第三章 光
風が、変わった。
土のにおいに混じって、若草の香りがする。春の息吹は、街の石畳をゆっくりと這いのぼり、人々の足取りを軽くしていた。
薬草を干しながら、悠一は空を仰いだ。
青が少しだけ濃くなっている。季節が、動いていた。
そのころ、街の門に一人の若者が現れた。
噂は曖昧なかたちで広まり、やがて誰もが知るところとなった。
“異国の言葉を流暢に話し、商隊の者さえ驚くような知識を持っていた”
“ただの旅人ではない。あれは、天の外から来た者だ”
名前は、朔。
年は悠一とそう変わらない。けれど、彼の持つものはあまりにも明瞭で、整っていた。
その姿を遠巻きに見たとき、悠一は、なぜか自分の呼吸の浅さに気づいた。
それは嫉妬だったのかもしれない。
あるいは、もっと深く、やっかいな感情だったのかもしれない。
朔の噂は日ごとに大きくなっていった。
市場に新しい取引網が築かれ、薬草の精製にも改良が加えられたという。
正しさが街に浸透していくような感覚。空気の密度が少しずつ変わっていく。
悠一は、何もできなかった。
いや、やっていないわけではなかった。ただ、届かなかった。
自分が築いたはずの小さな場所が、ゆるやかに、誰かの背中に塗り替えられていくのを、ただ見ていた。
ある日、帰り道で老婆に声をかけられた。
「おまえさんの薬、よう効いたよ。ありがとね」
その言葉は、確かに彼の耳に届いたはずだった。
けれど、心のどこかにうまく定着しなかった。
夜になっても眠れなかった。
帳面をめくるたび、数字が意味を持たず、手だけが空回りする。
春の夜風が静かに吹いていた。
誰もいない裏道で、悠一はふと立ち止まる。
灯りのない道に、月だけが落ちていた。
白い光に照らされた手のひらには、洗いたての薬草が濡れたまま残っていた。
ふと、思った。
この世界に来て、何が変わっただろう。
自分は、今、どこにいるのだろう。
言葉にはならなかった。
ただ、足元の影だけが、やけに長く伸びていた。