第2話 大脱走
会場に一歩足を踏み入れた途端、午尾は思わず息を飲んだ。スタンドは大勢の観客で埋め尽くされていた。鼓膜が、心臓が破れんばかりの大歓声。天井から降り注ぐ白い光線。足元は、地震でも起きたかと勘違いしてしまいそうなほど揺れていた。
まるで爆風だ。大気を震わす熱量に身体が押し返されそうになって、彼はグッと踵に力を込めて踏ん張った。何千、いや何万……ぐるりと闘技場を囲んだ大観衆の全てが、声を枯らして熱狂に身を委ねていた。公開処刑は、今日も満員御礼だった。
「殺せーッ!」
「敵を殺せぇッ!」
「やっちまえ! そのクズを許すなッ! 極悪人は叩き潰せッ!」
一瞬怯みそうになる自分を奮い立たせ、顔を上げる。眩しい光の向こうに、笑顔で獲物を待ち構える大男と、夥しい量の返り血が微かに見えた。
午尾はゆっくり、ゆっくりと鉄球を引きずり、中央の闘技場へと歩を進めた。一歩進むごとに、会場の熱気は跳ね上がっていく。四方八方から怒号と罵声が浴びせかけられる。分かっていたことだが、完全アウェイだった。此処にいる全員が午尾の処刑を望んでいた。
(いつもの事だ)
階段を昇りロープを潜る。鉄球は外されたが、手錠は付けられたままだ。リングでは自分の2倍ほどの身長もある主人公が、腕を組み仁王立ちして待っていた。売り出し中の若手主人公が午尾を見下ろしてマイクを握り締めた。恒例のマイクパフォーマンスだ。どうもコイツらは、戦う前や戦った後には必ず、カッコ良さげな名言・格言を残さずにはいられないようだった。
それから約3分間、道徳の教科書みたいな美辞麗句が続き、午尾は欠伸を噛み殺した。観客は水を打ったかように静まり返り、うるうると目に涙を浮かべている。おかげで彼は笑いも堪えなくてはならなかった。独りよがりな持論をぶち撒けて気持ち良くなった主人公は、お説教がひと段落してから、午尾に尋ねた。
「『改造済み』か?」
「ん?」
「『能力は使えるのか』と聞いているんだ」
「嗚呼……」
改造。
異世界転生者やその血筋は、特殊な能力を持っているが、午尾のように地球生まれの者にはそんな能力はない。自分も何か特別な能力が欲しい。空を飛びたい。不老不死になりたい。強靭な肉体を手に入れたい……人類の長年の願いを易々と叶える転生者を目の当たりにして、人々はその欲望をますます強くした。
そこで流行ったのがゲノム編集や遺伝子操作を始めとした『改造手術』である。いわゆるデザイナーベイビー……生まれつき足の速い子や体の強い子を、ゲームのキャラメイク画面のように設定しようというのだ。2014年には猿のゲノム編集に成功していたから、後は倫理観の問題だった。転生者の登場により、人類は堰を切ったようにDNA改変に勤しんだ。
午尾も5年前……16歳の時改造手術を受けた。生まれつき才能を持つ者、特殊能力を使える者やその血筋を『血統書付き』『血統種』などと呼ぶ。逆に、改造手術を受けて能力を手に入れた者は『無能』『雑種』『改造済み』と呼ばれ、差別が生まれた。
「お前の『能力』は何だ?」
「…………」
主人公の巨大な顔がずいと迫ってきて、午尾は閉口した。馬鹿かコイツは。コミック雑誌の間抜けな敵役じゃないんだから、ベラベラと自分の能力を話す訳がないだろうが。
だが主人公はニヤリと笑うと、午尾の顔の前に人差し指を立ててみせた。その指に、龍の紋章が刻まれた、銀色の指環が嵌められている。午尾は息を飲んだ。指環。これが……!
「言え。ルールその①・正々堂々。【このリングではお互い能力を開示した状態で戦う】。ちなみに俺の能力は【不死身】だ。何があっても死ぬことはない。うひひひひ。さぁ、お前の番だ。観客にも聞こえるように、大声でな」
「そうか……」
午尾は納得した。それがこの闘技場の、この戦いのルールか。
「……タバコくれねえか」
「何だと?」
「なぁ、頼むよ。冥土の土産だと思って」
「……それはお前の能力と関係があるのか?」
「嗚呼」
半信半疑だったが、やがてリングの外から観客の誰かが煙草の箱を投げ入れた。両切りの〈敷島〉。マウスピースが無いが、今は仕方ない。くしゃくしゃになったそれを拾い、ともかく午尾は口に咥えた。
「俺の能力は……」
観客も主人公も、興味深げに身を乗り出してきた。
「……『吸った煙草の銘柄によって、発動する能力が変わる』。何が発動するか、正直俺も全部は把握していない。その煙草次第だ」
その途端、主人公の顔が突然炎に包まれて、橙色の業火がリングの上で踊った。
「ぐああああッ!?」
「マウスピースがありゃ、もっと火力も出るんだがな。いくら不死身だからって、熱さは感じるんじゃねえか? 破破破破破!」
「貴様ァ……良くも!」
自分から能力を開示しろと命令しといて、何故か怒り心頭になった主人公は、中指を立てて午尾にピースサインを作って見せた。午尾は目を細めた。怪しい。恐らくあれがシュートサイン……この闘技場のルール開示条件だろう。
「ルールその②! 捲土重来! 【主人公側が一定のダメージを負った場合、仮に試合中であっても……ぐあ!?」
相手が全部言い終わる前に、午尾は目の前に掲げられた指をへし折った。
「あぎぃッ!?」
膝蹴りで、ついでに喉も潰しておく。①【お互い能力を開示する】というルールは、裏を返せば、声に出して喋らなければならないということだ。喋れない相手には通じない。
ルールを設定するためにはクリアーしなければならない条件が存る。
これで対戦相手が設定していた、この闘技場のルールは破られた。此処からはルール無用の戦いという訳だ。条件の設定が甘いからこうして簡単に破られる。これからは自分も気をつけなくてはならないな、と午尾は思った。彼は素早く周囲に目を走らせた。どうせ主人公が勝つと油断している観客は、これも演出だと思ったらしい。今のうちに此処から抜け出さなくては。どうやってここを突破するか……。
「あがあああああッ!!?」
だが、さすが主人公は不死身なだけあって、顔中を炎に包まれながらも午尾を押し倒してきた。ご自慢の巨体で馬乗りになって、必死に3本目の指を立てようとするも、折れているから上手くいかない。どうやらルール③の発動は免れたようだ。どれだけ自分有利の、劣悪な条件を押し付けるつもりだったか知らないが……午尾は不敵に笑った。
「がああッ!!」
その顔目掛けて、握りしめられた量の拳が振り下ろされる。まるで岩石だった。メキメキと頭蓋骨が砕ける音がして、午尾の視界はたちまち真っ赤に染まった。煙草が口から滑り落ちた。煙草を吸うどころか、息を吸う暇もなかった。
「ぐ……!」
「鼻水みたいにズルズル脳汁ぶち撒けやがれぇッ! この下種がァッ!!」
このままでは顔に穴が開く。意識が急激に遠のきかけていた。地獄に堕ちたら、まず何よりも先に耳鼻科を予約しなければならないな……迫り来る岩石を見つめながら、そんなことを思っていると、不意に彼の目の前に影ができた。
「何だ……?」
「何だぁ!? これは!?」
「……サッカーボール?」
主人公の会心の一撃が、致命傷を与えるはずだった拳が、ボールのクッションでほんの少しだけ和らげられた。その途端、轟音が鳴り響いて、闘技場の床が抜けた。
「何だぁあああッ!? 何が起きてるッ!?」
一瞬午尾は、拳の威力が強過ぎて会場を壊したか、あるいは本当に地震が来たのかと思った。観客は大混乱だった。天井からライトが流星のように振ってきて、悲鳴と怒号が交錯する。ガラガラと音を立てて崩れ去っていく会場の、その下から、不意に巨大なドリルが現れた。
「お待たせ!」
小型採掘機のコックピットから、見知った顔が午尾に手を振っていた。どうやら秘密の地下道から、闘技場の真下まで掘ってきたらしい。カーキ色の作業服に身を包んだ少女が、ゴーグルを外しながら白い歯を見せた。
「ヒーローは遅れてくるものでしょう?」
「遅れすぎだろ!」
瓦礫を押し除けながら、午尾は悪態をついた。約束の時間はとっくに過ぎていた。こっそり脱獄する計画が、全国中継されている会場の、そのど真ん中に姿を晒すとは。
「まぁまぁ。そんな計画通り行かないものなのよ。早く乗って!」
少女に急かされながら、午尾は瓦礫の山と化した会場を振り返った。そこら中でパニックが起こっていた。少し離れたところで、対戦相手がリングの下敷きになって横たわっている。自称・【不死身】なのだそうだから、まぁ大丈夫だろう。だとしたら止めを刺す意味もなさそうだ。不死身の人差し指から、銀色の指環を抜き取り、午尾は舌なめずりした。もう一度周囲を見渡すも、やはりサッカーボールは見当たらなかった。
「どうしたの?」
「いや……」
……いくら何でもタイミングが良すぎる。午尾は元来、ピンチになったら誰かが助けに来るとか、そんな都合の良い展開を信じちゃいなかった。恐らくは待ち構えていたのだろう。自分の身を挺して、午尾を助けるその瞬間を。
「……ありがとう」
運転席で、ゴーグルの少女がアクセルとブレーキを同時に踏み込んだ。強化ガラスの前で、ドリルが勢い良く回転を始める。小型採掘機が武者震いするかのように振動した。
「決闘指環は!? 手に入れたの!?」
助手席なんて洒落たものはないから、後ろのスペースでテトリスみたいに身を捩り、午尾は右の掌を開いて見せた。先ほど不死身から奪い取ったばかりの、龍の紋章が刻まれた、銀色の指環。少女が首を伸ばして、匂いを嗅ぐ猫のようにそれを覗き込んだ。
「これが……決闘指環」
「嗚呼。これで……」
銀の指環が午尾の掌の上で、キラリと光った。
これで俺も、ルールを設定する側に回れる。
もうアイツらに、一方的に不利な条件を押し付けられなくて済む。
午尾は不敵に笑った。これでお互い同じ土俵で、心ゆくまで真剣勝負ができるってワケだ。