第一章 再出発
目が覚めたとき、そこは森の中だった。
地面は冷たく、空は白く濁っている。どこからともなく、木々の軋む音が聞こえてくる。濡れた土の匂いが鼻につき、何かが決定的に違うと、すぐにわかった。
ここは、自分の知っている世界ではない。
真柴悠一、二十四歳。
大学卒業後、就職に失敗し、バイトを転々としていた。実家には帰れず、シェアハウスでの暮らしにも限界を感じていた。
夜の街を歩いていたとき、ふと気がつけば、こんな場所にいた。
「……異世界、ってやつか」
口に出してみたその言葉は、驚きよりも安堵に近いものだった。
何もかもがダメになった現実。すべてが終わったあとの人生。
それをリセットしてくれるのが“異世界”なら、どれだけ都合がいいだろう。
そんなことを思いながら歩き続け、三日後。
ようやく、小さな村に辿り着いた。
村人たちは最初こそ警戒したが、言葉は通じた。どこか馴染みのある音の並び。こちらの言葉に耳を傾けてくれる不思議な言語だった。
「旅人か?」と聞かれて、「はい」と答える。
「どこから?」と尋ねられて、「遠くから」とだけ返した。
それで十分だった。
村では、食うために働く必要があった。悠一は畑に出され、草を刈り、鍬を持たされて土を掘った。腰を痛め、手の皮が剥け、日差しに焼かれながら働いた。
──思っていたのと、違う。
最初に描いていた「異世界で無双する未来」は、どこにもなかった。
この世界には魔法も、剣も、確かに存在していた。
だがそれは、ゲームのように誰でも使えるものではなく、学問として厳しく体系化され、限られた人間にしか使いこなせない“技術”だった。
さらに、悠一と同じようにこの世界にやってきた“先輩”たちがすでに多く存在していた。
彼らは火薬の製造、農業の改革、簡易発電機の設計など、現代知識を活かして地位を築き、王都では貴族として迎えられている者もいるという。
悠一が思いつく程度のアイデアなど、とっくに誰かが実行していた。
最初の村を出て、次の村に移っても状況は変わらなかった。彼はただの「遅れてきた転移者」に過ぎなかった。
やがて、働くふりをして、空を眺める時間が増えていく。
そんなある夜、村の酒場で、一人の男と出会った。
「おまえさん、もしかして……日本から来た口か?」
そう声をかけてきたのは、年齢不詳の男だった。薄汚れたコート、ぼさぼさの髪。くたびれた雰囲気に似合わず、目だけは鋭く光っていた。
「……はい。そうです」
男は、にやりと笑う。
「だろうと思ったよ。雰囲気が一緒だ」
その日から、悠一は“柊”と名乗るその男とつるむようになる。
酒場に入り浸り、畑をさぼり、小遣い稼ぎに詐欺まがいの商売を手伝うようになった。
薬草に水を混ぜて「万能薬」と言い張り、旅人に売りつけた。夜は安酒を飲んで、くだらない話をして、何も考えないようにしていた。
現実から逃げるようにして、悠一はどんどん堕ちていった。
それでもどこかで、胸の奥にうずくような違和感があった。
「これでいいのか?」
それを確かめる答えは、もう少し先に訪れることになる。