ひとつだって望まない
午後7時を回ったっていうのに構内には慌ただしく蠢くたくさんの人の気配。
それは私のいる棟に限らず、夜のキャンパスの全域に言えることだ。
祝日を含む週末の3連休は我が校の学園祭。
半年前からコツコツと計画されてきた催し、前日に設けられる準備時間だけで事足りるはずもなく、先週からずっと放課後や空き時間は奔走する人の動きでドタバタと落ち着かない。
6限の授業を終えてから、クラスの子たちを前に珍しく茉以が声を掛けてきた。
「久々に桃色ガールズトークでもしましょうよぉ」
どうせノロケ話を聞かせたいだけでしょう。
紙コップ式の自販機で買ったコーヒーを片手に校舎をブラつく。
廊下の壁面は出店の宣伝チラシで色とりどりに埋められていて、それは貼付禁止のはずのホールの柱にまで及んでいた。
「今年はカレとの学祭デート。ユミっちんとこのタピオカ買って、サオリンとこのバンド聴いて……。あ~ん、3日で全部回れるかな~?」
新しい恋人を連れての挨拶回り。
顔の広すぎる茉以にとってはそれだけで骨の折れるひと仕事だろう。
人に幸せを見せつけることに幸せを感じるなんて、私にはおよそ理解できそうもない。
「アンタの方は? 眞輔っちとは最近どうなのよ」
そうして無邪気を装う茉以が、本当は上手くいってないこと知っていて、心配して私に声を掛けてくれたんだってこと、透けて見えていた。
そういう遠回しな気遣いが今の私にはちょっと重かった。
「ねえ。私と茉以の間柄だから、そういう回りくどいのはやめにしよ」
「うん?」
「眞輔のことは諦めたんだ。いろいろあってね。だからもう、この話題は終わり」
「…………」
いつもニコニコと明るい茉以が真顔になるだけで、変に周囲に不安を与えてしまう。
そのくらいこの子の愛想の良さって洗練されていて、嶋見茉以という人物を創り上げている。
でも私は彼女の素の表情ってのを人一倍よく知っていた。
「アンタがそう言うなら、こっちもストレートにぶっこませてもらう」
真剣そうに眉を吊り上げるこの顔も。
「今年度になってからの花帆、ちょっとずつ元気になってた。一時期とは見違えるくらいよ。それって間違いなく、眞輔っちのおかげだよね」
私は黙って手元のコーヒーカップに目線を落とす。
その仕草が否定を意味しないってことも、茉以はよく知ってるはずだ。
「私たちはバカ話で盛り上がったり愚痴垂れ合える友達だけど、根っこの部分はまるで別の人種よね。深く寄り添い合える関係とは違うってこと、わかってる。でもさ、眞輔っちとならそうなれるんじゃないの?」
カップの液面がふるえて、波紋をつくる。
「このままじゃ逆戻りだよ。昔のこと、乗り越えようって気がアンタにあるなら、きっと眞輔っちは助けてくれるよ」
「やめて」
そういう気遣いが、重いんだってば。
「好きなものになびくのは簡単で、嫌なこと忘れるのも簡単で、流れのままに簡単に片付けちゃおうって、私の事情はそんなに単純じゃないんだよ!」
何か言い返したげな茉以を残して、私は廊下を突き進んでいく。
正面のガラス扉を開けて、日が落ちて暗くなった外階段を一気に駆け下りる。
振動で跳ねたコーヒーが指を汚し、溶けていた砂糖の粘り気が絡んで気持ち悪い。
見つけたゴミ箱に中身の残ったままのカップを投げつけるようにして捨てた。
校舎の軒下にはごちゃごちゃと祭りに関わる資材が占用していて、一部は歩道にまで飛び出しているようだ。
野外ステージで使う大道具、組み立て途中の神輿だろうか、高さ2メートルほどの塊にブルーシートが被さっていて、覗く隙間からベニヤ板や段ボールの素地が見える。
夜間作業のために用意された自立式の照明器具が周辺に強烈な光を放つ。
その照り返しを受ける掲示板の中に一際目に留まるチラシがあった。
それは単に主張の強い色彩で塗り飾られていたからというだけではない。
可愛らしいタコのイラスト共に、【バド部伝統の揚げたこ焼き】という煽り文句。
「そっか……」
厭なものを見つけちゃったな。
「今年も出店するんだ。バドミントン部」
この学校は私には要らない物で溢れ返っている。
こんなもの、ひとつだって望まない。
名都さえ隣にいてくれたら、もう私は何も望まないのに。
携帯に着信。
さっき別れたばかりの茉以から。
「アンタ、今どこ?」
「まだキャンパス。もう出てくとこだけど」
「渡しそびれたものがあるから、待ってよ」
「それ、今でなきゃだめなの?」
苛ついた茉以の語気に引っ張られて、つい私の口調も速まる。
「ついでに一言いってやりたいこともあるから。中央図書館の裏手の駐輪場、来てよね!」
ブツリと切られた。
無視したってよかった。
でも私に非があるって解っていたから、謝る気はなくても行かなきゃならないと思った。




