第二章 泥月
柊という男は、つかみどころのない人間だった。
歳は三十代半ばか、もしかすると四十に近いのかもしれない。
細身で背が高く、どこか野良犬のような雰囲気をまとっていた。話し方は軽く、口元には常に皮肉めいた笑みが浮かんでいる。
だが、その目だけは、どこか底の見えない淵のようだった。
「いいか、悠一。こっちの世界でマジメにやるとかバカの極みだ。
どうせよそ者には貴族の椅子は回ってこねぇし、技術も金も後出しじゃんけんの連中に持ってかれる。
なら、割り切ってラクな方に流れたほうがマシってもんだ」
彼はそう言って、どこかの貴族領で流通していた薬草の加工品を仕入れては、「異界の仙薬」と偽って売り歩いた。
“日本から来た”という設定が、商品の神秘性に拍車をかけた。
悠一は、その手伝いをした。
罪悪感がなかったわけではないが、それ以上に――何も考えなくて済む日々が、楽だった。
日が昇る前に起きる必要はない。
畑の泥に足を取られることもない。
村の男たちの冷たい目も、女たちの無言の拒絶も、聞こえないふりができた。
「“やり直し”ってやつは、結局、何をやるかじゃなくて、どれだけ忘れられるかだぜ」
柊はそう言って笑い、酒をあおった。
夕暮れ、裏路地、誰もいない河原。
悠一は、汚れた空の下で小さな火を眺めながら、ぬるくなった酒をすすった。
あの日見た夢のような“異世界での人生”は、どこにもなかった。
だが、ここには少なくとも“逃げ場”があった。
柊といる限り、自分の底を正当化してくれる言葉があった。
けれど、それも長くは続かなかった。
ある日、彼らが訪れた街の市場で、一人の老婆が死んだ。
彼女は貧しい身なりのまま、薬草を一袋握りしめていた。
それは、悠一たちが売った“万能薬”だった。
「これで、孫の熱が下がると思って……」
そう言い残し、老婆は静かに崩れた。
柊は何も言わなかった。ただ、煙草のような細い葉をくわえ、立ち尽くしていた。
悠一は、ただ立ちすくんだ。
その夜、宿に戻ってからも、柊は一言も喋らなかった。
そして翌朝、姿を消した。
街の外れに残されていたのは、彼がいつも背負っていた革の袋と、
その中に入っていた、手書きの帳面だった。
中には、今まで売ってきた品目と、原価、売値、仕入れ元、そして──
《ユウイチ、使える。たぶん、もっとマジメにやれば、何かできるやつ》
その文字を見た瞬間、悠一は手を止めた。
何かが、胸の奥で軋んだ。
自分は、ただの道化だったはずだ。
でも、柊は最後の最後で、それを否定していた。
何のために残したのか。
贖罪か、皮肉か、それとも……。
その意味は、最後まで分からなかった。
それでも、悠一は街に残った。
あの老婆が遺した小さな家を、修理して住み始めた。
市場の手伝いをし、薬草の正しい使い方を学び、仕入れては加工し、慎ましく売るようになった。
人並みの生活。
ささやかな信用。
やっと、手に入れた“始まり”。
春の終わり、空が高くなってきたある日。
街の門に、一人の旅人が現れたという噂を聞いた。
年若く、清潔な服をまとい、異国の言葉を滑らかに話す者だったらしい。
悠一は、その噂に、なぜか立ち止まってしまった。
洗ったばかりの薬草が、手のひらでじっとりと湿っていた。