第1話 さらば青春の光
約束の時間は、とっくに過ぎていた。
天井付近に備え付けられた小窓の向こうでは、深い青に染まった空に三日月が滲んでいる。星は見えない。分厚いコンクリートの壁越しでも、凍えるような冷気は容赦なく忍び寄ってきた。
午尾日向は、両手首に食い込んだ銀の手錠を気怠げに持ち上げ、隠し持っていた最後の一本を口に咥えた。煙草である。とはいえライターが無いので火は点かない。口の中にじわりと広がる苦い葉のフレーバーも、所詮気休めに過ぎなかった。彼は無意識に膝を揺すった。
『おーっと! ここでジャーマン・スープレックスだあッ!』
部屋の中は薄暗かった。鉄格子の向こう側、廊下の床に埋められた立体テレビでは、先ほどから公開処刑の様子が映し出されていた。上半身裸の、目が痛くなるほど極彩色の衣装に身を包んだ男が、白黒縞模様の囚人と、先ほどからリングの中で死闘を続けている。
『決まったぁッ! これは痛い! どうなる主人公!? 立てるのか主人公!?』
……くだらねぇ。
火の点かない煙草を咥えたまま、午尾はその中継を醒めた目で眺めていた。
どうせ主人公側が勝つに決まっている。
結末は既に決まっている。
いつだって悪役は成敗される。それもそのはず、これは真剣勝負でも何でもなく、政府主導の、正義の味方が悪人を懲らしめる様子を見てスカッとしよう……と言う、TVショー用に作られた台本に過ぎないのだ。
だから世間では公開処刑と呼ばれている。
実況者がどんなに声を枯らしてピンチを煽ったところで、ブックメーカーが既に台本を用意しているのは、今や小学生でも知っている周知の事実だった。
冷たい壁に背を預け、午尾は立体映像の右端、20:34という時計表示を確認した。試合開始から既に一時間以上経過している。計画は失敗か。拳をギュッと握り締め、午尾は自然と歯軋りした。
『どうする主人公!? どうなる主人公!? このまま負けてしまうのかーッ!?』
画面の中では売り出し中の若手主人公が、振付師に教えられたばっかりのぎこちないポーズを決めている。笑っちまうような青臭い台詞を、必死の丸暗記で棒読みしているところだった。午尾は頭を振った。ダメだ。とても見ていられない。
だがこんな見え見えの勧善懲悪でも、犯罪抑制に一定の効果はあるようで(あるいはあると信じたいようで)、こうして監獄の中でも放送されている。罪人の公開処刑は連日満員御礼の大人気コンテンツと化していた。
「ねえ」
「ん?」
突然壁の向こうから声をかけられ、午尾は我に返った。分厚いコンクリートの向こうから、幼子のような陽気な声が響いてきた。
「どっちが勝つと思う?」
「あ?」
鉄格子に顔を押し当てるも、あいにく隣の部屋の様子は見えない。どうやら午尾と同じように捕えられた囚人らしいが……それにしてはやけに声が若い。
「この勝負、どうなっちゃうのかなぁ!?」
「ばかお前……ンなもん決まってんだろ」
午尾はせせら笑った。
「こんなもん八百長だよ。この物語は、主人公側が絶対に勝つように出来てんだよ」
重たい鉄球付きの手錠がなければ、肩をすくめてみせたところだ。
「でも……勝負は最後まで何があるか分かんないじゃない」
「フン。勝負ねえ。主人公に勝ったら減刑……確かに罪人にゃそう教えられるが、あいにく今まで勝った奴はいないよ」
「そうなの?」
「見ろよ。あの決闘場」
午尾は鉄格子の向こうで踊る立体映像に目を移した。中央に備え付けられた四角いリングの中で、善人側と悪人側、2人の男たちが取っ組み合いを続けている。
「あの決闘場は、特殊ルールで、中には2人しか入れない。観客に危険が及ぶのを防ぐため……表向きはそうなっている」
「表向き?」
「奴らはピンチになったら、都合良く仲間を呼べるんだよ」
午尾は苦虫を噛み潰したような顔で唸った。
「アイツらだけ出入りは自由なんだ。それどころか、武器の持ち込みも、休憩も、向こうだけ自由自在だ。その間俺たちは……悪人側は死ぬまで戦い続けなきゃならない。最初からフェアな勝負じゃないのさ」
「そんな……そうなの?」
「あの囚人……6359番が負けたら、次は俺かお前の番かもな。今のうちにウォームアップしといた方が良いんじゃないのか?」
言いながら午尾は床に横になった。ばかばかしい。何が真剣勝負だ。何が命懸けの戦いだ。命をかけているのはむしろ悪役の方だ。アイツらは、才能があるんだか知らないが、ヘラヘラと手を抜いて勝てる相手としか勝負せず、まるで弱いものいじめみたいに獲物を痛ぶるだけの、
「あ! 見て!」
再び隣の部屋が甲高い声を上げて、午尾は顔だけ鉄格子に向けた。
「変身した!」
「嗚呼……良くもまぁ、ピンチになると都合良く覚醒するもんだよな」
立体映像では、主人公側が謎の光に包まれ、ドライアイスの向こう側でド派手なド赤色のドスーツにド着替えていた。その間、数秒。ド遅い。圧倒的な修練不足だ。あんな奴、俺なら変身中に止めを刺すのに……しかし台本が用意されている以上、それも叶わぬ夢だった。
「すごい! かっこいい!」
「毎年玩具メーカーと契約して、売れそうなスーツと武器が大量生産されてるんだ。今じゃ一億総主人公社会だからな。護身用の武器を携帯していない人間の方が少ないだろう」
鵜の目鷹の目、みんなして悪人を裁くチャンスを狙っているのだ。
「悪役は武器を持てないの?」
「ばかお前。悪役が使うのは凶器さ。同じナイフでも、善人が使えば武器、悪役が使えば凶器って呼ばれるんだ」
「ふぅん。じゃあ武器と凶器って、何がどう違うの?」
午尾は次第に隣の囚人に興味を覚えてきた。妙な奴だ。ここにぶち込まれた奴らは……午尾と同じように……大抵心が荒んで社会や人間に憎しみを募らせているはずなのに。何だか純粋に、キラキラと目を輝かせ、目の前の戦いを楽しんでいるような気がする。気がする……というのは、実際に顔を見た訳じゃないから、単なる推測でしかないからだが。
「……お前、名前は?」
「『サッカーボール』」
「……サッカーボールは喋らないが」
まさか本当に、サッカーボール型の怪人というわけではあるまい。
「なぁお前……暇なら俺たちの計画に付き合わないか?」
「計画?」
「ああそうだ。あの決闘場でな……八百長じゃない、本当の真剣勝負をキメないかってことだ。ひひひ」
「え……でも」
「俺たちについて来い。そしたらお前を、立派な悪役ォにしてやるよ」
「え!? ぼ、僕が主人公に!?」
「嗚呼……」
頭数は多いに越したことはない……とはいえ計画は、既に大幅に遅れている訳だが。20:48。そろそろ終幕の時間だった。これから一回CMを挟んで、その後で決着がつくだろう。
「でも……僕」
「何だよ?」
「僕……弱いし」
「…………」
「今まで戦ったことなんてないし……何の能力もないし。無理だよ。誰かと争うのも正直言って好きじゃないんだ。血統書もないただの雑種だしさ。僕は……弱い人間は、生まれてきたことが罪だって」
「あのなあ!」
その言葉にとうとう午尾は声を荒げた。それは彼自身が、誕生罪でここに収監されたことともあるいは関係があるのかもしれない。
「知るかよ! お前の今までなんて! お前が何人だろうが! 何者だろうが何役だろうが! 何が好きで何が嫌いだろうが! どんだけ悲しい過去があろうが、決闘場の上じゃ何ッの関係もないッ! 戦うのか、戦わないのか、どっちなんだ!?」
「日向さん……」
「6677番!」
すると突然、看守が懐中電灯のギラつく光線をこちらに浴びせ、大股で歩み寄ってきた。眩しそうに目を細める午尾の独房の前で立ち止まると、ブクブクに太った看守が犬のように唸り声を上げた。
「出番だぞ」
「ん?」
「6359番が、予定より早く死んだ」
死んだ。まるで服に汚れが付いた、といった調子で看守が吐き捨てた。立体TVでは中継が途絶え、『ただいま映像が乱れております』の文字が踊っている。
「ふん。軟弱者めが。CM前に死ぬとは、ご覧のスポンサーに申し訳ないと思わんのか」
「…………」
「出ろ。貴様は次の対決の繋ぎだ。せいぜい3分は持ってくれよ。そしたら好きに死んでいいぞ」
鉄格子が開かれた。
午尾はずるずると鉄球を引きずりながら、看守に引っ張られるようにして牢獄から出た。切れかけの蛍光灯が、死に損ないの虫ケラの羽音みたいな不協和音を上げている。午尾は火の点かないタバコを諦め、短く白い息を吐いた。独房の外も中と大して変わらない寒さだった。隙間風が吹くたび、灰色の壁にゆらゆらと黒い影が揺れる。
「なぁ……」
「私語は慎めッ! この犯罪者がッ!」
「俺の隣に、誰か収監されてなかったか?」
出口に向かう途中、午尾はおや、と思い立ち止まった。隣の牢獄。覗き込むと、その中には誰もいなかった。看守はますます眉を顰め、奇妙なものでも見るような目つきで午尾を睨んだ。
「妙なことを言うな。此処には元々貴様以外誰もおらん」
「……サッカーボールも?」
「サッカーボール? 貴様はさっきから何を言っておるのだ?」
「いや……」
「ほら6677番、立ち止まるな! 行くぞ!」
看守が苦々しく囚人番号を叫ぶ。午尾は後ろを振り返りながら小首をかしげた。
そういえば、どうしてアイツ、俺の名前を知っていたんだろう?