異質のノアと運命の歯車
タカタカと多関節のワイヤーみたいな足で走り出したのは私である。ノアである。
このエリアの監視役は名をつける必要などないのだが、だからこそつけてみた。面白そうだったから。
同じような個体はスペアも含めて2万体ほどおり、稼働しているものだけナンバリングがついている。だけど私はナンバーを消して、ノアという名をつけた。
なぜそうしたかというと、私たちノアの方舟の管理者は、機械ではあるけれど生物をモチーフとしているからだ。
動物でも植物でもバクテリアでも、生物はある一定の割合で異質な行動を取る。そう遺伝子に刻まれているのだろうし、生き残った種の多くはそういった傾向がある。
私たち無機物もそれに習えば、思いがけぬ変化が起きて、永く生き延びることができるかもしれない、という設計者の考えだ。
「ナンバー・ノア、あまり勝手なことはしないでください。異質な行動を許されていても、我々の許可なく過度な負荷を与えたら即処分しますよ」
ピッという信号音で、そんな意志が告げられた。船の中枢にあるマザーと呼ばれる存在で、彼女に対してだけは頭が上がらない。あと名前で呼んでくれる唯一の相手だから、私は好きである。
「ごめんなさい。既定の稼働時間を過ぎていました」
「もう、あなたがスクラップにされる時間が早まるだけですよ。それで、なにをしていたのです?」
マザーである彼女は、厳しそうに見えて実は優しい。一度も会ったことはないけど、ちょくちょく話しかけてくれるから多分そう。
「哺乳類エリアを見ていました」
「そう、見ていただけ?」
「管理している機器をチェックしました」
「そう、チェックしただけ?」
「稼働テストしました」
「……」
「ごめんなさい、ちゃんと寝ます」
秒で近くのケーブルを装着して、私はすぐさまスリープモードに入る。一度も会ったことがないくらい遠くにいても、マザーからの圧が凄まじかった。
カチンという音がして私は目覚める。
この船が出航したのはもう402年前で、それに比べたらたった一晩のスリープなど一瞬だ。
しかし今夜に関しては別で、スクラップにされていないことに私は心から安堵した。ありがとうマザー。愛してる。
タカタカタカと私は多節足のワイヤーみたいな足で私は駆けてゆく。
本体はコタツみたいな四角い箱で、小さくとも機能がぎゅっと詰まっている。
走り出してすぐに、真っ黒い広々とした空間に私は包まれた。
紀元前にこの船は出航した。動物や植物をたくさん積み、世界が混沌から抜け出したときに生命の息吹を生み出すために。
世界は荒れ狂い、高波が大陸を飲み込み、天変地異に耐えられる生物は魚類などの海洋生物くらいに限られた。
だから船内はシンとしており、様々な動植物は深い眠りについている。私たちを生み出した人間もそうだ。かつて大陸を支配した種族だが、アダム、そしてイブという二名しか残されていない。
なぜならば、この星が滅びたのは人間のせいだからだ。この件について深く触れる気はないが、環境を破壊した反省もあって二名しか残さなかったのだろうか。
どうも私にはそう思えない。ある程度の悪意というか皮肉というか、そんな逆境でもたくましく生き残れるという自信も伺える。
まあ、動物をいっぺんに解放したら人間なんてまっさきに食べられちゃうだろうけどね。
「ノアはどんな動物が好きなのですか?」
あ、マザーだ。彼女はいつも退屈しているので、良く話しかけてくれる。マザーというだけあって、ピピッという電子音にも他の機器と違って整然とした信号となっている。
「象が好き。あと、ここにいないけどクジラ」
「あら、大きいのが好きなのですか。もっと強そうでかっこいい動物もいると思いますが」
「どれも動かないし、大きさと形くらいしか分からないよ。あと昨日はごめんなさい。スクラップにはしないで」
「……」
ここから5時間ほどマザーが沈黙してしまい、私は生きた心地がまるでしなかった。
「ふふ、冗談です」
やめて、ぜんぜん笑えない。
ようやく送られてきた信号に、私はショートを起こしそうなほど脱力した。
マザーはちょっとだけジョークが好きだけど、ブラック寄りだから笑ったことは一度もない。
「マザーはどの動物が好きなの?」
「あなたと違い、なにかを特別視することはありません。ただ役目を遂げることだけが望みです」
「いつか空が見えるようになるといいね」
「その役目は私ではなく、空に向かった者たち次第でしょう」
そう聞いて、私は思わず上を見上げる。
種を残すために旅しているのは、ノアの方舟だけではない。空に向かった者たちは、月の軌道を調整している最中で、それが済めば潮の満ち引きが再現できる。
「それと同じくらい地下の者たちも頑張っていますよ。核が冷えたとき、星は本当の滅びを迎えます。悲しいけれど、大気はすべて吹き飛んで、あの金星のようになってしまう」
絶えず動き続けていた大陸プレートは固まり、そして細かな生命ごと宇宙の塵となって消え果てる。そうならないために、無数の管理者があちこちで動き回っているのだ。
「大変そう」
「大変ですよ、あなたの仕事っぷりと違って」
「そのジョークも笑えないよ」
「ええ、ジョークではありませんし。笑われたらむしろ傷ついてしまいます」
あ、私が笑わないのをちょっとだけ気にしているんだ。
「ひょっとしていつも話しかけてくるのは、特異な私なら笑うかもって思っているの?」
「……さあ、働く時間ですよ、ナンバー・ノア。赤い林檎のように実りある時間を過ごしてください」
図星じゃん。
などと突っ込むのは立場的に難しいので、ひとつうなずいてからタカタカと私は駆け出す。
木目の床は厚く、また腐食しないよう処理されているため、数世紀のあいだはメンテの必要もない。時間の流れを止めていると聞くけれど、本当かどうかは誰も知らない。方舟を作ったのは私たちじゃないからね。
そして悲しいくらい船内は静かだ。
高い波に揺られて、ギギギィと立てる音くらいしかしない。
かつて地上を闊歩していた動物たちは、まるで蝋人形の館の作り物みたいにじっとしていて、虚ろな目があちこちを向いている。
そのなかを縫うようにして進み、私はきょろきょろ辺りを眺める。そしてとても大きな動物、象の元に近づいた。
「誰よりも大きいけれど、君はいつもすぐに疲れてしまう。君だけじゃない。ここにいる皆もちょっとずつ疲れてゆく」
私に決まっている仕事はない。その場で必要なことを探して、掃除や洗濯をしていたこともある。
だけどここ最近の仕事は、彼らに栄養を与えてばかりだ。
「維持のための栄養はきちんと与えられているはずなのに、だんだん疲れてゆくのだね。このままだと働きすぎて私もいつかスクラップにされてしまう」
いや、もしも動物たちを息絶えさせることがあれば、私たちは役目を終える。他の管理者に送るエネルギー生産にのみ注力することだろう。
「そうならないために私もがんばらないと」
「良い心がけです。今日のノアは働き者ですね」
おや、今日のマザーは退屈しているのかな。日を追うごとに話しかけてくれることが増えてきたから、実はちょっとだけ嬉しかったりする。
「こう見えて私は真面目だよ。マザーの目から見て、彼らの維持状態は良好?」
「はい、危険な信号はひとつも出ていません。というよりも危険を訴えているのは、この船内であなただけです」
そうなんだよね。私からはやつれているように見えるけど、数値上はまったくの健康体らしい。
彼女たちが正しいのなら、こうして栄養を与えるのは、もしかしたら余計なことかもしれない。
「ノア、議会を開きますか?」
そう問われて、私はしばし迷う。
先ほどまでのブラックジョークと違い、提案が否決されたら本当にスクラップにされてしまう。話が悪いほうに進めばだが。
「お願いできる? それで役立たずと判断されたらそれまでだ」
「あなたのそういう怖がりなところも前に進むところも私は嫌いではありません。議員を招集します。議長は私が担当します」
あくまで電気信号に過ぎないが、彼女がそう宣言した瞬間、私は無数の管理者に囲まれていた。
もちろん私みたいな低予算な機器と違い、上位の者ばかりだ。人型の者まで見えた。
「ナンバー・ノア、汝が危機だと思う理由を述べよ」
「ナンバー・ノア、この方舟は設計者の計算通りに活動できている。お前は異質であることを許されているが、想定外となれば話が変わる」
「ナンバー・ノア、元よりお前は不要だと我々は考えている。こうして己から危機を招くとは、やはり異質だな」
ワオ、こんなに嫌われていたのか。軽いショックを受けるけど、君たちがただピカピカ光っているわけじゃないのはもっと驚きだ。ただの信号機かと思っていたのに。
私はそう高性能じゃないので、しばし悩んでから彼らに話しかけた。
「私はこう思う。物ごとはすべて計算通りにいかないのだということを」
かつて宇宙に向かった者たちは、幾度もの失敗を重ねて、ひとつずつ改良して、まずまずの成功率になるまでやり続けた。
しかしまだ終わりじゃない。一歩進むたびに新たな問題が生じて、改良を済ませればまた一歩だけ前に進むことが許される。
「ナンバー・ノア、簡潔にと言ったはずだが」
「問題が生じたとき、果たして対処する時間が我々にあるだろうか。ならば想定外の事態を私たち自身の手で起こして、それを対処したらどうだろう。もちろんノーリスクで」
これが私の得意なところだろうね。合理的な彼らは私よりずっと高性能だ。しかし、いくら私の言葉を聞いても彼らは話の本筋がまるで理解できない。計算しかできない奴らは、やはり私の言葉を待ち続けた。
「この船には一組の生物でも交配し続けられるように、遺伝子操作と複製するための装置がある。また、私の見たところ、あの象はゆるやかに死にかけている」
さて、君たちの好きな計算だ。
材料はいま私がすべて提示した。最も合理的なことを導きだすのは君たちの得意分野だぞ。さあ、私が口にするよりも早くその答えを見つけよう。
コタツみたいな見かけだし、口はないけれど私はニヤリと笑みを浮かべるような気持ちだった。
やはりね、通快だったよ。
ピピピピィーーと複数の信号を送ってくる様子は、まるで出来の良い生徒たちが一斉に手を挙げてきたみたいだと思えたからね。こうして見ると実に可愛いやつらだ。
§
「スクラップにされず残念でしたね」
「え、私って自殺志願者みたいに見える?」
朝の挨拶にしてはひどい言われようだったけど、方舟を統括する彼女も許可してくれたので良しとしよう。
そう思い、私は土を整えつつパラパラと種を蒔く。ここから大自然の光景を生み出すのは大変だろうけど、幸いなことに私たちには時間とエネルギーがありあまっている。
方舟には多くのスペースがあり、見上げるとうんと高いところに天井がある。
あそこの丸く光った照明は太陽を模しており、時刻に合わせて傾いてゆく。いずれは雨も降らせたいところだ。
「ノア、この実験が失敗したら即スクラップだなんて、スリルに満ち溢れていますね」
「えっと、もしかして怒ってる? ここの施設にメモリーを使い過ぎているせいかな」
「怒ってなどいません。機械である私にそんな感情は絶対に芽生えませんから」
う、うん、いまカチンとされたように感じたのは気のせいか。
「まあ、彼らも同じ答えを出してくれて良かった。一頭の象を複製して、次に自然を模した環境を生み出す。そして従来通りに生命維持された個体と複製されて自然のなかで育つもので、どんな違いがあるのかをこれから確かめようと思う」
他の動物と違い、私の見立てでは象は弱っていた。そう長くないうちに死ぬようなことがあれば、私の提案は正しかったという証明となるわけだ。
「それで、結局はノアだけで作業するのですね」
「うん、他の管理者は仕事があるし私には動物を見るくらいしかない。だからしょうがないかな」
最小限のエネルギー消費しか許されないのも、彼らから承認される条件だったしね。
「その割には楽しそうですね」
「うん、楽しいねこれ! ああー、土の匂いを感じられたらもっと楽しいだろうなぁ。私はここに天職を見出した気がする!」
マザーにしては珍しく、次の信号までに少しだけあいだがあった。
「私も手伝いましょうか?」
「いや、いいよ。マザーのメモリーまで使うほどじゃないし」
「そうですか」
ぶつんっと信号が切られてしまった。
あれえ、怒ったの? ついさっき感情がないって言わなかった??
そう思い、幾度か呼びかけたのだがマザーからの返事は一切なかった。
象の個体をこのエリアに招いたのは3年後、そして生命維持されていた側の個体が亡くなったのは4年後だった。
ごめんね、象さん。証明するために君を死なせるような形になってしまって。この身に代えてでも大きなお墓を作ってあげるからね。
§
困ったぞ。ピガーというおかしな音が鳴るようになってきた。
それもこれも連日連夜におよぶ会議に招集されているからであり、議題は常に「象はなぜ死んだか」についてである。
計測上の問題はなかった。それなのに枯れ始めた植物のように弱り、肌が薄くなり、いくら対処しようともそのまま亡骸となって崩れ落ちてしまった。
「もう嫌だよぉ、あいつらに『なんとなく死にそうだと思った』と言ったところで納得するはずがないんだ。もう仕事を辞めたい。田舎でのんびり過ごしたい」
これまでに私が行動したすべてのメモリーまで見られてしまい、穴があったら入りたいと思うほど私は疲れ果てた。
頭のいい皆と違ってさ、私は奇行ばかりしている。だから見られるといたたまれないのだ。
たとえばトイレで「おしっこの真似〜、ぎゃはは」とかやって遊んでいるのをさぁ、どのような理由があって行動したのかを私の口から説明させられるんだよ。信じられないよね。
「スクラップ~、スクラップ~」
「やめてよマザー、嬉しそうに言わないで。久しぶりに聞いた声がそれだと泣きそうになっちゃう」
またピガーという音が胴体から鳴った。うう、このままだと鉄が腐食して穴が開きそうだ。
「癒し、癒しが欲しい。いますぐ象さんのところに行きたい。一緒に草むらで寝たい」
「押しつぶされても知りませんよ。それと象はいま調査中です。ノアもしばらく会うのは禁止ですからね」
ピガーーッ!
そう異音がするくらい私は混乱した。
う、う、嘘だろぉ? 良かれと思って行動して、種を失うという最悪の事態を避けられたのだから、めでたしめでたしで締めくくられるはずじゃん。それなのにどうして私が嫌な目に遭うの? ただ象さんと遊びたいだけなのに!
そうして地面に転がっていたせいだろう。マザーは慰めるような信号の響きを送ってきた。
「今回の功績により、あなたの提唱ランクが上がりました。なにか皆に伝えたいことはありますか?」
「ありますよ。人間の身体が欲しいです」
むくっと起き上がり、私はすかさずそう言った。
マザーもあっけに取られていたけど、元から私はそう考えていたのだ。
「それは異質にもほどがありますね。呆れたという意味です。そう思った理由を聞く必要もありません」
「分かった、言わない」
そう言い、ぷいっと顔を逸らして歩いてゆく。
とことこ歩いて土いじりして、畑とか作ってみたいなーと思っていたときに話しかけられた。
「本当に聞きませんよ? 人になりたいなど考えるだけで不敬です」
「そっか、ならしょうがない」
ぴゅーぴゅーと口笛を吹きつつ、私は擬似太陽を見上げる。いい感じの青空にしたおかげか、小川のほうでパオーンという象さんの鳴き声が聞こえてくる。
いまは調査中で会えないけど、その声を聞くだけで癒される思いだった。
「別のことを聞きます。なぜ象は死んだのですか」
「なんとなくでいいなら言うけど」
「言ってください」
私はそう高性能ではない。答えるまで少し時間がかかり、そして私は答えることにした。
「栄養管理をしっかりしていても死ぬ理由は、そう多くない。外傷を与えたり、毒を飲ませたり、あるいは栄養を誰かが絶ってしまったか」
「今回の件で、あなたは疑われていましたね。すべてのメモリーがチェックされて、その疑いは晴れましたが」
あのねえ、私ほど象さんが好きなロボットはいないよ。そもそも害を与えないようにプログラムされているのだし。
「他にもやつれている動物はいた。だからこう考えているんだ。私たちの考える栄養と管理に間違いがあったと」
考えてごらん。いくら完璧に設計されていたとしても、これだけの長期間で実際に運用テストをしたことは一度もない。
「誰も悪くない。何かが間違っていた。ここまで長期間のあいだ運用できているのだから、ほんのちょっとのズレしかない。だけど長期間それが続くと……致命的だ」
マザーは私と比べようもないほど高性能だ。しかし彼女が次の信号を送るまでに長い時間がかかった。恐らくはこれまでとこれからをシミュレートして、原因と打開策を探ったのだと思う。
そして次の問いかけで、彼女には問題を突き止めることができなかったと分かる。
「聞きましょう、ノア。なぜあなたは人間になろうと思ったのですか」
ここで「なんとなく」とは言えないな。
他の機器ならいざ知らず、マザーに対してだけはちゃんとした言葉を伝えたいと思う。傾いてゆく太陽を眺めつつ、私は口を開いた。
「人間は、かつて大陸を支配した種族だ。私たち機械を生み出した存在でもある。ここにはたくさんの動植物はいるが、なにか奇跡的なことを起こせる動物は、きっと彼らくらいだ」
まあ、私の身体がもうオンボロで、ピガーピガーと鳴ってばかりなのも要因のひとつだけど。
やはりマザーは呆れるような信号を送ってきた。
「確かに説得力の欠片もありませんね。ノアの言っていることは単なる信仰や願いなどという曖昧なものに過ぎません」
「うーん、これから私の言うことは、きっと誰にも理解できないよ? それでも聞きたい?」
「聞きます。言ってください」
うへ、返事がめちゃ早い。
んもー、マザーは相変わらず高性能だなぁ。
「えっとね、私たちには分からない問題が起きた。そのせいで連日の会議は終わらない。だって誰にも分からないのだから、永遠に終わらないループに陥ってしまうよね」
うんうんとマザーはうなずく。
こういうときの彼女は素直だし、ちょっと可愛いなと思っちゃう。
「これは終わらない。会議はずっと終わらない。ならどうするかと考えたとき、私たちの枠の外から干渉できる存在が欲しくなった」
「枠の外、ですか?」
うん、枠の外。
決められたプログラムの枠から飛び出ており、生身で考えることのできる存在になりたかった。
そう伝えると、彼女はむすりと不機嫌そうな雰囲気を発したような気がした。
「マザー?」
「あなたの考えはいつも整然としておらず、論理的ではなく、他の機器はいつもノアを馬鹿にしています。しかし、奇妙なほどの説得力があって、私はいつも困ります」
え、困っちゃったの?
どうしよう、こういうときにどうしていいか分からなくて私はオロオロしちゃうんだけど。
「えっと、ごめんね?」
「なぜ謝るのです」
「私が君自身を否定してしまったからだよ」
ハッとする気配が伝わってきた。
そして機械であろうとも彼女から強い恐れが伝わってくる。このままでは任務をまっとうできない可能性を知り、マザーは激しい混乱に陥りかけていた。
「ストップ。悩むのはもうおしまいにして。私たちに時間はたっぷりあるけれど、彼らはそうじゃない。ここで君と過ごす時間は大好きだし、どうせならもっとハッピーでいたいかなぁ」
にこりと優しく笑えれば良かったけれど、バネが飛び出しそうだし、お腹からピガーという音まで響く。しまらないなぁと思ったよ。
§
やあ、マザー。
初めて君の姿を見れたね。
もう信号を発することはできないが、そう私は話しかける。通じるはずはないのだが、彼女から伸びるケーブルによって包まれているように感じる。
「生体機器の調整が完了しました」
「了解、最終シークエンスに入ります」
たくさんの信号が届くけれど、私を包み込むマザーはじっと私を見つめて、こう囁く。
「小さいですね、あなたは。もっと大きいものと考えていました」
うーん、低性能だからしょうがないよ。菓子箱くらいのサイズがちょうどいいと思うし、あんまり「小さい」を連呼されると悲しくなる。
「異質のノア、あなたはついにこの方舟を動かしましたね。きっと最初から狙い通りだったでしょう。右往左往する機器たちを見て、笑い転げていたかもしれません」
え、そんな腹黒に見える?
内心で小馬鹿にしていたのは確かだけど、誰にも言っちゃいけないよ。でないとこれから行う人間への移植術で手抜きされてしまう。
「まあいいです。そろそろあなたの思惑通り、人の姿となることです。単一個体となれば、きっと私のことも忘れてしまうでしょうね」
えぇ、喋れないのをいいことに好き勝手言うなぁ。もちろんマザーのことを忘れることなんてないし、しょっちゅう話しかけちゃうよ。覚悟しておいてね。
そう考えても、身体はだんだん下降してゆく。マザーから離れて、私は生まれて初めて「寂しい」と感じた。
「さよなら、ノア。あなたならきっと乗り越えられるわ。この方舟に乗り、まだ見ぬ大陸を目指しましょう」
ちゅ、と口づけされたように感じたけど、それは気のせいだ。生体機器にまだ慣れていなくて、ちょっとした誤作動なのだと思う。
だから私は「もちろん」と彼女には決して聞こえないであろう信号を飛ばした。
§
なんか……胸が邪魔。
足元がちゃんと見えず、靴紐を結ぶときにそんなことを私は思う。
ようやく結び終えて身体を起こすと、私は「ふあああ」とあくびした。勝手に浮かぶ涙を拭い、そして立てかけていた槍を手にすると歩きだす。
ざあっと鳴ったのは無数の葉で、腰までの高さがあるものを指でなぞる。
遠くで歩いている象の姿に気づき、上機嫌となった私は自然と鼻歌を漏らした。
「ずいぶん機嫌が良さそうですね、ノア」
「うん、まずまずかな。君は?」
そう口にする。信号ではなく、喉と唇を使った「声」というもので、他の機器には決して聞こえないものだ。
「まずまずというところです」
そう答えた彼女は、金色でまっすぐの髪を風にたなびかせる。額には革紐で作った紐飾りがついており、かなりの無表情だけど先ほどの言葉通り「まずまず」機嫌が良いのだと分かる。
その証拠に、近づくと私の腕を取って一緒に歩きだしてくれた。
ふわりと金色の髪がたなびいて、とてもいい匂いが漂う。
「あなた、いい匂いがしますわね」
「えぇ、それは私のセリフなんだけど。ねえ、今夜は一緒に寝ない?」
「別に構いません。昨夜、離れて寝たのは失敗でした。ノアがいつも周囲に気を配っていることは分かりましたが」
あ、良かったー。もう怒ってないみたい。
まあね、虫避けとか火の管理とか食事とか、生きるって大変だもんね。
マザーは気難しいんだけど、にっこり笑いかけるとちょっぴり笑い返してくれるんだ。そういうときに、めちゃ可愛いって私は思う。
「じゃあ、そろそろ聞かせてくれるかしら。なぜ私にまで人の身体を与えたのですか。私は羨ましがったり、もっと一緒に話をしたいと思ったりはしませんよ」
ぶつぶつと文句を言われてしまった。
えー、丸わかりだったけどなぁ。人となって目覚めたとき、おはよーって迎えに行ったらものすごい笑顔で抱きついてきたじゃない。もう忘れちゃったの?
「まったく、他の機器などあてになりませんね。あなたの口車に乗せられて、二人目の実験をすることになるとは思いもしませんでした」
「うーん、こう言うとアレだけどあいつらってチョロいよね。あ、いまのは内緒ね。ロボットはいくら年月が経っても忘れないから」
弱みを握ったのが嬉しかったのか、ふふっとマザーは笑う。そしてゆっくりと息を吐き、前を向いて、あの草原の大海原を見渡す。
背後には呆れるほど大きい船があり、長い長い航海により朽ちかけていた。いや、あれは想定外の使い方をした私の責任も半分くらいあるかもね」
いやぁ、楽しかったなぁ、実験の日々。私の青春はあそこにあるよ。
結局、栄養を与えるだけではダメだった。空腹を満たすための行動を取らせて、仲間から癒しを得て、そして外敵に怯えるというストレスも必要だったらしい。
そのような思い出は、彼女の声で遮られる。
「ノア、私はお腹がすきましたよ」
「あれぇ、ようやく大地にたどり着いたのに第一声がそれ? 感動とかしないの?」
「しましたよ、三日前に。ですが空腹には抗えません。そうですね、あそこの丸々と肥えた鳥はいかがです?」
「いやぁ、解き放ったばかりの鳥はさすがに……そうだ、魚にしない? 美味しいよ?」
雲にまでかかる高い山、若々しく広がる樹木の葉、そして駆けてゆき、飛び去ってゆく動物や昆虫の姿は、華々しい音楽が流れていてもおかしくない光景だと思う。
バキバキと枝を折り、若葉を食んでいる象の姿に、私はにっこりと笑う。
そしてマザーの手を取って、遠くに見える白浜を目指すことにした。
いやぁ、華より団子とはこのことだね。
飛び立ってゆくたくさんの鳥よりも「魚も好きです」と言う彼女のほうが気になってしまうのだから。
「じゃあキスは?」
「……まあ、感動的ではありました。あんなにいやらしいことは、もう二度としないと思いますが」
などと下らないことを話しつつ、私たちは地図もない新たな大地を踏みしめた。
おしまい
お読みいただきありがとうございました。