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帰郷

作者: 鷲宇 良

零 (二〇〇八年四月)


 亮二は、中国語学習とネットを通じてのビジネス情報の収集に明け暮れた。野菜の仕入れと配達を手早く終えられるようになり、自分としては満足な時間を割り当てられた。

「久しぶりだな」

 その日、彼はいきなり亮二の前に現れた。

「あんたか」

 背広に柔らかな薄手のコートを羽織っている。靴はイタリア製のブランドものだ。この男が、靴に関して延々と蘊蓄を披露していたのを思い出した。派手なペイズリー柄のネクタイの上に、かつてビジネス誌をにぎわせた顔が乗っている。

 雰囲気は昔とあまり変わらず、大きなカネを動かしているビジネスマンの匂いがする。鞄は持っていないが向かいの道端に停めたBMWの中だろう。

 こちらは、いつものセーター、ブルゾン、ジーンズだ。作業靴は、この間、業務用品専門量販店で買ってきた。後ろには幌付きの二トントラックがある。

「元気そうじゃないか。八百屋が板についてきたな」

 いかにも言いそうな台詞を言った。

「何の用だ」

 亮二もそう返さざるを得ない。

「三年ぶりだろう。ちょっと話がある」

「あんたと話をする時間はない」

 こいつは、会いたくない人物リスト上位三人のうちの一人だ。

「こちらにはある」

 以前と同様に高飛車だ。

「君の生活パターンはわかっている。この後はいつも家にこもる時間じゃないか」

「今は、ネットがあるから仕事は家の中でもできるのさ。だから結構忙しくてな」

「まあ、悪い話ではない。手を貸して欲しい。報酬も出す」

「あんた、いろいろな筋から追われていただろう。そのあたりは身ぎれいになったのか」

「マスコミはもう忘れてくれたようだが、当局はうるさくてな」

「国税か、公安か、外事か」

「まあ、全部だ。債権者はようやく黙らせた。三年かかったがな」

 ここ一週間ほど、何かがちょろちょろしているのは、気づいていた。こんな地方都市の空き店舗だらけの商店街に知らない人間が入ってきて目立たない方がおかしい。

 今日は、中学校の入学式で明日からは沙羅の新学期で初登校だ。 

 荒事は避けよう。

「公安の山案山子には連絡をとっておいたが」

 顔色が変わった。

「まだ、縁が切れていなかったのか」

「あんたとの縁が切れていなそうなので、そちらとの縁も切らないでおいた。あんたに手を貸すつもりはない。さっさと消えないと外事も出てくるぞ」

「いつまで八百屋をやっているつもりだ」

「好きなだけやるさ。早く消えろ」

 彼は、待たせて置いた車に乗り込んで消えた。

 馬鹿なやつだ。これでまた、ヒモがついた。

 古い携帯を取り出して、電話をかけた。

「これでいいだろう。切るぞ」

「また、よろしくな」

 こちらも聞きたくない声だ。

「もう、終わりにしたいな。この携帯も捨てたい」

「もう少し付き合えよ」

「あんたの弱みもこちらで握っていることを忘れずに」

 返事もなく電話は切れた。

 亮二は、彼とのこれまでを思い出した。

 ビジネス誌に、ドリームチームとして取り上げられたこともあった。

 事業がうまく進めば、そうだったのだろう。業務のトラブルが互いの疑心暗鬼を生み、責任のなすりあいと抜け駆け、横領、暴露合戦が始まった。当局の介入も招き、その段階では、ビジネスも人間関係も修復不能だった。カネの切れ目が縁の切れ目という言葉を何度かみしめたろう。だめになるベンチャー企業の見本のような破綻ぶりだった。

 あいつは不愉快だが山案山子も不愉快だ。目の前から消えてもらいたいのは、どちらもだ。そして消えたならば思い出したくもない。

 会社が破綻する時には負債十億円あたり一人、人が死ぬ。そう言った銀行員がいた。それならば、あの事件で何人が死んだのだろう。

 人の噂も七十五日というが、もう三年前の出来事である。ただし、三年前では、思い出す人は多く、今はネットで検索すれば新聞記事からあやしげな噂まですべてでてくる。亮二の名前はトップではないが四番目か五番目に出てくる。三番目は不審死を遂げ、二番目は国外に逃げるように移住し姿を現すことはない。さっき現れたのは亮二と同等の四番目か五番目にでてくる人物だ。どちらが上だったか、今では思い出せないし、思い出したくもない。


一 (二〇〇七年十一月)


 朝、店のシャッターを開ける。二面のシャッターを一ずつ上げて、真ん中の柱を取り外す手順であるが、亮二が帰ってくるまでは、日中もそれをつけたままだったようだ。

 亮二は、柱を取り外して、店の横の駐車場に横たえた。

 一手間かけたわけだが、だからといって亮二に意欲があるわけではない。亮二の母は店の奥でいつものように日本茶を飲んでいる。

 父親が膝を悪くしたのを契機に椅子とテーブルを畳の上に置いた部屋である。この古い店舗付き住宅は、かなり痛んでいる。十四、十五年前に買った二〇インチのブラウン管のテレビがあったが、亮二が引き払った賃貸マンションから持ち込んだ四十二型の液晶のものに変えた。古びた家具の部屋に似つかわしくない大きさで、朝の連続ドラマを映している。

 亮二は、早朝に卸売市場から仕入れてきた野菜の段ボール箱を、駐車場で店頭分と配達分に分けた。配達分は、二トン車の荷台にもう一度積み込む。

 この店は、野菜の施設への納入が主な収入源になっている。納入先は、幼稚園が二つ、老人福祉施設が一つである。幼稚園は四十年来の取引であり、老人福祉施設の取引は父親が死ぬ直前にとってきた。

 父親はいざとなったら、店を閉めてその老人福祉施設に入る気だったと聞いていたが、店を開けたまま亡くなってしまった。

 二つの幼稚園は店から概ね同じ距離にあり、亮二と兄は、その二つの幼稚園へ別々に通った。父母は店の周りに気を遣い、亮二と兄は、商店街の中の別々の理髪店に行かされ、別々の本屋や文房具店を使わせられたが、その流れでそうしたのだった。当時のことはよく覚えていないが、少なくとも、将来、自分がその幼稚園に配達をするとは思っていなかった。

 午前中に三つの施設に配達してしまう。幼稚園は昼食分を先に配る。老人福祉施設は三食分なので量があり、それを二トン車の荷台の奥に積み込み、次に届ける。

 この店に戻ってそろそろ九か月になり、いろいろなことに手慣れてきたと自分でも思う。

 この二トン車も古い。父親は新しく買おうとしてカタログを取り寄せ、販売店にも相談していたようだが、亡くなってしまった。

 亮二が帰ってきてから二月もしない時期で、ようやく落ち着き今後の身の振り方を相談しようかと思っていた時期だった。

 ほんの短い期間の手伝いと思っていたのに、いきなり全仕事が亮二に降りかかってきた。ただ、早朝の仕入れから配達、帳簿の付け方、請求の仕方などは一通り見ていたので、問題なくできた。

期末の〆や納税をどうするかは、とりあえず考える時間はありそうだ。

 収入は、八百屋からだけではない。父は、母と共有名義でアパートを二棟所有しており、その家賃が入ってくる。亮二は家に帰ってくるまで全くその存在を知らなかったが、一棟はかなり古く、一棟は築五年だったがローンが残っている。

 父が亡くなった時、失業して帰っていた亮二が、葬儀から遺産相続手続きから全て担うことになった。兄は葬式の際にアメリカから帰ってきて、真ん中に喪主としてそれらしく座っていたが、納骨が済むと去って行った。相続放棄の書面を弁護士に作らせて、後はよろしくとあっという間に消えた。遺産の内容も全く確認しなかった。兄には、それなりの収入はあるようだった。

 独身三十路の子どもが二人が葬儀の客を迎えたわけで、母親は肩身が狭かったと思う。しかも、次男は失業者ときている。いや、店を手伝うために帰ってきたということで紹介はされたが父親が店を閉めると言っていたことは皆知っており、次男は東京で失敗して逃げ帰ってきたとの噂がされていることは亮二もわかっていた。

 当面の食い扶持は確保されており、思ったよりも資産があったことは安心材料だが、それで先が安泰とはいかない。

 今日は、冬野菜、その中でも白菜のいいものが市場に出ていた。野菜の見分け方はなんとなく身についていた。父親が毎日、仕入れの野菜の評価をつぶやいていたのを聞いていたからだろう。

 市場の仲卸にそれを褒められ、そんな能力が自分にあったとは思いもしなかった。亮二は、自分はやはり八百屋の息子なのだと思った。



 午前中に配達を終えてしまうと一日の仕事は終わる。朝五時から卸売市場へ出かけるので、それでも七時間は働いたことになる。夜は九時に寝てしまうので健康的ではあるが、それが繰り返されるだけの単調な日々だ。

 父親が亡くなってからの諸々の片付けがようやく終わり、昼からぽっかりと時間があくことが多くなった。

 周りを見回す余裕が出てきて気づいたのは町の寂れ方だった。この北関東の町は県庁所在地まで電車で二十分ほどの、県下三番目か四番目の町だったはずだが、駅前商店街は地方都市の例に漏れず空き店舗、空き家が目立っている。

 この八百屋は、駅通りから入ったところにあるので、商店街の中では目立たない場所にある。駐車場は自分の店の二トン車一台分しかない。その店がかろうじて開いているのに、駅通りの両側には、亮二が帰ってきてから開いたところを一度も見たことがない店がそれなりの数である。電柱の地中化とカラー舗道の整備は、かなり前にされたようだが、広い空は町の寂れ具合を際立たせ舗装の色はあせつつある。

 子どもの頃は道の両側の歩道もなかったが人混みが絶えず、七夕や夏祭り、年末の売り出し時には文字通り黒山の人だかりがあちらこちらにできていた記憶がある。

 駅前の地元資本による五階建ての百貨店は閉店し、一、二階には全国チェーンの居酒屋と消費者金融の自動融資のブースが並んでいる。三階には、市の出張所とふるさとハローワーク、週に二日しか開かない地元物産の展示・販売コーナーがある。四、五階は空いたままだ。

 その隣はテナントビルで六階建てだが、外付けの看板を見る限り、五階、六階は入居がない弁護士事務所がひとつと司法書士事務所がいくつか三~四階に入り、一~二階は学習塾である。かつては銀行の店舗だったようだが、撤退したようだ。その他には三階建て以上の建物はない。

 亮二は、この商店街が嫌いだった。

 十八歳まで、この商店街で育ったが、その頃は、郊外に大規模なショッピングセンターが建っておらず、中心市街地での大型店舗の立地も制限されており、商店街はまだまだ勢いがあった。郊外へ住宅地やロードサイド店が広がる前に、亮二はそこを離れた。

 商店街は息苦しかった。どこで誰が買い物をしたか、どこへ行ったか、人間関係まで全て互いに把握し合っていた。

 亮二が、大学生になって夏休みに東京から帰ってきたとき、駅から三百メートルも離れていない店にいた母親が、その帰りを知っていた。駅で見かけた亮二のことを先に伝えた者がいたらしい。どこどこの奥さんが赤い服を着て駅から上りの電車に乗ったなどと噂はすぐに店先に届けられた。

 この店は祖父がはじめたもので、父が強制的に継がされた。祖父は近隣の村の農家の三男か四男であり、それなりの苦労をして店を立ち上げたらしい。

 父は東京の理系の大学に行って本当は技術者になりたかったが、商業系に進路を変更した。祖父の強い要求があったと母から聞いた。

 そういう経緯があったからだろうか、亮二から見ても、父も八百屋の仕事が板につかず、また、商店街でも浮いていた。声も小さく、人付き合いも下手だった。商店街組合の役員選挙などは一時は現金が飛び交うほど加熱したが、そうした騒ぎとは距離をとっていた。店の二階には、その柱の細い造りの雑な古い建物には似合わないステレオとレコードのコレクションを持っていて、暇があれば音楽を聴いていた。

 亮二が高校に入る頃にはCDが普及していたが、それでもレコードをかけていた。秋葉原やお茶の水の専門店に時々出入りしていたらしい。

 父が亡くなって、その部屋に入った時には、レコードの山はきれいに消えていた。亮二と兄が街を離れている間に処分をしたらしい。レコードプレーヤーとスピーカーも無かった。

 メモリータイプの新型ウォークマンをコンパクトなボーズのスピーカーにつないで聴いていたらしい。ウォークマンには、数百曲のクラッシックとジャズが入っていた。

「おしゃれじゃねえか」

 亮二はつぶやいた。八百屋には似つかわしくないが、父親らしかった。



 亮二は最低限の仕事を終え午後は映画を見て過ごした。郊外のレンタル店に二トントラックを乗り付けてDVDを借りてくる。毎日一本見る。最新のブルーレイプレーヤーを液晶テレビにつなげてある。気分が乗れば、夜にもう一本、母親が寝てから見る。

 疲れない娯楽作品から見始めたのだが、何か月前からは、スピルバーグ、スコセッシ、ソダーバーグなど監督別に片っ端から見ている。

 朝から六時ぐらいまで開けている店の番は母親の役割である。店に並んでいる野菜はそれなりのものだが、一見の客に売るわけではないので店舗の造作にはほとんど気を遣っていない。野菜だけで加工品や調味料など、普通の八百屋に一緒にありそうな商品は、一切置いていない。

 レジも年代ものであり、合計とレシートを出す機能はあるが、それだけだった。先日壊れたので修理に出そうとしたが、メーカーではもう部品もないという。とりあえず、電卓とメモ、市販の領収書で代用するしかないが、取引数があるわけでもないので全く困らなかった。レジをどけると店先の空間が妙に空くので、現金入れとして使っている。

 決まった客が決まった時間に来て、決まっただけ買っていく。それは母親と同年代の個人客か近所の個人営業の街の中華料理屋と小料理屋である。父親が野菜を届けていたが、その入院でそれができなくなったので、店に買いに来るようになって、そのままの形となっている。といっても店頭で選ぶわけではなく、前の日に注文があった野菜を市場から仕入れて、店先に置いておくと、それを取りに来る形である。

 亮二が届けてもいいのだが、客は店に来れば母親と長話をしていく。父親が亡くなってから、よいよ母とは話しずらいので、亮二はそれをよしとしている。

 働いて映画を見て寝る。それで一日が終わる。二トン車で青果の卸売市場に乗り付け、整理をして配達して、後は家に居る。これが平日である。卸売市場の休場日はずっと家に居ることになる。こんな生活が半年も続いている。母親以外とはほとんど口をきかない。母親ともあまり話をしない。人と話しをするのは、卸売市場での買い付けと配達時のやりとりぐらいである。

 その前は、父親の入院・葬儀や相続手続で必要に迫られ出歩いたが、それが一段落すると生活動線が単調になった。

 映画以外は全く見ない。テレビも見ない。新聞も見ない。ただひたすらやや古めの映画を見る。

 今の情報から隔絶されている。


四 (二〇〇七年十一月)


 亮二は、十一月も末になって久しぶりに県庁所在地の病院に行った。平日の午後に映画を見るのをやめれば、それなりに遠出もできるのだ。

 東京のかかりつけ医から紹介されて、こちらに帰ってきてから一回だけ診察を受けた。それからほぼ半年間、間が空いたといえる。処方薬は、二か月ではなくなったが、それでも、行かなかった。

 さすがに県庁所在地はビルが建っている、と漠然と思った。ビルだよ、ビル。

 東京では、超高層ビルにある職場から皇居を見下ろせたなあ、と少しだけ思い出した。思い出しても目眩がしなくなったのは、それなりに時が経ったからか、メンタル面で改善したからか。

 通院が続かなかったことを責められると思ったが、そうでもなかった。心療内科なので、ビルの上階にあり、患者同士は顔を合わせないように配慮された造作となっている。医者の方針で、たっぷりと診察に時間をとるようにしているらしい。初診では二時間近く話をした。

 それで経済的にやっていけるのだろうかと疑問に思った。何か見るとすぐカネが回るかを考えてしまうのは、かつての職業柄仕方がないだろう。

 その医院は、医者一人、受付一人で看護婦もいないようだった。待合室は無く、受付から直に診療室につながっていた。患者同士が顔を合わせない配慮なのだろう。予約制であり一日に診察する人数を限っているようだった。

 男性の医者は、亮二と同年代か少し上とみた。白衣に灰色のスラックス、足にはスニーカーを履いている。白衣の下はワイシャツと薄いカーディガンだろうか。形式ばらずに、清潔感はある。

 紹介状は、かつて来たときに渡した。カルテなどの個人情報は別途、送られているらしい。

 まずは、ずいぶんと来院の間が空いてしまったことを謝った。

「調子はどうですか」

 医者の聞き方は特に冷たいわけでも親しみをこめたわけでもなかった。亮二は、そう聞くしかないだろうな、と思った。

 普通の生活はできます。これが普通の生活というのならば、と言い、自分の一日の過ごし方を説明した。そして、父の入院・死去・葬式についても話した。

「毎日がとりあえず過ごせていれば合格ですが、もっとこうしたいという希望はありますか」

「こんな過ごし方じゃダメなような気がします」

「きちんと食事ができて、日常生活が送れて、さらに仕事ができている。まず、それだけで合格です」

「かつてのようにベッドから離れられなくなるようなことはないですが」

「お父様がお亡くなりになられて、いろいろ苦労があったと思いますが、きちんと乗り越えられたということですね」

「こう言っては何ですが、父が亡くなったから気が張って、動けるようになったところもあるとは思います」

「薬の処方はいいでしょう。ただ、何かあったならば、できるだけ早くおいでください。動けないようでしたら、電話をかけてください」

「え、往診していだけるのですか」

「民間の救急車を使って、関係のある病院に運びます。もちろん、こちらから診療データはそちらに送ります」

 抗鬱剤の処方はなく、保険証と診察券のみを受け取って、診察料を払い外に出た。

 空は秋から冬に向かう色をしている。県庁所在地ではあるが、やはり地方は東京と空が違う。

 この生活をいつまで続けるのだろう。まずは今年一杯は、様子を見よう。そう時期を区切ると気持ちが軽くなった。

 カフェに入りコーヒーを飲んだ。後ろの席に陣取った年配の女性グループが政治家の話をしていたが、政党名は聴いたことのないものも混じっていた。選挙が何ヶ月か前にあったらしい。

 新聞は店でとっていたはずだが、亮二は読まなかった。それを少し読んでみようと思った。



 冬物、春物、夏秋物でキャベツの種類は違う。そんなことは常識と思っていたが、そうでないということがわかったのは大学へ入ってからだ。

「キャベツはキャベツだろう。とんかつの付け合わせで、そんな味が変わるか」

 そう言われてしまえばそれまでで、それから亮二は野菜に目がきくことは周りに一切言わなかった。

 就職してから一流と言われているレストランや料亭に行くこともあったが、野菜の扱い方がぞんざいな店があることがわかった。 肉・魚には色々と配慮しても、そこに付け合わせる野菜に気をつかう料理人は少ないのだろう。最初に出るサラダは重要だと思うのだが、メインを差し置いて評価することもない。

 目の前の冬キャベツの重さを掌で量りながら、

「残念だな」

 と独りごちた。

 先日も、卸売市場での仲卸に目利きをほめられた。役には立たないとは言わないが、カネにはならない技術だ。

 野菜を届ける幼稚園や高齢者施設から、父親から亮二に替わったことについては苦情も賞賛もなかった。

 亮二が東京から帰ってきて店の仕事を手伝いはじめた時、何日間か父と一緒に施設を回って担当者に挨拶をさせられた。その後、亮二が引き継いですぐに父が入院し、葬式の時さえも配達を休まなかったので、施設の側は父が亡くなったこと自体を知らないのかもしれない。

 施設の担当者には、顔を合わせる時もあれば、ただ野菜を勝手口に置いて帰ることもある。前の日にファックスが入り、それに基づいて卸売市場で野菜を仕入れ、請求書をつけて届ける。月末には、それらをまとめた月締めの請求書を送ると、翌月十日付けで振り込みがある。亮二は、その請求を今まで七回行った。この年末がくれば八回目になる。

 市場は十二月三十日までが年間営業で、その後一月四日まで休みである。年末年始の配達の調整を施設の側としなければ、と亮二は思った。

 十二月らしく風は冷たくなってきている。朝の仕入れ時は、既に真っ暗であるが冬至に向けて闇が濃さが増しているような気がする。

 今年一杯、様子を見るとして過ごしてきたが、来年に向けて何か目処が立つということもなく年末を迎えてしまった。

 結局、新聞も読まなくなってしまった。

 病院から帰ってきて久しぶりに新聞を見てみたが、ちょうど海外から帰ってきて日本語を見た時に似て、漢字とひらがなはこんな形をしていたのか、また文章はこんな言い回しをするのか、と違和感が沸き起こった。

 何々であることがわかった、という言い出しの記事があるのだが、誰がどうわかったのかさっぱりわからない。今後、議論を呼びそうだ、との結びがあるが、誰が何を言いたいのかわからなかった。

 そんなことを考えながら、不器用に新聞紙をめくっていると、突然、黒いものが後ろから立ち上がる感覚がよみがえった。

「あれだ」

 これは近づいてはいけない。

 そう思って、新聞にはその後、手を出していない。野菜を包むために使われている新聞紙に触ることはあるが、その活字は、単に模様と思うことにした。



 来年の正月は初めて母親と二人である。今年の正月は父親がいた。一年は過ぎるのが早い。何もしないうちに終わってしまった。

 父親を看取ったということでは人生における大きな転機ではあるが、一昨年、心を病んでようやく立ち直りかけて、この市に戻ってから、自分としては少しも浮上していない。低空飛行もいいところである。

 一時の最悪期からは抜けたが、八百屋としての練度が高まっただけだ。職業に貴賎なしということはわかっている。八百屋が悪いと言うことではない。ただ、亮二はその商売につきたくなかった。この商店街から抜け出たかった。父親もそれを是としていたはずだ。

 東京でいろいろあって傷ついて戻ってきたとことは、父親にはわかっていたと思う。

 しばらく置いてくれ、とは言ったが、商売を継ぐとは一言も言わなかった。八百屋を手伝ったのも作業療法みたいなものだと亮二は自分に言い聞かせていた。

 いつまで居るかわからない、やがて出て行くと父には伝えていた。居たい限りいて、手伝いたい限り手伝え、との答えは得ていた。自分は、あと十年は頑張るつもりだから居着かれても困る、と亮二の気持ちに慮ってだろうが、はっきりと言った。

 亮二は、こんなところ早く出てやると思いつつ、東京であった出来事を思い出すと例の黒いものに襲われそうで、過去を整理することができず、新しいことをはじめる気持ちにもなれなかった。立て直しは、まず、この精神のありようからで、そのためには目前の仕事に集中しようとした。

 あと、十年頑張るはずの父親は、そう言ってからわずか二か月で倒れて帰らぬ人となってしまった。

 その後始末に亮二は集中し、その後、今の日常に戻った。その集中は過去から逃げるためであり、今の日常も前向きなものではないが、それなりに日々は平穏に過ぎていく。

 暮れを迎えても店は忙しくならない。幼稚園も高齢者施設も平常運転である。菓子類の購入は多くなるのかもしれないが、亮二の店は野菜しか扱わないので関係ない。

 商店街も半分は空き店舗なので、歳末の売り出しセールもやらず、それでも役所と商工会で、電飾を飾り付けたが、それが灯る頃には、道の両側の店で開いているところは、ほとんどないという有り様である。亮二の店も当然、シャッターを下ろしている。

 朝は卸売市場の食堂で食べるが、昼と夜は母親との食事になる。

 母親は話し好きではあるが、亮二の身上や身の振り方については何も言わなかった。店番を四十年近く続けてきたこともあり近所の情報については詳しいので亮二がその聞き役となった。



 まず、母親の話だと自分の中学の出身で目立った出世をしたものはいなそうだった。どうやら近隣で育った中では亮二の兄が一番、活躍していそうだった。

 それを聞いて安心する自分が心貧しいとは思ったが、中学の頃、たいしたことがないと思っていた同級生が東京で大活躍などとの話を聞いて、心穏やかでいられるかについては、亮二は自信が無かった。

 いずれにせよ、あるがままの現実を受け入れるしかない、仕方がない、と納得した。

 あとは商店街周りの話である。かつて、商店街の店舗は大体住居が一体だったが、それなりの景気の良かった店から住宅は郊外の戸建てに移った。

 商店街は、お互いがお互いの店で買うことで縛りあって、小さな経済圏を作って支え合っていたわけだが、それが心地良かったわけではない。

 店舗付き住宅の生活はつらい。閉店後、買い物に近所の人間が来れば開けなくてはならない、戸をたたく音がとてもいやだ、と薬局の娘がぼやいていたことがあった。

 店が生活と一体となった場ではなく単なる職場になれば、他の店もそうなることは止められない。商店主とその家族が郊外に住んでその家の近くで買い物をするようになれば、商店街は寂れるのは当たり前である。

 街中の住人が商店街で買い物をしない、などと言うが、それは商店の家族も同じで、商店の息子・娘は、できる限り商店街の買い物を避けた。

 生理用品を買った、成人雑誌を立ち読みしたなどが、親に筒抜けになる商店街で買い物などする気にもならない。商店街の中を通り抜けることさえ、いやがるのが商店の息子・娘である。

 亮二の母親も、本当に良い物を買うには県庁所在地か東京へ行って、隣町の駅で降りてタクシーを使って帰ってきた。

 商店の息子・娘は、優秀な者から商店街を離れ県庁所在地や東京へ出て行った。 

 亮二もその一人であったはずだが、こうして舞い戻ってきたのは落伍者とはいわないものの、負け組ぐらいには見られる。

 もっと負け組は、地元の偏差値の低い高校を出て、この周りをうろうろしている人間であり、そういうやつらとは自分は違うと思っていたが、今のところ同じレベルに落ちてしまっている。

 ひとときでも東京の「高み」を見た人間としては、いつまでもこんなところにいるわけにはいかない。

 亮二は、今の自分がいるのは、森鴎外における小倉、井上ひさしにおける釜石がここなのだと無理矢理思おうとした。

 地方への転居は、森鴎外は「舞姫」にあるような留学先での女性トラブルによる左遷であり、井上ひさしは上智大学の学生生活時の放蕩で生活費がなくなった結果といわれている。自分も、このトラブルと鬱も、そして八百屋での作業も、将来、些末なエピソードとして笑い話として話せるようになりたいと思う。そうは思うものの、それは容易には過去になりそうにない。

 亮二が周辺との付き合いを最小限として過ごす商店街だが、寂れていると言っても商店主やその家族が困っているわけではない。本当にカネに困るならば、まず店舗を売る。一応、十万都市の駅前なので売って売れないことはない。

 空き店舗にしておくのは、他の場所に賃貸アパートや貸店舗、月極駐車場を持っていてその収入があるからである。商店街に店を持っているのは、いわゆる旧住民で、店以外にも不動産をもっていることが多い。それを新住民に切り売りしたり貸したりして、それなりの資産や収入がある。

 亮二の一家も、二棟のアパートから、諸経費を引いた手取りで月七十万円からの収入がある。八百屋など閉めてしまっても十分やっていける。

 母親は老後の健康のため、亮二は鬱からの回復のため、八百屋を開けている。売り上げをどうこうしようとか、店を良くしようとか、さらなる努力をする気力は出ない。

 商店街活性化とか、まちづくりとか言っている人間からはどうしようもないと思われるかもしれないが、そのような生ぬるい環境にはまってしまい、あとは毎日が過ぎるだけである。



 商店街活性化とか、まちづくりとか言っている人間が来た。東京にいたときに、そういう界隈のつきあいがなかったわけではないので顔と雰囲気を見ればわかる。

 まずは、役所の人間である。××市まちづくり推進課の名刺をもってきた。店の横の駐車場で作業をしている朝一番である。

「こんにちは××市役所まちづくり推進課の初田と申します」

 二十代の若い女性である。東京では役所の人間とは敵対することも多く議員から手をまわせばだいたい黙った。とはいうものの、××市では、案件を抱えているわけでもなく議員にコネがあることもないので、ただの八百屋の店主として対応した。

「商店街活性化のためのアンケートをお願いしているのですが、回収に参りました。商工会からも用紙が配られたと思いますが」

「そういうことは、うちの母親が」

「お母様は在宅でいらっしゃいますか」

「店の中にいると思う。せっかくだから呼んでこよう」

 母親に声をかけて、女性を店の中に入れ、自分はそのまま配達に出た。

 もう一人は、配達から帰ってきたタイミングで声をかけた。

「こんにちは、××駅周辺まちづくり協議会の南と申します。私自身はNPO法人××市のまちづくりを考える会の副代表をしております」

 こちらは、六十過ぎの高齢者であるが、それなりの品と知性を感じさせ、中学か高校教師を近年退職した者のようである。配布するビラを持つ手がなんとなく板についていない。

「××駅周辺の再開発を考える集会を開きますので、参加をお願いします。住宅や商店を一軒一軒を回っています。是非、地元のみなさんの意見をお聞かせ願いたい」

「××駅まわりで再開発の計画があるのですか」

「それをご存じないのですか」

「いや、仕事が忙しくって。商工会とかに出ていた父親が亡くなってしまいまして。こちらに帰ってきてからまだ一年も経っていませんし」

 順不同で理由を並べた。別に地元のことを知らなくても恥ずかしくもないのに、亮二は、なんとなくそう思ってしまった。

「もう一度、配達に出なければなりませんので、何かビラとかありますか」

 コンビニのコピー機でつくったような、色紙に黒文字のビラを渡された。

「××公民館の二階の集会室ですので、是非おいでください」

 そう言って高齢者は去って行った。



「役所からのアンケートなんだけれども。まだ書いていないのだけれども」

昼食が終わったときに母親から声をかけられた。

「どうしよう」

 亮二は茶をすすりながら言った。

「答える必要があるのかな。捨てちゃえば」

「また、取りに来るって。若い娘さんが、せっかく一軒一軒回っているのだから」

「中年女性だったら無視してもいいのか。それは差別だな。まあ、いいだろう。どれどれ」

アンケート用紙と封筒を母親から受け取った。

 郵送ではなく手渡しということは、商店の数が少ないからできるのだろう。

「回収も市役所の職員がやるのか。手間がかかるわ。いや、五十軒もないから、それほどの労力でもないか。ただ、誰が書いたかわかるな」

 アンケートの回答は、店主または家族の方にお願いする、とある。自分は店主なのか、その家族なのかと亮二は考えたが、どちらにしろ回答の資格はありそうだった。

 従業員数は、店主を含め二人、店の年商は、一千万円未満、当地での商売歴は五十年、将来の見通しは「これからも続けるつもり(十年以上)」「やめるつもり(十年以内、五年以内)」「わからない」の選択肢のうち「わからない」とした。

 「商売を続ける上での課題は何ですか」との質問の選択肢も「売り上げの低迷」「大型店の進出」「顧客の高齢化」などと並んでいたが、答えようがない。自分の意欲と母親の健康、と正直に書くこともないだろう。「その他」を選んだ。何かを記入する欄は、空白だ。

 「商店街活動について、どう思いますか」というのもある。「活発である」「ふつう」「活発でない」とある。「ふつう」というのは何なのか。まあ、ここも「わからない」。

 「商店街ににぎわいをつくるには、どうしたらいいかと思いますか」で「イベントを開催する」「商品券を配る」などの選択肢があり複数回答だ。何をやっても無理なのではないか。「わからない」に印をつける。

 自由意見欄に何でも意見を書いてくださいとある。まあ、ここも書けない。

 「わからない」と空欄だらけの回答ができあがった。

 これを集計してどうするのだろう。

 亮二は思った。この商店街の店主はみんな高齢化している。それなりの資産を蓄えている上にアパートや駐車場を持っている家が多いので、商売に熱が入らない。そうしたところに、にぎわいやら活性化を求めても無理、無駄ではないか。

 寂れた商店街の復活ストーリーというのは、テレビ番組などで受けがよさそうだが、復活するために頑張れるような店主が集まっている商店街は、そうそうあるわけではないだろう。

 商店街の役員は役所に向かっては「活性化」とか「にぎわい」とか言うだろう。みなが売り上げを伸ばそうと努力しており、大型店やらロードサイド店から圧迫を受けている、と主張するだろう。

 全部が嘘とはいわないが、それを言う前に、店の前の掃除でもして何年も貼りっぱなしのポスターを替えたらどうだ、と思う店が多い。

 まあ、初田職員も、商店街を回ったからにはそれがわかるだろう。そもそも彼女は、この商店街で買い物をしたことはあるのだろうか。



 もうひとつは、駅周辺の再開発である。

 ビラをしみじみと眺める。××駅は更新する機会を逃しただめ商店街の側にしか改札口がない。駅の向こう側に行くには、駅の両側に回り込むしかない。駅舎は、亮二が高校の頃から変わっていない。橋上駅でないことは、ホームに改札からそのまま駆け込めるので、列車の時刻が迫っているときには便利だったが。

 橋上駅にして駅ビルと再開発ビルを造り、連続立体交差にして道路を通すとの計画も、かなり前からあった。いよいよその計画が実施に移されるようだ。

「時機を逸したな」

 二十年前にやっておくべきだった。少なくともバブル経済の頃、市役所を郊外に移転し高層化して豪華市庁舎などと批判を浴びていたが、その頃に駅周りをどうにかしておくべきだった。

 ××市も、既に団塊の世代は退職し、鉄道の乗降客は減っている。人口も市全体としては増えているが、みな自動車を使う。

 ビラをみると、百何十億円の事業と書いてあるが、とてもそんな事業費をかける価値はない。公費の投入は三十五億円で、その他は床の売却でまかなうとしているが、無理が計画段階で見えている。

 床はどうせ売れず、賃貸にしても賃料を叩かれて、役所かその外郭団体が使うか、全国チェーンの居酒屋か学習塾が入るのが精一杯だろう。

 確かに駅周りはじり貧である。手をつけなくてはどうにもならないが、再開発という手法しかとれないところで、既に負けである。

 とはいうものの、他にどうするという方策が地元にあるわけもない。将棋で言えば既に詰んでいる。

 投了すべきところを無理に無理を重ねて、市長やら取り巻きの市議やらが通そうとしているのが、この再開発らしい。

 それに反対するのは正しい。とはいうものの、それを止めても別の展望があるわけでもない。

 そういう反対運動にどこまで今の自分が力を貸すべきかというと、正直、自分のことで精一杯であり、ムリというのが亮二の結論である。

 十数年後、どこか別の土地で、この駅周辺開発ができあがった、または、頓挫したとのニュースを見て、ああ、と思う自分を想像した。そのころには、新聞は読めるようになっているはずである。

 どちらにしろ、これにはかかわりたくない。やりすごそう、黙っていよう。こうして地域は衰退していくのかもしれないが、自分には、それに抗うエネルギーは今のところない。あったとしても他のことに使いたい。

 利己的と言われれば、その通り。情けないことではある、と亮二は思ったが、ビラは捨てた。


十一(二〇〇七年十二月)


 映画もとりあえず見続けた。ロード・オブ・ザ・リング三部作を見終わり、ハリー・ポッターも「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」まで、○○七は最新のダニエル・クレイグのカジノ・ロワイヤルまで見た。どれもおもしろいのかどうかわからないが、とにかく見た。

 そうして冬は深まっていく。

 市役所の初田職員には、アンケートを母親を通して渡したが、その後、特に反応はない。再開発についても新聞も市報も読まないので、何も新しい情報は入らず、また、手に入れようとも思わなかった。

 年末も間近である。幼稚園は休みになるが、高齢者福祉施設は休みなしなので、どのように野菜を届ければいいのかを相談した。冬野菜は持ちがいい種類が多く何回か分けて多めに納めておけば良いことがわかった。

 その相談のため高齢者福祉施設を訪問した時に、それなりの時間をとって調理担当職員と話ができた。

 四十過ぎの女性栄養士が責任者だが、野菜の品質については問題ないのだが、値段はなんとかならないかとの相談だった。当日調理のものは、市場で売れ残りそうになって一段値段が下げられたもので重点的に対応することを試してみる、ということになった。市場にいる時間がやや長くなるが、そう負担になるものでもない。

 亮二は、そういう段取りをしながら、それがいつまでそれが続くのだろうと思った。店を離れるときには、幼稚園ともども何ヶ月か前に通告するか、代わりの納入業者を紹介するしかない。代わりの納入業者といってもあてはない。

 先のことは先に考えようと思って、店に帰り、次に見る映画のことを考えた。

 その日は、店に帰ると母親が昼食時に、どうしよう、と相談をもちかけてきた。

 商工会で忘年会はないが、新年会をやるらしい。市長も来る。これまでは喪中と言うことで様々な会合は避けてきたが、年も明け、また父親が亡くなったときの葬儀にはいろいろと手伝ってもらった経緯もある。

「母さん出てよ」

 亮二は言った。父親とは店を手伝うにあたり、それなりに話したが、母親とは突っ込んだ話をしていない。

 父親が

「亮二が少し店を手伝うそうだ」

と言ったぐらいで、いきなり入院してしまったから、母親にはどこまで話が伝わっているかわからない。

「俺、ちょっとそういうところは苦手なんだ」

「店を続けるにせよ、閉めるにせよ、顔は出しておいた方がいいよ。いろいろお世話になったのだから」

「まあ、母さんはみんなと知り合いだからいいけれど」

「会長さんは、同級生の××君のお父さんだし、夫人部会長さんは、○○さんのお母さんだし」

○○さんは、小中学校の同級生の女の子だが。

「○○さんは、どうしたの」

「九州の方にお嫁にいったそうだよ」

「それじゃ、あの店も跡取りがいないのか」

「上の子が結婚して、旦那さんが県庁職員だって」

「どのみち後継者はいないのだろう」

「××は、どこかの会社に勤めたとは聞いたけれども、あそこのうちは、とっくに店を閉めているだろう。何で商工会の会長なんてやっているの」

「なり手がいないかららしいけど。それに郊外でどこかの店に土地を貸しているから。不動産業ということでやっているらしいよ」

 全く盛り上がらない会話ではある。

「まあ、新年会といっても二十人いるかいないかのところらしいけれど。商工会館の二階の会議室でやるから」

「考えさせてくれ」

 商工会館といっても町内会の集会所を大きくしたような建物である。仕出しを頼むような感じなのだろうが、まあ、あまり期待はできないだろう。

 気分が沈んできた。

 父親には病気のことを伝えたが、それが母親には伝わっているかどうか。亮二は、母親が自分に対して気をつかっているのはわかっているが、どこまで母親が自分のことを知ってそうしているのか測りかねていた。そして、それを確かめるために母親と向き合うのも避けていた。

 そうして、日々は過ぎ、もう年末である。

 北関東の冬は寒い。東京とは体感気温で五度ぐらいは違いそうであるが、生活パターンが全く変わってしまったので比べようがない。

 空気は澄んでいる。冬の透明な空気の向こうに山並みが見える。高い建物がない土地なので、その景色は亮二が高校生の頃、通学路から眺めたものから変わらない。

 あの頃は何を考えていたか、もう思い出せない。


十二


 結局、新年会の出席については、母か亮二かどちらかが出席すると曖昧な回答を商工会にして、年を越した。

 クリスマスは普段と変わらずに仕事をし、年賀状は誰にも出さず年の瀬を迎えた。餅は、亮二が子どもの頃は商店街の米屋がついて届けられていたものが、米屋がコンビニに変わってしまったため郊外のスーパーで買わなければならなくなった。

 正月飾りは、十二月も押し詰まってから近所の神社の境内に売りにくるようだが、これも早々に量販店やスーパーで、クリスマス飾りとともに売り出されている。

 年末年始の帰省ラッシュを予想するニュースが流れているが、亮二には帰ってきてもらって会いたいと思う友人はいなかった。いたとしても、こんな境遇で会いたいとも思わない。

 中学時代の担任教師ぐらいならば、街中で会いそうな気がしたが、それも気不味い。そうしたことのないように気をつけていた。

 これまでの人生で戻りたい時期はあるが、今、会いたい人はいない。正直なところ誰にも会いたくない。

 どこか思い切って引っ越そうかとも思うが、母親を一人でこの店に置いておくこともどうだろうか。その前に店を閉めるかしなければならない。

 それは非現実的な作業のように思われた。

 そのうえ、あの例の黒い影が立ち上がるのだ。なにかを決心しようとすると、ふと黒い影の気配がする。

 そうだあの医者のところに行こう、と思った。ネットで調べたら、三十一日の大晦日までやっている。どういう医者なのだろう。


十三


 結局、幼稚園が休みに入った日に高齢者福祉施設に配達を早めに終えてから電車に乗り県庁所在地に向かった。

 狭い駅前広場で、何人かがのぼり旗を立ててビラ配りをやっており、どうやら再開発は引き続きもめているようだった。

 ビラ配りの人員の中には、店に来た南という高齢者はいなかった。

 学校の冬休み中の××市の駅から県庁所在地までの電車は若い人の姿も少なく、高齢女性が目立った。席はかなりすいており、亮二は出入り口の一番近くに腰掛けパイプの手すりに身を寄せて縮こまった。

 冬晴れの暖かい日差しが車内に差し込んでいたが亮二は背を丸めた。知り合いには誰にも会いたくない、話したくない、のポーズである。

 窓からは、冬の畑の中に点在する住宅地が見え、川を越え畑が少なくなり家が増え、そしてコンクリートの構造物が現れはじめる。街が灰色のコンクリートになり、原色の看板をまとった景色が多くなったならば、そこが目的の県庁所在地である。

 県庁所在地は、新幹線も通っているが経済的な地盤沈下が激しい。駅ビルもそろそろ古くなり建替が計画はあるが、計画は大きくなったり小さくなったりして定まらない。施設の目玉だったホテルが進出計画を取り消してからは、構想が迷走しているはずだが、それも何年も前の話だ。

 駅の反対側の工場が閉鎖されたため、今度、新しいショッピングモールができるとのことだが、工場の閉鎖を補うほどの集客が見込めるかは疑問視されている。広域の集客は既に郊外のモールでブロックされているため、中心市街地の消費を奪うだけになるのではないか、との危惧も大きい。それでも、シネコンが入れば、中心市街地から消えた映画館が復活することになり、その旨を大きくうたったチラシが亮二の町まで届いている。

 そのような経済面での地盤沈下の激しい都市ではあるが、亮二の街と比べれば、まだまだ大きくホワイトカラーの街である。

 予約の時間よりも前についたので診療室の入るビルの向かいのコーヒーショップで時間を潰した。地方都市とはいえ、亮二の街とは、歩いている男女の服装から違っている。亮二は、この街に自分の服装がふさわしいかどうか考えたが、答えはでなかった。

 普段のブルゾンにジーンズという服装ではなく、タートルネックのセーターにカーディガン、スラックスという組み合わせである。コートは東京にいた時の薄いものを羽織ってきた。景気のいい時に買ったので、それなりの価格のもののはずだ。

 日頃、コーヒーはインスタントをブラックで飲んでいるので、久しぶりの「きちんとした」コーヒーだった。

 ここにいるのが悪いのだ、と亮二は思った。これまで暖めてきたプランを医者に話してみて、医学的に大丈夫だったら実行に移そう。

 コーヒーショップの広いガラス窓から、人と車が行き交う街路を見ながら、亮二はそう思った。


十四


 待合室のない受付を通って、診療室に入った。

「調子はどうですか」

 前と同じで、医者の聞き方は特に冷たいわけでも親しみをこめたわけでもなかった。

「前と変わりませんが生活は安定しています。仕事もできます」

「それは良かった」

 医者は、手元のカルテに丁寧に何かを書き込んだ。

「何でここに来たかは聞かないのですか」

「お話したいのならば、どうぞ。外科と違って、精神面での診断は、患者さんとの対話が重要ですから」

「早く患者の容態を知りたいとは思いませんか」

「当院の方針として、患者さんには一時間半を確保してあります。一日四人しか診ません」

「それで、医院の経営は成り立つのですか」

「医師としては治療が十分にできることに満足しています。ここは、大きな医療法人の一部という位置づけですので、経済面ではそちらに頼っています」

「そのようなことをお聞きして良かったのですか」

「患者さんとの対話ということでしたら、許容範囲です」

 医師は、亮二の顔をじっとみた。前の医師の紹介だが、適切なところを紹介してもらったのかもしれない。亮二はさらに続けてみた。

「精神科の医師というのは、患者の私生活のかなりのところまで聞き出すわけですが、感情的に巻き込まれる、ということはありますか」

「世間的な言い方をすれば、情に流されて医師としての立場を失うふるまいをするおそれが高い、とは言えます。少なくとも内科医よりは。直接、生き死にを扱うことが多い外科医や、小児科医については、冷静そうに振る舞っても感情を揺さぶられる医者は多くいます。治療時には冷静でも、いろいろあった後もそうであり続けることは困難でしょう」

「患者から私的な相談を受けることはありますか」

「ある意味では、医師が受ける相談というのは、すべて私的なことです。ただし、医師は金銭的や社会的な問題について回答する能力自体高くありません。医師は基本的にそういうことに疎い上に患者とは違う立場にいるからです」

「では、患者から家族関係や事業である決断を相談されたら、いかがですか」

「経験豊かな医師ならば、答える能力があるのかもしれませんが、患者の健康面以外で回答しようとは私は思いません。私にその能力や資格はありません」

「では、ある事業に乗り出す、また環境を思い切って変える場合に、病気が再び発症する、または、悪化するとのアドバイスはいただけますか」

「その事業や変わった後の環境が、精神面にどれだけの負荷がかかるのかを測りかねるので、再発や悪化の可能性について確かなことは言えません。しかし、心に負荷をかけることが、再発や悪化の契機になることは往々にしてあるので、注意するようには申し上げます。特に、食事と睡眠を十分とり適度に運動と気分転換をすることは必須です」

 何か、遠回り遠回りして核心に触れないような、そして当たり前のことに始終した会話だが、亮二は満足した。

 精神科医は患者の回復具合はわかっても、次の環境が患者に与える圧力についてはわからない、というのはその通りだろう。それを正直に言えるのは、深く患者のことを考えている証拠だと思った。

「私はビジネスに失敗してこのようになりました。今、家業をしながら再起を図っているところです。日本では、私の居場所はないと思います。来年一年間語学を含め準備をし、国外に出ようと思います」

 正直な思いを亮二は医師に伝えた。

「どこにどのような落とし穴があって病気がぶりかえすかもしれません。一年間はこの医院に通えますので、状況を細かくフォローいただけますか」

 医師は、それでは現在の状況から、もう一度把握しておきましょう、といって、丁度、最初に、東京で心療内科を尋ねた時の問診から始めた。確かアメリカ精神医学会による診断基準である。

 いやおうなくあの頃のことを思い出しそうになったが、答えることに集中した。身体の状況も確認するということで、隣の部屋で検査を受けた。

 ホテルのラウンジのような問診の部屋と異なり、隣の部屋は普通の医院の診療室と同じだった。採血も医師が行った。

「看護師の方はいないのですか」

「受付以外は、私一人なのです」

 何か言いたくなったが、言葉を飲み込み、亮二は黙って検査されるままにした。

「三十一日までとは、ずいぶんぎりぎりまでやっていらっしゃるのですね」

「この時期は、精神的に不安定になる方が多いものですから。様々な行事があり世間は浮かれ、また、歳暮の届け・受け取り、忘年会や年賀状書きやらで、人間関係を振り返らざるを得なくなる時期です。独り身や人間関係のトラブルを抱えた方にはつらい時期です」

 自分も、できれば暮れも正月も普段通りに過ごしたい。卸売市場も休まず、配達も途切れなく続いた方がどれだけ気が楽か。年賀状は、もう一昨年から一枚も出していないが。

「それではよいお年を。何かありましたらおいでください。二か月に一度は目処でチェックをしましょう。だだ、第一回目は検査結果が出る一月末で」

「先生も良いお年を。ありがとうございました」

 亮二は帰りの電車では背筋を少し伸ばしていることができそうだと思った。


十五


 医院からの帰り道、県庁の近くの書店に寄った。本屋に寄るのは、何年ぶりだろうか。思えば、雑誌も本も新聞も読まない。ネットも見ないので、文字は映画の字幕しか読まない日々だった。

 本屋に並ぶ本の表紙や背表紙の文字は、やはり何の意味も頭の中で結ばないが、それでも「中国語」という文字を探し、初級の中国語のテキストとCDを買った。

 冬の晴れた日で、午後にもかかわらず空気は冷たく澄んでいた。帰りの電車で、遠くの山々がよく見えた。高校からの帰りには必ず使った電車だが、こうもきれいに山腹が見えたことは記憶にない。

 家に帰って、ノートパソコンと外付けのDVDドライブを持っていたので、CDの音声をウォークマンに移した。父親が残したメモリータイプのウォークマンである。まだ、かなり空きの容量があるので、CDはまるまる入った。

 今日から中国語を独学する。そう決めた。

 インターネットにつなげる契約をしたまま、二年近く放置してきたパソコンを立ち上げ、中国政府関係の英文サイトを見て、それから中国語サイトを見た。中国語を毎日三時間学習し、中国関係情報を同じく二時間は見ようと思った。まずは、それを三か月続ける。

 もちろん徒手空拳で中国に渡るわけにはいかない。相続で自分名義となっている新しい方のアパートを売り払おう。それを元手に中国のどこかで会社を興す。もちろん、この店は閉店とする。それなりの準備はちゃんとしてだ。母親も六十を過ぎたばかりなので、あと十年は大丈夫だろう。母親にも閉店後の過ごし方を考えてもらわねばならない。

 来年はそのための一年になる。

 母親には、その決心をいつ、どう伝えようか。すぐに宣言をしてしまおうか。いや、ある程度目鼻がついてからでよい。今はネットがあるので、現地情報やある程度の現地の人間ともやりとりはできるだろう。

 そもそも、中国で、というだけで、今は全く手がかりがない。ある程度は、情報を集めて足場を築いてからだと思った。

 父親は、ボーズのヘッドホンも残していた。案外新しく買えば二万円以上はする。

「おしゃれじゃないか」

 店での作業や運転時には、中国語を聞きっぱなしにしようと思った。


十六


 正月三が日は休みであり、どこへ行く当てもない。母親と顔とつきあわせているのは気詰まりであるが、寒いので炬燵に入って映画を見ていた。

 亮二は、なるべく中国語に慣れ親しもうと、中国映画を見ているが、まだ、字幕を読んでいる。広東語と北京語の違いもわからないが、雰囲気に親しむ必要があるだろうと思った。

 午後は、平日の中国語メニューをこなして、居間の炬燵でパソコンをいじくりまわしていた。

 母親は、元旦には、朝は雑煮、昼夜は普段通りの食事をつくった。久々に二人で炬燵に入っている。

 母親は自分についてどう思っているのだろうか。これからどう過ごすつもりなのだろうか。

 あと、十年頑張るといっていた夫が亡くなり、残されたのは何を考えているのかわからない次男である。当面の収入はあるが、六十過ぎて、そう明るい未来があるわけでもない。

 自分は、一年後にここを去るから、母は、その後はどうしたいのか、ということを聞かなければならない。

 亮二は、炬燵で、ミカンの皮をむいている母の手元をみながら、それを言い出すのはもう少し後でいいか、と思った。

 母親の手は良く動く。料理や縫い物などにそう思って見つめてしまったこともあった。それは高校生の頃までだったか。その頃はつやつやしていた手は、すっかり皺が寄り血管が浮き出てしまった。母親の手を見るのも久しぶりだ。

「母さん」

 呼びかけて、いや、なんでもない、と打ち消した。

 そして、商工会の新年会は母さん出てくれないか、と言った。

 どうせ、近々店を閉めることになると思うし、今更、顔を出したくないんだ。

「そう」

 母親はうなずいた。近々店を閉める、ということは伝わった。それをどう思っているかは、ミカンの皮をむく母親の表情からはうかがいしれないかった。

「それは、近所の人に言っていいことなの」

「言っていい時がきたら、言うから、その時までは黙っていて」

「そう」

 母親は軽くつぶやくように答えた。

 炬燵でミカンとお茶という過ごし方は、東京にいた時にはなかった。

 母は、近隣の地主の娘と聞いている。実家は、戦後の農地解放以前はかなりの資産家で、母が生まれた頃はそれほどでもなくなっていたが、大きな屋敷と庭があったことは覚えている。今は、長男も医者になって東京に出て行き、屋敷も取り壊されている。父とは恋愛結婚とは聞いているが、どういういきさつがあったのかはわからない。

 父は、かつて東京でサラリーマンをしていた時期もあったが、結局、この八百屋を継いだ。一時期は、店を拡張してスーパーにしようとしたことがあったが、うまくいかなかったらしい。あまり詳しいことは亮二は聞かされていなかった。また、聞こうともしなかった。

 一階が店舗と居間、二階が寝室と子ども部屋のこの家は、もう古い。子ども二人が出て行ってから、自分たちが住んでいる間だけ持てばいい、ということでほとんど改修をしてこなかった。建てたのは、断熱材もろくなものがなかった時代だったから冬はかなり寒い。

 着込んで炬燵で丸まるのが、最も効果的な暖の取り方である。

「この家で年老いて死んでいくのか」

 亮二は、母の身を思った。自分はここから出て行く。そう父には言った。そして、一人になった母にもそう言い、母は了解した。

 そうしておきながら、亮二は、母は寂しくないのだろうか、と思った。母は一人になったことはない。いつも父が居た。父が亡くなってからは、世間体も悪く、家の中でもまるで母に気を使わない息子だとしても、亮二がいた。

 母は、寂しくないだろうか。

 と思ってみても、そのために亮二は身の振り方を変えようとは思わない。

 成功したならば、暖かいところに連れて行ってやろう。ハワイかシンガポールあたりか。まるで似合わないが。

 そう思った。

 再び立ち上がることが先だ。


十七(二〇〇八年二月)


 目の前に女の子がいる。今春、中学三年生になるという。

 ある日、大きなバッグとスーツケースを抱えて店先に現れた。

 二月に父親の一周忌があったが、兄は帰ってこなかった。

 ごく身内のみでおこなうということで、寺の本堂に親族で集まり読経、墓参りをしたのち、近くの小料理屋で昼食という段取りだった。

 段取りは母親が決めたが、具体的な連絡は亮二がした。といっても、本葬の際の名簿を元に母親が、挨拶だけを出す先と集まる人間を仕分け、その指示に従っただけだが。

 菩提寺の住職が本葬の時は読経をしたが、今回は、その息子が出てきた。住職は、夏に入院したまま闘病中とのことだ。

 兄には母が直接連絡をとっていたが、兄の代わりに沙羅が現れた。

 母には、あらかじめ連絡していたらしいが、亮二は初耳だった。

 挨拶の時から、昼食が終わるまで、沙羅は一言も口をきかなかった。そうして、来客が去り、亮二と母と沙羅の三人になっても沙羅は口を開かなかった。

 目に力のある子だった。事情は母が知っていると思ったが、沙羅の前でそれを聞くわけにもいかない。

 亮二がいつものように炬燵で座布団をまくらに横になっていると、その炬燵にそっと入ってきた。沙羅は、正座で膝頭が少し亮二の足にあたった。

「お茶にしましょう」

 母は、自分と亮二の茶碗と、来客用の茶碗に沙羅の分を入れて、蜜柑とともに持ってきた。 

 寺の本堂で亮二は挨拶をしたが、沙羅は母が紹介して、そのまますぐに若住職の読経となった。小料理屋でも、母の隣にいて亮二とは話す機会が無かった。

 だから、さすがに三人となれば何か話さざるを得ない。どうやら、沙羅は、しばらくここにいるらしい。ただ、どれくらいなのだ。

 「沙羅ちゃん。荷物は部屋に入れてあるから。すぐ寝られるようになっているけれど、部屋で休む?」

 母親が言った。

(部屋へ行け)

 亮二は思った。何がどうなっているのだ。

「いえ」

 沙羅は正座をしたまま動かない。

「疲れていない?」

「大丈夫です」

「四月から××中学に編入だから、手続きは亮二おじさんにお願いするわ」

(聞いていない)

「お父さんは海外で忙しいから、亮二おじさんにいろいろやってもらうことになる・・沙羅ちゃんからもよくお願いするのよ。おじさんの言うことを良く聞いてね」

(聞いていない)

 そう思ったが、口に出すとこの子を傷つけそうで、口に出せなかった。とはいうものの、まかせておきなさい、とも言えない。本当に何も聞いていないのだ。

 聞いていない、ということを言うことが、この子を傷つけるかもしれない。そう考えながら、どうして自分がそこまで気を使わねばならないのだ。亮二は思った。


十八


  沙羅は明日の用意をする、と言って二階の兄の部屋に上がっていった。

  声を潜めて、母親に言った。

「聞いていないんだけど」

「まあ、私が全部やるから」

「でも、俺がいろいろやる、といったじゃん」

「ああ言っとけば、沙羅もお前になじむだろうから」

「別に、なじまなくってもいいよ」

「かわいい姪じゃないか」

「まあ、ぱっと見は、そうだけれど。年頃の娘だろ。兄貴はどういうつもりなんだ。母親はどうした」

「離婚したとか」

「聞いていない」

「なんだかお互い仕事が忙しくて、その上、働く国も違うことになるようなことを言っていた」

「どうも、兄貴の言うことは信用できない」

「信用できない、と言ってもねえ。沙羅は現にこうしているんだし。中学生なんだし。面倒をみてあげなきゃ」

「邪険にするわけじゃないんだが。兄貴はいつも調子が良すぎる」

「面倒を押しつけているわけではないんだよ。あの子にはあの子のよいところがあって」

「なんだか、いつも貧乏くじを引かされているような」

 自分はこの街から出て行く。そう考えれば、沙羅が母親、沙羅にとっての祖母の元にいるのは良いのか悪いのか。

 亮二は考えた。母親を一人にするよりは、沙羅がいた方がいいのだろう。沙羅にとっては、自分はいた方がいいのか悪いのか。

 炬燵に腰まで入れて横になった。古い家で断熱も悪く隙間風も入って結構寒い。部屋の中では厚めの褞袍どてらを着ている。

 母親は正座して炬燵に身を寄せているので、亮二は足を伸ばせる。ここに沙羅が入ってきたら、どうか。外国暮らしが長かったから正座は実は苦しいのではないか。

 兄の部屋もそう暖かい訳ではない。このままではかわいそうだ。

 四月から編入する××中学は、市内にあり兄と亮二が卒業した中学であるが、自転車を使わないと通えない。編入手続きはどこまで終わっているのだろう。

 かかわると、どこまでも気を使うことが増えそうだ。しかし、母親に全てを任すわけにもいかないだろう。

「兄貴との連絡は」

「海外をあちらこちら飛び回っているから、連絡は適宜入れると言っている」

 メールは、と言いかけて、自分はメールアドレスを捨てたことを思い出した。

「手紙で?」

「いや、店のファックスに連絡を入れるって。電子メールからファックスに送るサービスがあるとか言っていた」

 翌朝、といっても、未明だが、卸売売り場に来るまで向かうために起きてくると、店のファックスが白いロール紙を吐き出していた。

 ヘッダーの情報から、兄のメールはわかった。

 これで連絡をとるか、と思ったが、兄とメールをやりとりするのは、気が進まない。緊急の時でもなければ、母親と連絡をとってもらおうと思った。

 母親は、どうやってこちらの意向を伝えるのだろうか。まあ、本当に必要ならば何か言ってくるだろう。母も兄も。

 亮二はそう思って、ただ、ファックスを母に渡そうと思った。母も沙羅もまだ寝ている時間だ。冬の朝は暗い。

 外に出て、二トン車に乗り込んでもしばらく考えた。沙羅は、携帯電話ぐらい持っているだろう。沙羅を通して母が連絡をとればいいわけだ。

 自分が気を病むことはない。そう思っていつもの道をいつものように進んだ。冬とはいえ二月も下旬になれば、空の白み方は早くなっている。一日ごとに春が近づいているのがわかる。


十九


 母親は六十を過ぎたばかりなので、高齢者というには失礼だ。とはいうものの、車は運転できないし、パソコンやケータイは扱えない。

 何かあれば、亮二が出て行くしかないが、できれば、沙羅との関わり合いは、必要最小限としよう。

 亮二はそう考えた。

 沙羅は外国暮らしが長い、というかほとんど日本にいたことがないと聞いている。母親も、日系アメリカ人ということしか聞いていない。母親の母親、もしくは父親のどちらかが、日本人でその配偶者がどのような人種なのかもわからない。

 そのあたりについては、亮二はこだわらない方だった。

 とはいうものの、沙羅と一対一で話をする機会はなく。昼食、夕食、そして日曜日の朝食も母親と三人で炬燵で顔をつきあわせて、ほとんど無言で食べる日々が続いた。

 沙羅は、中学三年の学期がはじまるまでは、特に用事はなく、あちらこちらに出かけているようだった。沙羅の日々の予定は母親が押さえており、亮二が口を出す必要もなかった。

 風呂とトイレは、亮二が帰ってくる前に、ユニットバスと洋式にリフォームしてあったので、特に苦情もなかった。沙羅は、食事をすると、風呂に入り、そのまま兄の部屋に入ってしまうので、会話する機会もない。

 沙羅が来る前は、一番風呂に亮二が入っていたが、沙羅が浸かるようになった。風呂は三日に一回入れ替えるが、沙羅は一日目に一番に入り、二日目、三日目は風呂桶に浸からないようだった。

 亮二が嫌われているのか、誰にもそうするのかはわからないが、いずれにせよ、他人が浸かった湯には入らないのが沙羅の流儀のようだった。

(まあ、そんなものだろうな。十四歳の帰国子女だ)

 亮二は思った。

 亮二はいつも家にいるわけでもなく、兄の部屋を監視しているわけでもないので、よくわからないが、その部屋は着々と改造されているようだった。いろいろな電化製品の段ボールが、資源ゴミとして出されていた。 それについては、聞くでもなく、やり過ごした。亮二は、沙羅には声をかけにくく、何となくすれ違った。

 配達から帰ってきた時、沙羅と母が笑いながら話している声を聞いたことはあるので、母とは、それなりの関係ができているようだ。

 母に任せておけば良い。こちらは、再起をかけるのだ。そして、この街を去るのだ。亮二は、そう思った。


二十(二〇〇八年三月)


「明日、配達が終わったら、沙羅と市の教育委員会へ行ってもらえないかい」

母から声をかけられた。

 母の年の離れた姉の夫が亡くなったとのことで、その法事に出席するとのことだ。日帰りでは遠い町で葬儀があるらしい。

 事情のある保護者の面談で、特別に時間をとってもらったからはずすわけにはいかないという理由で、代理で亮二が出ると既に連絡してしまったそうだ。

 亮二は、ネットでいくつかのビジネスの種を見つけて気分が良かった。いわゆる捨てアカウントではない電子メールアドレスもとりなおそうか、という気分にもなっていたところだった。

「沙羅は了解しているのかい」

「この中学に入るのは沙羅の希望したことだし、それに必要ならば、沙羅は大概のことをすると言っている。お前と行くことも了解している。大丈夫」

 自分と外出することは、大概のこと、なのかと思ったが

「なら、話を聞いてくるだけということでいいのか」

と念を押した。

「手続きが終わったことの確認と、編入についての注意だけだってさ」

「それならば、書類をもらえばおしまいだろう」

「あちらでも、本人と保護者の顔をみたいらしい」

 俺は保護者ではない。亮二は鼻白んだ。

「同居している叔父に行かせる、と言ったら、それでも良いってさ」

 何だかいいかげんだ。

 まあ、沙羅といつまでもすれ違っているわけにもいかないような気もする。いい機会かもしれない。

 亮二は出かけることにした。

「沙耶ちゃん、叔父さんが行ってくれるってさ」

母が、二階に声をかけると、

「はあい、よろしく」

との声が帰ってきた。ちゃんと話をすれば、それなりに話が通じるのかもしれない。

 と、思ったが、沙羅は降りてこない。

「よろしく、だけなのか」

 母に話しかけた。

「夕食の時にもう一度、話しましょう」

 母は答えた。


二十一


 結局、その日の夕食もいつものように会話もなく、あまり事情もよくわからずに、次の日の午後、二トン車に沙羅を乗せて、教育センターに向かった。

 沙羅は、編入する予定の中学の制服を着てきた。外見は、普通の中学生である。容姿で目立っていじめられることもないか、と亮二は思った。

「ボロ車で悪いな。でも、おじいちゃんも乗っていた車だ」

 亮二は、セーターにブルゾン、ジーンズのいつもの仕事着を、ジャケットとスラックスに着替えていた。ジャケットは、それなりの高級品なので、見栄えはそう悪くないはずだが、学校に幌付きの二トントラックに乗りつけるのならば、見栄えもなにもあったことではないだろう。

「この車で、校庭に入っていくのはちょっと気が引ける。近場のコンビニでも停めて歩いて行こう」

 教育センターは、沙羅の通う予定の中学校の隣の敷地にあり、駐車場は共用になっている。

 亮二がそう言うと、沙羅は、ほっとしたような顔をした。

「お父さんも、叔父さんも通った中学校だ。まあ、俺も二十年ぐらい中に入っていないけれど」

 四キロほどの道なので、通学は自転車になるだろう。兄と亮二がそうしたように。

「自転車は、もう買ったのかな」

「買って、裏に停めてあります」

(知らなかったなあ)

 沙羅は、それなりの準備をしているようだ。

 教育センターは、プレハブの簡素な二階建てで、入り口の受付を経て一階の相談室に案内された。

 中学生の体操のかけ声が聞こえてくる。

 書類を持って女性職員が現れた。どこかで見た顔だ。

「教育委員会の初田です」

「あれ、商店街のアンケートを配っていた・・・」

「はい、昨年の四月から教育委員会に異動になりました」

「商店街担当から、教育委員会なんですか」

「二年に一度の異動ですから」

 初田職員は、話を進めた。

「いただきました書類は、すべて揃っています。今、相談員の先生が参りますから」

 初老の男性が入ってきた。

「相談員の今中です。中学校の教師を二十五年やりまして、その間、何回か教育センターにも勤めています」

「近年、国際化が進み日本語が母語出ない子どもや帰国子女が増えています。バックグラウンドが異なる子どもが、学校生活に慣れない、学習についていけない恐れもあります。市の教育委員会では、個別にきめ細かい対応をするよう相談体制を整えています。お忙しいところお呼びだてして申し訳ないですが、担任の教師や学校だけでなく、様々なチャンネルで支援ができるように、このような機会を設けました」

 まあ、一般的な口上なのだろう。隣に座った沙羅を見ると神妙な顔をしている。初田職員は、ちょっと離れた机に座って記録をとっている。

 今中相談員が書類を見ながら説明するところによると、沙羅の学力は中学三年生に編入するには十分だそうだ。ただ、生活習慣の違う所で育ったので、クラスメートの中でうまくやっていけるか注意深く見る必要があります、と続けた。

「本人の前で、正直に言っておいた方がいいと思います。昔ほどではないですが、帰国子女は、いじめられやすいことも確かです。学校には担任だけでなく、保健室の保健師や図書館の学校司書など、様々な大人があなたをサポートします。また、クラスでも様々なグループ活動の中で、互いが支え合うようにします。最初は慣れないかもしれないけれど、四月から元気に中学校に通ってください」

 みんな、あなたを待っています。

 今中相談員は、そう締めた。

「何か質問は、ありますか」

 亮二は、何を言って良いのか悪いのかわからなかった。母が来れば、何かあるのだろうが、亮二は、そもそも沙羅のことを何も知らなかった。

 みんな、あなたを待っています、か、いいなあ、俺なんて誰が待っているだろう。亮二は、自分でも大人げないと思ったが、それが正直な感想だった。

 帰り際に、初田職員に呼び止められた。不足の書類があるとのことで、もう一度センターに来て欲しいとのことだ。

「すみません。日本はまだまだ書類の社会で」

と言われた。

 帰り道、二トントラックに乗って沙羅に言った。

「まあ、良い中学校そうじゃないか」

「まあね」

 沙羅は、来るときよりも表情は明るかった。

「ネットでそれなりにわかるのだけれど、やはり、人と話すのはいい」

とつぶやくように言った。


二十二


「私は保護者としては不適格と思います。ただの付き添いになります」

初田職員が入れてくれたお茶をすすった。

「父親が海外で離婚して不在で、祖母が保護者として届けているはずですが。私は、ただの同居人です。たまたま、あの日は、祖母が法事で不在だったので」

 不在の多い家族だ。

 亮二は、書類を届けた教育センターの事務室で座っていた。

 相談の翌々日である。

 書類を置いてさっさと帰る予定だったのだが、目の前で、初田職員が内容確認をはじめてしまった。

 初田職員と亮二以外には事務室には誰も居ない。県の会議と学校の巡回で、たまたま全員出払ってしまったとのことだ。

「学力は十分なので、問題ないと思うのですが、通った学校と期間をできるだけ正確に押さえておきたいので・・・。八歳と十歳の二年間、丸まる学校に通っていない時期がありますね。まあ、アメリカならば、学校に通わせないで自宅で教育する家庭も多いから」

「そんなことになっているのですか」

「ホームスクーリングというそうです」

 本当に自分は何も知らない。

「ところで」

 話題を変えた。

「あのアンケートは役に立ちましたか」

「何のアンケートですか」

「商店街アンケートです。あなたが配って回収していった」

「私が商工課にいたときのですね。年度内にまとめて、報告書がホームページに載っているはずです」

「いや、役に立ったのかな、と」

「それで何かが決まったとかいうことですか。新しい政策とか、制度とか」

「まあ、そんなところですが」

「いや、四月に異動してしまいましたので」

 話がかみ合わない。

「商店街振興といいますが・・・」

 ちょっと意地悪な気持ちになった。

「あなたは、駅前商店街で買い物をしたことはありますか」

「私が住んでいるのは隣の市に近い郊外なので、買い物は近くのスーパーでします」

 休日は、ショッピングセンターか、隣の市の駅から、県庁所在地へ、東京へも月に一度位は出るということだ。大学は東京だったらしい。

「知らない地区の仕事もすることは、あります。この市役所に勤めているといっても、市全体を熟知しているわけではないですから」

 そういう話では無く、自分が買わないような商店街が、どうやって振興されると思っているかが聞きたかったのだ。

「ちょっと言い方を変えると、あの商店街が、あなたにとって魅力的でしょうか。また、その郊外に住んでいるあなたが、買い物にわざわざ行くようになるでしょうか、ということなのですが」

「個人的な意見では、多分、ノーでしょうね。ただ、市の職員として、商店街振興をせよ、との職務を与えられれば、それなりのことをやります」

 おやおや、ずいぶんドライだ。


二十三


「まあ、俺の意見もノーだが」

「ご自分のご商売でしょう」

「自分の店はどうにかできるが『まちなみ』やら商店『街』全体をどうするわけにもいかない」

 初田職員は、書類に目を落とした。

「書類が整っているのは確認できました。何か質問はありますか。沙羅さんと入学予定の中学校について、ですが」

「保護者は、うちの母親で届けが出ていて、叔父の私は、まあ、同居人というところです。沙羅の父親は母親と離婚して海外放浪中、ということです。こういった家庭は珍しいでしょう」

「一般論で言えば、いわゆる標準的な家庭、父母がいて、一人または二人の子どもがいる独立世帯は減っています。三人に一人が離婚する時代ですし、シングルマザー、シングルファザーも増えています。両親のどちらか、または、両方が、日本語が母語でない子も増えています」

「うちの家庭も標準的ではないですね」

「別に標準的でないことは悪いことではありません。家庭の形は様々になってしまっているのを前提として、子どもが育つ幸せな教育環境を家庭と学校でどう整えるかでしょう」

「それは、与えられた職務における意見ですか」

「個人的にも、日々そう思います」

 初田職員は、書類をファイルにしまいながら、つぶやくように言った。

「それにしても・・・」

「何かありますか」

「いえ、沙羅さんですが、優秀です。優秀なのはいいですが、完璧すぎます。少しそれが心配なのですが。まだ、中学三年になるところでしょう。無理をしているのではないかと」

「だからどうしろと」

「わかりません。申し訳ないですが。ただ、何か困ったことがありましたら、担任の先生でも、こちらにでも相談ください・・・私も教職をとっていまして、今また、教育関係の大学院に通っています。子どもと子どもの教育にはそれなりに詳しいと思います。その私から見ても、突出しています。良い方に振れればいいのですが」

「はあ」

 亮二は教育センターの事務室から退出して車に向かった。

 今日は、沙羅を連れていないので中学校と教育センターの共用の駐車場に乗り付けた。二トン車の中で、久しぶりにたばこでも吸いたい気分になったが、また、沙羅が乗る機会があるかと思って、やめた。

 今日も中学生のクラブ活動のかけ声が聞こえる。どこにでもある中学校の放課後の光景である。沙羅はなじめるだろうか。

 自分は判断できるほど沙羅のことを知らない。

 年々桜の開花は早くなっているようだが、この地方では四月の声を聞かないと桜は咲かない。それでも校庭を取り囲む塀沿いに植えられた桜の木々のつぼみが大きくなっているのは、亮二にもよくわかった。風はもう春である。


二十四


 日々は同じように過ぎていく。

 これまでのように母親が沙羅の世話をやいて、亮二の出番はなかった。春休み中には、二人で県庁所在地の映画館に行ったらしい。

 県庁所在地には、旧市街地からみて、駅を挟んだ反対側に大きなショッピングセンターがオープンし、シネマコンプレックスもそこに入ったため、電車と徒歩で、辿り着ける。

 二トントラックは運転手以外に一人しか乗れないので、沙羅と母親を連れ出すのは亮二にはできない相談だった。それに三人でどこかに出かけることは、とても考えられない。沙羅と母親が一緒に出かけ、亮二は取り残されることが多くなったが、それに不満を感じなかった。

 亮二のネットでのビジネスは、中国のある商社が亮二をエージェントとして日本の取引先を探すことを任せるまでになった。亮二は、いくつかの商談をまとめ、それなりの手数料を得た。外見的には、パソコンに向かっているだけであるが。

 段々と取引額も増え、亮二が一時的に立て替える金額も大きくなってきた。

 そろそろ、八百屋の片手間ではすまない、そう思って次の段階に進むことを考えよう。

 季節は、春から夏に移りつつあった。


二十五 (二〇〇八年六月)


 朝、母親が起きてこない。沙羅にそれを告げられ、亮二は慌てた。

 状況は一気に暗転した。


二十六


「よう、亮二。元気そうだな」

 母が入っている集中治療室をのぞき込む形で現れたのは、なつかしいが不思議と名前を思い出せない顔だった。

「姉貴の病状は聞いている。くも膜下出血だそうだ。兄貴が亡くなったのは、それなりに応えたか」

「ええと」

「二十年ぶりぐらいか。俺は、この家からは兄貴に所払いされていたからな。叔父の達平だ」

 亮二は、この叔父に小学生から中学生の頃にずいぶんと遊んでもらったことを思い出した。ある日、突然、家に現れなくなった。

 叔父は、母の顔をガラス越しにながめた。

「年をとったね。姉貴も。俺もだが」

 叔父は、母親より二つ下で六十前後の歳だ。兄妹でよく似ている、と亮二は思った。

「久しぶりです。誰から連絡がいきましたか」

「沙羅だ。ずっと姉貴と沙羅とに連絡をとっていた」

「僕は少しも知りませんでした」

「おまえさんは、ここから出て行くと言っていたそうじゃないか」

 そう言われれば返す言葉はない。

「まあ、俺もお前の父親に関係を立て直せないまま逝かれてしまった。葬式にも出られなかった。不義理はこちらもだ」

 視線を合わせない会話である。ベッドの脇で心拍と呼吸、血圧を示すモニタが点滅している。中に入るにはマスクをつけ白衣を着なければならないが、そこまでしないで、集中治療室のガラスの前のソファに二人座った。他に見舞客はいない。

「姉貴は自分の身の振り方は決めていた。店を閉めたら野菜を納めている施設に入る手続きをしてある。いろいろな財産処分も指定の弁護士に任せてあるそうだ。手続きや連絡先はノートに書いてあって俺と沙羅が受け取っている。お前の取り分もちゃんとある。ああ、お前の兄貴の分もあったが、それは相続放棄の意思表示の書類がある・・・準備のいい姉貴だったが、いきなりぶっ倒れるとは本人も思わなかったろう」

 沙羅は救急車に乗ってきたが、母親が落ち着いたのを見届けてから、母親の寝間着やら身の回りの品をを取りに帰るとのことで病院を離れている。

「沙羅はしっかりした子だな」

 叔父は言った。亮二は自分が責められているような気がした。

 その日を境に、語学もネットビジネスも全く手が付かなくなってしまった。


二十七


 母親は、意識は戻ったものの、しばらくは集中治療室にいなければならないということだった。集中治療室をのぞき込むと母親はわずかに手首から先で手を振る。それにむけて「いいよ」という仕草を返す日々が続いた。

 叔父の物腰は柔らかだったが、亮二は、いわゆる堅気ではないという印象を受けていた。亮二がこれまで付き合ってきた中で、できれば避けた方がよい人種の匂いである。

 叔父は亮二の母親のみならず、沙羅や兄と連絡をとっていたようである。自分だけのけものにされたように感じたが、深い関わりを避けていたのは亮二の方だった。

 叔父は、母の入院に関するあれこれを、母親に事前にいざという時の指示を受けていたということで仕切ったが、八百屋の方は亮二に任された。

 結局、一日滞っただけで、配達も店頭もなんとか回せた。

「居なくなると決めたのに律儀なことだ」

 と亮二は思った。

 叔父はいくつか会社を経営しており運転手付きの車で母親が入院している病院に通ってきた。

 亮二は午後は母親に付き添うようにしたので、叔父とそれなり顔を合わせるようになった。

 ある日声をかけられた。

「病院内の全面禁煙はきついな。ちょっとたばこを吸える店に行くが付き合え」

「僕はたばこは吸いませんが」

「まあ、付き合え」

 結局、分煙をしているコーヒーのチェーン店に車で行き、運転手には一時間後に戻るように言って、禁煙席をとった。

「たばこはいいのですか」

「先に話がある」

 叔父は亮二をまっすぐ見た。こうして話すのは初めてだ。

「お前さ、これからどうする」

「いきなり、何ですか」

「姉貴は、お前を早く自由にしてやりたいと言っていた」


二十八


 母親ならばそう言うだろう。自分でもそのつもりだった。七十代前半ぐらいまでは一人暮らしができるだろうと考えていた。

「母ならば、そう言っていたでしょう。でも、状況が変わってしまった」

「容態は安定している。もうすぐ集中治療室から一般病棟に移れるとのことだ。そして、リハビリに入るが、どこまで後遺症が残らないようにできるかだ。今の段階ではわからない」

「僕は、近くにいた方がいいでしょう。沙羅のこともあるし」

「俺は兄貴が元気な頃は近寄らなかったが、そう遠くにいたわけでもない。俺のことは姉貴から聞いていなかったか」

「いや、全く」

「そうか」

 ちょっとがっかりしたように叔父は言った。

「まあ、俺も素行が良いとは言えなかったし、迷惑はかけた」

 何があったのか、亮二は聞いていない。

「お前、聞いていないか」

「いや、全く」

「そうか」

 繰り返されて、叔父は自分勝手にがっかりし納得したようだった。

「姉貴は、もう少し時間がかかりそうだ。しばらくはお前も動けないだろう。その間に追々、話そう」

 何をだ、と思ったが、亮二は叔父の顔を怪訝に見ることしかできなかった。

 叔父の顔は母に似ていた。腕組みをして肩をゆするところは記憶にあった。 小学生の頃、どこかの河原に連れて行ってもらったことがある。その時にのぞき込まれた頭から肩にかけての輪郭は確かに懐かしいものだった。


二十九 (二〇〇八年七月)


 ネットビジネスは、最低限の連絡をとって様々なものを清算した。なんとか損は出さない程度ですんだが、取引を再開するのは難しいだろう。中間に入った会社には、それなりの恩を売った形にしたが、この移り変わりの早い世界ではどこまで影響力が残せるかはわからない。

 また、ゼロからはじめればいい、と思ったが、その気力はいつ戻るだろうか。

 沙羅の生活も元にもどった。病院は車でないと行けない距離なので、学校から帰ると二トントラックで乗せていくことが習慣になった。

 沙羅は、ほとんど口をきかなかった。陸上部に入っており、それなりに忙しいようで、帰宅時間を毎朝、店の黒板に書いて出て行き、それを違えることはなかった。

 叔父は、時々、母親のところに顔を出しているようだが、じっくり話をする機会はなかった。

 毎日の野菜の仕入れと仕分け、配達は続く。少しずつ旬の野菜の種類が移る。 その微妙な移り変わりに小さな喜びを感じた。誰も共感はしてくれないが、卸売市場の空気は応えてくれるような気はしている。野菜とはいえ、生きモノを扱っているこの「感じ」は味わい深い。

 店はシャッターの開け閉めはするが、真ん中の鉄柱は取り外さなくなった。レジスターは相変わらず買っていない。

 沙羅の夏休みが近づく頃、母親は一般病棟に移った。母は、右半身が不自由で、今後、どの程度リハビリで戻るか、というところだった。口の端がやや引きつっているが、話ははっきりしている。沙羅とはいろいろ話しているらしい。

 亮二には、いろいろ迷惑をかけた、と謝った後は、あまり口をきかなかった。 亮二も、年金の受け取りの確認や庭木の水やりなどの目先の必要なことと天気ぐらいしか話をしなかった。特に、亮二の今後の身の振り方については、どちらも話そうとしなかった。


三十(二〇〇八年九月)


 沙羅が高校受験の模試で不在の午後、病室で叔父に行きあった。

「いつもは沙羅が一緒なので、あたりさわりのない話ばかりをしていたが、今日はいいかな」

 何がいいのか。

「まあ、ちょっと俺の事務所まで来てくれ。少し大人の話をしたい」

 母親の顔をみたが、

「いってらっしゃい」

 と言って、窓の外に視線をそらした。

 二トントラックは病院の駐車場に置いていくことにして、クラウンの後部座席に乗り込んだ。叔父は事務所まで、と運転手に言ってたばこを吸い始めた。

「車内でたばこを吸うんですか」

「まあ、我慢してくれ。車内ぐらいしか、たばこを吸えんのだ」

「運転手さんはいいのですか」

「私も自分でも吸いますし。もちろん、この車内では吸いませんが」

「古い人間だから我慢してくれ」

「まあ、いいでしょう。僕も吸っていたこともあるし」

「昔吸っていて、やめた人間の方が嫌がるんだよ」

 わかっているのならば、やめればいいじゃないか。

 車は、国道沿いの箱形のアミューズメントセンターの敷地に入っていった。近頃はやりのボーリング場やビリヤード、バッティングセンターなどが一緒になった全国チェーンの施設だ。

「ここですか」

「運営は専業に任せている。俺の会社は建物を貸して賃料を取って食っている」

 事務所は、派手な看板と飾りのある入り口の反対側から入った。建物の裏側は田んぼだが耕作放棄地のようで荒れていた。遠くに山が見えるが、まだ夏の気配の残る濁った空気を通しては稜線が見えるだけだ。



三十一


 オフィスはよくある間仕切りパネルを組み立てたような、どこにでもある造作だ。

 亮二は招き入れられ、応接セットのソファに座らせられた。窓から見えるのは、隣の工事現場であり、三時の休みなのか建機は動きを止めていた。

「工事の音がうるさいが、このビルの拡張工事なので苦情を言うわけにもいかん」

 叔父は、窓のブラインドを下ろしながら言った。

「隣は本屋とレンタルビデオの店だったが見切りをつけた。業態はどんどん変えないと飽きられる」

「物件はここだけですか」

「いや、この国道沿いに三か所、むこうのバイパスに一か所ある。〇〇市には駅向こうの土地区画整理地に一か所、これは別会社を作って持っている。あと、△△市の工場跡地のショッピングセンターだ」

 貧相なオフィスにしては、ずいぶん資産をもっている。ただ、資金繰りはどうか、などと亮二は考えてしまった。事業が大きくなっているからといって儲かっているわけでも、安定しているわけでもない場合があることは、亮二は身に染みている。むしろ、追われるように事業を拡大し、行きつくところまでは行きつかないと止まれなくなっている場合もある。もちろん、止まったところで事業体としては破綻する。

「資金繰りは安定しているよ。冒険しているのは、一か所だけだ。そこが破綻しても、他へ影響しないようにしている」

 叔父は見透かしたように言った。

「まあ、酒でも飲んでゆっくり話すべきなんだろうが」

「僕は酒を飲みませんよ」

 メンタルをやられてから、酒は断っている。

「俺は、お前の父さんから所払いをされたと言っただろう。そのいきさつは知っているか」

「いいえ、全然。叔父さんには中学生まで、ずいぶん遊んでもらいましたが、ある日突然、来なくなりましたね。父にどうして来ないのか聞いたことがあります」

「何か言っていたが」

「いえ、何も」

 叔父は、真面目な顔をして言った。

「あのころは、土地バブルだった。こんな地方都市の土地の値段も馬鹿みたいに上がった。覚えているか」

「いえ、全然」

「俺も株と土地と両方にはまってな。土地の方は会社を経営していた。今のこの会社とは違うがね」

「はあ」

「土地が倍々ゲームで上がった時代だった。あちらこちらで地上げをやってな。銀行はいくらでもカネを金を貸してくれた」

「そのころ僕は中学生でした」

「県庁周りを縄張りにしていたが、この町にも手をだした。駅前通りの地上げを請け負ってな。暴力団まがいの連中も使った。今から思えば金はあったが最低の時代だった」

やけに景気のいい時代であったことは、なんとなく感じていた。

「立ち退きのための嫌がらせをやった先で、若いやつらがそこの娘に集団暴行して自殺させてしまった。その一家は離散した。行方もわからない」

 その事件は、亮二も覚えている。

「裏にいたのは、俺だ。もちろん、直接やれとは指示はしていないが。責任はある」

 叔父は、視線を落として言った。

「俺は、兄貴にスーパーをやらせたかった。あんな小さな八百屋では先が見えている。兄貴には土地を仕入れたら、店も用意して共同経営したいとまで伝えていた」

 店の設計図まで描いて事業計画までつくっていたんだぜ。動線計画から収支計画もだ。店のロゴだってつくったさ。

「話はすべてご破算になり、俺はこの街に足を踏み入れられなくなった。俺はひどい人間だ。自分を責めて会社もたたんで、株も土地も手放し、しばらく寺に籠もった」

「はあ」

「結局、悟りも開けず娑婆に戻った。できるのはこの商売しかない。それから儲けはしたが贅沢もせずあちらこちらに寄付して罪滅ぼしをしている」

 叔父は自分の坊主頭をなぜた。だいぶ白いものが混じっている。

「まあ、ビジネスとしては順調だ。結果的にバブル経済の崩壊前にいろいろなものを売り抜けた形になった。悪運が強いといえば、それまでだが」


三十二


「お前の考えを聞きたいと思っているが、いきなり聞くのも失礼だ。まず、俺の方から話そう。お前の死んだ父、俺の義理の兄に相談しようと思っていたが逝ってしまった」

 叔父は、何本目かのたばこに火をつけた。

「姉貴にも話そうと思っていたが、まだ話せていない。元気になるまで待たなければならない」

「ならば、僕に話す必要はないでしょう」

「そうもいかない。お前にも関係のある話だ」

なんとなく不愉快になり、席を立ちたいが、そうすると帰りの足がない。国道には路線バスは通っていないし、どう考えても家までは十キロある。

「では、要点をつまんで、端的にお願いします」

「恭一が指名手配中だ。逮捕状も出ている。それも国際手配とのことだ」

 恭一は兄の名前である。

 うわっ、と亮二は心の中で声を上げたが、それは叔父が知っていたことへの驚きだ。

「今年話題のタックス・ヘイブンを使った国際的なマネーロンダリングに関与していたらしい」

「関与ではなく、首謀者。胴元を張っていませんかね。あの人は」

「え、お前、驚かないの」

「兄の非常識なふるまいには慣れていますから」

というか、それは亮二が東京にいたころからのことだ。

 日系の証券会社の海外支店から、米系のヘッジファンドに移って、その後、ベネルクス三国と地中海あたりをテリトリーにするロシア系の金融財閥にスカウトされたところまでは知っている。扱う金額も、けた違いにあがっていったはずだが、国境を越えて芳しくない資金の流れに関与しているのは、様々なサークルでうわさが流れていた。

 日本での富裕層間の人的なネットワークを使って、パーティや視察と称した観光旅行先の豪華ホテルで、様々な贅沢品とともに金融商品が売られているが、 兄は、そうした商品の組成も担っているらしかった。日本の首相経験者や現役の国会議員の親族もかかわっているので、外事警察や金融庁も相当やりにくいとは聞いたことがある。

 叔父は、そうした金融商品の売り込みがあったのを機会に、裏を調べたらしい。兄の国際指名手配は、その過程で知ったのだという。

「まあ、叔父さんもそういう話がくるほどの資産家になったということです。ただ、怪しげな話なので引っかかってはいけない。向こうにとってはキャッシュ・リッチな田舎者の成り上がり程度しか思っていませんし、引っかけるツールは、タレント、文化人、芸術家、政治家など、もろもろ持っていますから。日系の銀行や証券会社は痛い目を見たのでそういうことはやりませんが、外資系はやり放題で、税理士や弁護士からの話が危ない」

 何で、叔父にこんなことを説明しないとならないのだろう。

「まあ、そういう売り込みの話ではなく、兄の話ですよね」

「そうだ」

「母親が倒れても帰って来られないのは、そういうことでしょう。正直、父が死んだときによく日本に入れたなと思いましたが」


三十三


「お前の兄さんの話は、ひとつとして、もうひとつだ」

叔父は言った。

「お前の身の振り方だ。この町を離れると姉貴に言っていたそうじゃないか」

「倒れた母親を放って、できるわけないでしょう。ネットで仕掛り中の仕事もきれいにしましたよ」

 叔父に怒ることはないが、言い方がきつくなった。

「俺は、この町が嫌いだった。未だに街道から向こうに足を入れない。兄貴の家には、ここ二十年近寄ったことがない」

 唐突に叔父は、この土地のことを語りはじめた。

「チンケな町だよ。北関東の田舎県の中で、三番目か四番目を争っているのに、ムダにプライドだけ高い」

 父と叔父は、この町で生まれ育ったはずだが。

「その町を二十年前に夜逃げしたのが俺だ。罪滅ぼしといいながら、商売で東京で一山当てて、そのカネで郊外を買いあさった。こんな箱形の醜い建物を並べて、中心地をガランドウにした。何やかんや言ってもこんなところでカネを使って時間を潰すのは馬鹿どもだ」

 こんなところ、というのは、叔父の持っているロードサイドの商業施設だろう。

「その馬鹿どものカネで俺は生きている」

 叔父はさらっと言った。

「そうまとめてしまうと、きれいすぎるかもしれない」

 少しもきれいでないが。

「バブル前は、銀座あたりで羽振りよくやっていたこともあるが、あちらにも足を踏み入れられない。本当の本物には結局手が届かなかった」

 東京でも何かやらかしたか。亮二自身もそうであるが。

「まあ、東京は田舎者に食い散らかされる街ではないですか。居座っているのは、結局田舎者ですよ」

 亮二は調子を合わせた。半分は本音だった。

「お前のことも調べさせてもらった。調べるまでもなく×社関係の新聞やら雑誌記事を追っていけば、わかるがな」

 急になんだ。

「さて、お互いスネに傷をもつ身とわかったところで相談だが」

 そういうまとめ方をするのか。

「ちょっと俺の仕事を手伝わないか」


三十四


 叔父のビジネスは不動産賃貸業ではあるが、ロードサイドの農地をかき集め、建物を建てて、ファミレスや家電・衣料品量販店に貸すビジネスモデルである。農地は、地元の農家から定期借地で借り上げる。全国展開する量販店の要望に応じた建物を建てて、そこから賃料を取る。その賃料と借地料の差が会社の収入になる。

 建物の建築費は、農家に出させる場合と金融機関から借りる場合がある。どちらかは相手の状況による。農家に出させれば物件の賃貸料が安くなり競争力は増す。金融機関もこの低金利時代に貸出先がないので、それなりのプランを持ち込めば借りることは難しくない。

 農地を農業以外に使うには転用許可申請が必要だが、農業をやりたくない農家が多い中、農業委員会で異議が出ることは少ない。委員にも既に手持ちの農地を転用してしまった者が多いので、いまさら農地を守れ、といった主張もしにくい。

 土地を手放すのではなく貸す形にすれば、農家の抵抗感もなくなる。先祖代々の、とか言う農家もいるが、戦後、農地解放で農地を手に入れた農家が多く、ほぼそれは嘘である。どうせ、後継者はいない。耕作放棄地にするよりはましだろうと言えば、簡単に説得される。

 行政当局も農地よりも税収が上がり、周辺市の郊外開発も進んでいる。消費を市外にとられるよりも、開発を市内にもってきた方がましだ。

 結果として、ロードサイドには、全国チェーンばかりの似たような風景が広がるが、それは、消費者が望んだことであり、農家や行政が望んだことでもある。そして、街の古い中心地は空洞化が進むが、これも結果として避けられない。

 地域の消費力は限られている。それを吸い取る郊外の大型店舗の立地を許しておいて、中心市街地の空洞化を嘆くのは筋違いである。そもそも、シャッター通りが問題だと言っている人間で、実際に中心市街地の店で買い物をする者がどれぐらいいるだろうか。

 そういう構図をわかった上で、叔父は中心地への復讐の念も込めて、郊外開発にかかわってきた。

 建物としても低コストで最大の容積を見込める箱形で、内装もいつでも取り替えられる安物であるが、中に入れば市内の古びた商店街では味わえない色と音に満たされた空間が広がる。無個性ではあるが、商店街の安っぽいプラスチックの飾り物や垂れ幕、問屋から割り当てられた販促ポスター類よりは、こちらの方がましだろう。

 ロードサイドの風景を無個性とそしるならば、そこで買い物をし遊ぶ住民を誹るべきだろう。銀座や六本木などの街はこうした地方から吸い上げたカネで食ってきたのだ。地方の郊外の無個性化を批判する文化人はそのおこぼれで偉そうなことを言っている偽善者ばかりだ。亮二はそう思っている。

 この全国一律の風景が現代日本の頂点であり底辺でもある。日本を代表するのは、富士山でも姫路城でも、東京タワーでもない。消費者と事業者がつくりあげたこの風景だ。

 叔父の事業を俯瞰して、その思いを深くした。

 亮二は、故郷の商店街を憎み、郊外を憎んできた。考えてみれば東京の真ん中で羽振りのよかった頃も、故郷を憎み、そこを収奪する東京を憎んでいた。

自分は、自分のいるところがいつも嫌いだった。

 ここからはさっさと去りたい。みんな嫌いだ。



三十五(二〇二八年三月)


 広い空間の真ん中の噴水は枯れていた。

 パンフレットによればここがモールの中心だろう。WEB上の情報は既に削除されてしまっているので、昔の紙のパンフレットを取り寄せた。建物の設計図が入ったタブレットをベトナム人の秘書が抱えて、亮二の後をついて回っている。

 天井はガラスのアーチ状になっていて、思ったほど曇っていないので、太陽の光が入ってくる。冬の晴れた日のせいか空気はそう悪くない。

 両側の店舗は全て閉まっているが、一つ一つの店の店の看板は、ロゴの部分を取り去っただけなので、白抜きが残り、どんな店だったかはわかる。街中ならばイメージダウンを避けるため塗りつぶすところだが、モール自体を閉じたので、最小限しか手をかけていない。看板の下地は中途半端な鮮やかさを維持している。

 店内の造作と同じようにシャッターはそれぞれの店舗が備えるのでパイプだったり折りたたみだったりするが、中が見えるものが多い。そして、通路からシャッターを通して見る店内は全く空になっているものと、棚やら椅子が残されているものが半々ぐらいである。撤退時に、金目のものは全てさらっていったので価値もないものだらけなのは仕方ない。

 配布用のテッシュペーパーを詰め込んだ箱や束になった販促用のうちわがころがっている。書かれた閉店セールの年月日をみると三年前の夏である。

「案外荒れていないな」

 亮二は歩きながら秘書に言った。

「中東と違って気候は穏やかですから。一応、警備システムは生かしています。侵入の有無がわかるだけの一番安い契約ですが」

「建物の点検は?」

「法定の最低限のものは。ドローンでの巡回映像と衛星写真を組み合わせています。それで微細な建物の傾きまでわかります」

 秘書の日本語は流暢だ。日本の大学院を卒業している。

 建物内には、ただただ広い空間が広がっていた。

「デッド・モールとはよく言ったものだ」

 亮二の会社が管理していた物件だが、土地は借地で建物への投資の回収はとっくに終わっている。

 このような物件が日本全国で数多く現れ問題となっている。アメリカでは二〇〇〇年代からだから、概ね三○年遅れである。

 デッド・モール(廃墟モール)とは、ウイスコンシン大学の関連機関が名付けたとか聞いた。要するに閉鎖されたショッピングモールである。

 競争に敗れて入場者と売り上げが減少し、テナントの流出が止まらなくなったあげくの閉鎖であり、空っぽの荒れた巨大な建物が地域に残される。

「今の日本では、珍しくもない、か」

 亮二はつぶやいた。

 これは叔父の手伝いで会社に入った時、目玉事業だった物件だった。

 空港から直接ここへ来た亮二は、やや時差ボケの頭を振って思い出した。

 中国やカンボジア、中東の物件に比べれば小さい。小さいが、これが亮二の継いだ会社の最初の足がかりだった。

 フードコートだった空間に入る。こちらは、密閉型のシャッターを閉めている店が多いが、いくつか厨房機器がそのまま残っているところがある。備え付けのものを床や壁から引き剥がす手間も惜しんだか。

 このフードコートを子育ての一時期や高校時代の放課後の思い出の場としてなつかしむ人々もどこかにいるのだろう。だが、その時代は戻らない。

 天井から床まである窓から外を見ると白線が薄れた駐車場が見えた。ただただ広く、案内用の表示は安全のためか全て取り外されている。

 開店時は、この駐車場に入るのに二、三時間待たなければならないという苦情がきたが。

「変わらないのは、山だけか」

 冬の冷たい朝の空気を通して、山の稜線ははっきりと見える。亮二が高校に通う道から見えた姿と違わない。

 その裾に散らしたように見える住宅や店は、遠くからはわからないが、かなり空き家、空き店舗が多いはずだ。今は、建材や塗料の性能が良いため、表面的には何年たっても新品のように見えるが、人が使わなくなった建物の痛みは早い。このモールも表面は繕えても、設備関係はかなり手をいれなければならない。

「投資の回収は終わっている。後は、もう一度ビジネスを組み立てられるか、だな。見積もりは厳しめにやってくれ」

 亮二は、タブレットを抱えてついて回る秘書に言った。

「ああ、ここは」

 ロンドン万博の水晶宮を模した鉄骨とガラスで造らせた正面に来た。この様式を真似た建物は各地で造られている。

 亮二が企画した際には、アメリカのセントルイスにあったモールを参考にした。市の中心部にあったそのモールは、後に駐車場として使われ、さらに潰されて跡地にオフィスビルが建てられたそうだ。

「まあ、イミテーションのイミテーションだ」

 使えるだけ使ったならば捨てる。歩きながら亮二は独り呟いた。建物も街も、だ。


三十六


 亮二は叔父の会社に入り、叔父が引退した後は社長を継いだ。儲かるビジネスモデルはできていたので、あとは物件の数を稼ぐだけだった。いわゆるPDCAをくるくると回して、後にはカネと空の建物が残った。

 亮二のビジネスにとって幸運だったのは、叔父の会社に入った直後にリーマンショックが起こり、世界的な金融恐慌の中で郊外の国道沿いにはりついていた中小の工場の土地が市場に放出されたことだった。金融緩和により市場に放出され、だぶついた資金で、それらを買いまくることができた。

 叔父にとってのバブル崩壊のように、亮二にはリーマンショックがビジネスの転機になった。

 母親は、リハビリを熱心に繰り返したが、結局、店には戻れず、老人福祉施設に入所した。本人が予定していたよりも一〇年も早かったが仕方がない。そして、そこで二度目の発作を起こして亡くなった。施設には五年入っていた計算になる。

 沙羅は、帰らない父親をどう思っていたかわからないが、国際司法を大学で学び、国際機関に就職した。もしかしたら父親を追いかけているのかもしれない。家に居たときも、大学に入るために東京に出てからもあまり口は聞かなかったが、それでもクリスマスカードはきちんと毎年送られてくる。

 八百屋は、叔父の会社に入る時に、幼稚園と社会福祉施設、そして買いにきてくれていた街の料理屋に挨拶をして廃業した。空き店舗であるが、仕方が無い。そうやってもう二〇年近くも放ってある。

 地域のロードサイドとショッピングセンターが飽和してきて、母が亡くなり、沙羅が東京の大学に進学したのを機に、海外に出た。それからほとんど日本に帰らなくなった。

 県庁所在地のあの医者には、日本を離れる時にあいさつをしたが、診察の必要はこのビジネスに復帰してから感じたことはない。

 中国の沿海部から内陸部の都市へ、現地との合弁で事業を進めた。形としては、八百屋の二階でパソコンを叩いて夢見ていたビジネスが実現したわけである。さらに、新興のベトナムやカンボジアまで手を広げた。

 ××市の中心市街地は寂れ、駅の周辺の再開発は結局できず、郊外のロードサイド店は、借り上げ期間が過ぎて、空いたまま放り出されるものが多かった。権利者さえわからない建物や土地が増えている。時が経つにつれて所有者が亡くなり、権利関係が複雑化し、手が着けられなくなっているようだ。

 特に、××市の郊外を高速道路が開通して交通の流れが変わったことや、工場団地から工場が海外に流出したことで人もカネも地域からなくなったことが、地域に一層、深刻な影を落としている。

 一度、日本に帰ってきて、必要な書類を揃えるため××市役所に寄った際に、市長選のポスターを見かけた。どこかで見覚えがあると思ったが初田職員だった。どうやら職員から市議になって、市長に立候補したらしい。その後当選したかどうかは知らない。いずれにせよ市の経済的な復活はなかった。ショッピングモールは閉めてしまった後だったから、亮二は、あまり関心はなかったが。

 中央政府も地方自治体もオリンピックが終われば、高齢化と人口減少、インフラの老朽化の影響が重くのしかかることはわかっていても何もしようとせず、また、できなかった。

 ころげ落ちるように街が沈み、日本全体も沈む。亮二は、それにつきあうことはないと思って海外で過ごした。

 その自分が、今、この沈みきった地域に帰ってきた。

 手ひどく裏切られたのは前と同じ。そして、同じようにこの場所で再起を期す。今度は、メンタルも大丈夫だ。

 右肩下がりでも、その場その場で利益を上げる方法はある。他が目をつけていない残余の富を絞り尽くすのだ。

 かつて契約切れで捨てた建物を再び借り、いくつか権利を整理して当座のキャッシュを確保した。

 オーケー大丈夫だ。もう一度立ち上がれる。もう一度ここを踏み台にして、のしあがる。

 そして、また、ここを捨てる。


         (了)






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