ヤバいという兆しはある
◇
枕の先、十センチほど開けたままにしていた窓の外からサァーと包み込むような雨音が聞こえてくる。
カーテンから漏れる青白い光の加減から、まだ早朝と呼ぶ時間帯だろうと体感する。
はだけていた上布団を胸元に手繰り寄せながら、こんなに優しい音で目覚められるなんて素敵なことだと思う。
その次に考えたのは、今日一限から授業じゃん、ってこと。
せっかくの夢見心地が現実味に侵されていく。
ああ、鬱陶しい雨。
傘を差したところで学校に着く頃には髪はシナシナになるし、服も湿る。
そんなひどく生活感のあることを想像して、そういえばこの前学校でビニール傘を盗られたんだと思い出した。
ここから最寄りのコンビニで新しいものを買うにしても、その道中でビショビショになるのは必至。
どうしたものか。
あれこれ考えていると、もう何もかもが面倒になってしまって、よし、じゃあひとまず一限は自主休講にしよう。これで問題は先送り。
二度寝の態勢に入ると、憎らしくて仕方なかった小雨の音が再び愛おしいものに変わる。
冷たい空気が流れ込んできて、その中で暖かな布団にくるまるこの感覚、最高だな。
たっぷり睡眠を取って次に目が覚めたのは10時半過ぎ。
これじゃ二限も間に合わないねって、乾いた笑いしか出てこない。
スマホにメッセージの受信サインが躍り出た。
グループ宛てじゃなく私個人に向けたもの。
珍しいな。
【おう佐伯、おどりゃ何サボりこいとんのじゃ】
この独特の言い回し、嶋見の奴か。
【午後の空き時間にツラ出せや@二学食堂】
ふぅーと長いため息が出る。
外は依然として薄暗いけど、雨は一旦止んで曇天に持ち直したようだ。
◇
この大学は学部のまとまりでざっくりと5、6の区画に分けられている。
そのそれぞれに食堂があり、他にも外部企業のカフェチェーンが入っていたりと、学生が空き時間にダベることのできる憩いの場は多い。
待ち合わせた食堂に入ると、学生の数はまばら。
三限の時間帯だから昼時のピークは過ぎている。
「花帆ぉー!」
大声で私の名を呼ぶ声。
これが嫌だから先に私が彼女の居所を見つけたかったんだけど、出遅れたようだ。
窓際の長机の端に座る彼女、嶋見茉以は一目見て判るユルフワ系女子。
この湿気だというのに薄茶色の髪のウェーブは完璧な形を保ち、周囲にフローラルな香りを発散させている。
学科の同期生なんだけど、初見で絶対仲良くならないだろうなと確信していた子。
それがどういう経緯だったか、彼女のパリピ臭さは外面だけで中身はオヤジだということが判明し、以降なにかと馬が合う。
「もぉ~。今日の一限サボったでしょ? 何してたのよ」
「優雅に二・度・寝」
胸元にピースサインを作りながら彼女の対面に座る。
机には広げられた可愛らしいピンクの手帳と、構内カフェで買ったとおぼしきドリップコーヒーのカップ。
本当、この子の装いは完璧だ。
「花帆がいなくて寂しかったよぉ」
どの口が言うのか。
コイツがクラスの子たちの前で私に話しかけることなど皆無だ。
でもそれは私に遠慮してくれてのことだと知っている。
せっかく同じ学問に興味を抱いて集まった仲間だから足並みそろえて仲良くやってこうよ、みたいな空気が苦手で、私はあえてクラスで孤立しているのだ。
「正味の話、心配してんのよ。アンタ今期の講義ちゃんと出席点稼いでるわけ?」
茉以は唐突に普段の声色に戻ってコーヒーをズズズと啜る。
「今のところは、ね」
来月の終わりまで続く一連の学期カリキュラムの、今はまだ三分の一まで進んだくらい。
この時点で今日の一限には二度目の欠席。
ヤバいという兆しはある。
「学科の子たちね、アンタの話してたよ。去年の冬期の単位、ほとんど取りこぼしたっていうじゃない」
留年候補生か。
そういう話、本当に好きだよね。
コンクリで固められた方形の教室に押し詰められて、同じ服を着て、同じ本を開いて、共同生活の作法とやらを刷り込まれる。
私たちは高校を出るまでそんな暮らしを強要されてきた。
それに比べて大学というところは膨大な選択肢を用意し、自己の選択というものを尊重してくれる。
そんな環境にいながらどうして、彼女たちは塊のままでいたがるのか。
「はいはい、アンタはまたそうして斜に構えて。人はひとりじゃ生きてけないんだからね。講義の代返も、過去問の調達もしかり」
「茉以の人付き合いの理由、そんなもののため?」
「私? バッカ、違うわよ」
茉以は大袈裟にため息をつくと、ひとつ咳払いをした。
「私はね、チヤホヤされてたいの。愛想振り撒いて、群衆の中のナンバーワンに居座り続けたいのよ。誰もが羨むめちゃモテ愛されガール。それが私、嶋見茉以よ」
これが本性。
内なる欲求に率直であるが故に外側を偽りで塗り固めるという人間臭さ、なんとも嫌いになれない。
私にとっては無害だからいいんだけどさ。