差が障害となったか、マイオールの身体が少しだけつんのめる。難なく自力で踏み止まったが、彼の身体を前後から挟む形で、ユーリの両腕が差し出されていたのに気づいた。


「大丈夫か?」


 ユーリの冷静な問い。だがマイオールは、彼の冷静さの中にある優しさを、正しく認識していた。ユーリが差し出した腕の距離感。まだ身体操作が完璧だといえない彼は、自らマイオールに触れることはしない。

 それを理解した上でなのか、マイオールは気づかぬ素振りをみせる。照れ隠しにこめかみを掻いた。


「少し躓いてしまったよ。ありがとう、ユーリ。気を使わせてしまったね」

「場所をわきまえずに見本を求めた私のせいだ。すまない」

 

 並木道を通った風が金と黒の髪を揺らし、青とヘーゼルの視線が絡む。


「大袈裟だなぁ、ユーリは」 


 マイオールがユーリの肩に手を置く。その手のひらは、すぐに離れた。

 再び二人は歩き始め、やがて一軒の店の扉をくぐった。棚に置かれた文具にティーセット。革表紙で綴じられた様々なサイズの手帳。置かれた金物の一部には使われた形跡があり、塗装や被膜が剥げたものもある。古物も扱う雑貨店だった。


「いらっしゃい」


 店主の声に、マイオールは片手を軽く上げて応える。


「やぁ。何か珍しい物は入ってないかな?」

「取り立てて珍しいのは――あぁ、ひとつあった」


 足元の物入れ箱から店主が取り出したのは、一本の薄汚れた刷毛。それをうやうやしく捧げ持った。


「あの宮廷画家ゲンゲルが、生涯に渡って愛用した絵筆だそうだ」

「はぁ。店主……そんなものがこんな田舎に流れてくるはずがないだろう?」


 店主の説明を聞き、マイオールは呆れたように刷毛を指差す。ユーリは黙ったまま、刷毛を持つ店主の手を見つめていた。


「俺もそう思う」

 

 店主は悪びれもせず、雑な手つきで刷毛を放り入れて右手の指を揉んだ。その仕草を見て、マイオールの表情がほんの少し陰る。


「やはり痛むのかい?」

「いやいや、指を失くしたのはそりゃあもう随分と前だ。痛みはない――はずなんだが、癖かねぇ……時々指がまだあるつもりでカップを持とうとして、中身をこぼしてしまう。その時に少し、痛む気がするね」


 店主は指を揉みながら、しみじみとこぼした。


「そう……。もし義指が必要になったらいつでも」

「それはありがたい。絵筆と交換で頼もうか」


 マイオールは店主と笑顔を交わし、それにユーリが加わった。

 二人はそれぞれ手帳を購入して帰路につく。その道すがら、マイオールが静かに話し始めた。


「欠損した部位に宿る、見えない痛みを知っているかい?」


 ユーリも頷き、静かに答える。


「知っている。この国の言葉とは違うかもしれないが――ファントム・ペイン、幻肢痛だ」

「へぇ、同じ言い方だよ。やはりどこかで繋がりがあるのかもしれないね。その幻肢痛の理由は?」


「いや、そこまでは」

「そうか……錬金術師は物質と精神、どちらも研究対象だと話をしたよね。――僕は、幻肢痛の原因はアストラル体じゃないかと考えている」


 聞き慣れぬ単語にユーリは戸惑いを覚え、首を傾げた。


「アストラル?」


 マイオールは少し悩んだ素振りで顎に手を当て、言葉を選んだ。


「感情というか感覚というか……目に見えない自意識とでも言えばいいかな。肉体に重なったアストラル体は、肉体と同じく傷つくのではないかとね。だから……」


 ユーリはマイオールが言葉を飲み込んだと感じ、繰り返しの言葉で尋ねる。


「だから?」

「いや――まぁ、仮説だよ。器と水のような、ね」


 マイオールはここでも言葉を飲んだ。少し困った風に眉尻を下げ、ユーリの瞳を見つめて言葉を続ける。


「君の存在が、そうかもしれない――興味がないと言えば嘘になる。でも信じて欲しい。僕は……下心を持って、君をどうこうしたいと思ってる訳じゃない。うまく言えないけれど、ただ知りたいだけだ」


 マイオールの目は真剣さを伴っていた。そこにやましさは感じられない。

 ユーリも正直に答える。


「私自身も私のことがわかっていない。君に名乗った通り、私は幽霊だと思っているが」

「ユーレーは言いにくい」

「ユーリで構わない」


 ユーリは不器用な笑顔をマイオールに送る。けして長い時間を共にした訳ではないが、信じられる言葉であり、信じられる相手だと改めて感じていた。

 ユーリは、彼に右手を差し出す。

 マイオールはひとつ頷き、その手を握る。


「うん――ではユーリ、今後ともよろしく」

「こちらこそよろしく、マイオール」


 二人はゆっくりとした歩調で邸宅へと帰っていった。


 その日の深夜。ユーリは自室でペンを走らせていた。記録として日記をつけ始めて、既に十日以上経つ。ペン先をインク壺に浸して持ち上げたとき、一滴のインクがペン先から垂れた。それを見て、目覚めたときのことを思い出す。


◇ ◇ ◇


 最初に感じたのは、違和感だった。

 木漏れ日。風にそよぐ麦の穂。未舗装の道に刻まれた轍。どこかで見たような、ありふれた風景だ。


(この景色は……どこだろう)


 言葉に尽くせない不安が胸を満たす。何かが、根本から欠けている。


(夢……?)


 意識を向ければ景色は流れる。しかし、違和感は消えない。視界の隅にあるはずの、自分の鼻筋も見えない。慌てて意識を下に向ける。


 なにも、なかった。


 自分の肉体の一片も見えない。唾を飲む反射すら起こらない。声を出そうとしても、音は空白に溶ける。胸の奥が渇き、掻きむしりたくなる。

 見えない手を伸ばしても、何にも触れられない。見えない足で駆け出しても、ただ視界だけが早まる。走る感覚は、存在しなかった。


(夢なら……夢なら覚めてくれ!)


 心の中で叫ぶ彼の意識だけが、静寂に抗う。


 変化は唐突だった。


 記憶が矢継ぎ早に押し寄せ、目の前の景色にこれまでの人生が重なる。否定しようとしても、記憶が真実を突きつけた。


(事故だ。私はあの事故で——死……!)


 景色が歪む。絶望に打ちひしがれ、彼の時間だけが止まる。

 どれくらい経っただろうか。彼の視界の隅で、何かが動いた。意識を向けると、中年の農夫が畑仕事をしていた。その胸元に小さな煌めきを宿している。

 その煌めきに、見えない手を伸ばしていることに気づいた。近づくのは景色か、それとも意識か。


 渇きが波打つ。縋るように煌めきへ意識を重ねた瞬間、温もりと懐かしさを感じた。

 しかしそれは束の間。誰かの戸惑い――そして強い拒絶が流れ込む。農夫の感情が、言葉にならない形で押し寄せたのだと気付き、愕然とする。意識がたじろぎ、景色が遠のく。眼前には恐怖で歪む農夫の顔。濃密な後悔が胸にのしかかった。


(あの煌めきこそ、人の大事なもの……触れては……いけなかった)


 景色が色褪せる。抗えぬ感情の渦に、彼は意識だけで駆け出す。農夫の顔がちらつく。


(私は——)


 その時に悟った。自分は幽体であり、生者の世界に残され、触れられぬ存在になってしまったのだと。


◇ ◇ ◇


「あれがこの世界で初めての痛み――トラウマだ」


 ユーリが日本語で、そうささやいたとき。ペン先から滲み出たインクがページに染みを作っていた。


「穢れ……マイオールに話しておくか」

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