本能の定義は?
ふいに昨夜見た夢の内容を思い出して、胸のつかえが取れた気がした。
でもつかえてくれていた方が楽だったかも。
記憶と共に要らない情動の荒波がどっと私の中に雪崩れ込んできたようだった。
夢で私は濃霧の中を漂っていた。
行き先も帰り道も見失って途方に暮れている。
背後からガタガタと不気味な機械音が聞こえ、それは加速度的に音量を上げてみるみる私に近づいて来るようだった。
なぜか私は、その音の発信源が人を撥ね飛ばそうと迫る貨物列車だと判っていた。
耳をつんざくほどの騒音から逃れるように、しがみつける何かを探して手を振り回す。
突としてそれが柔らかく硬いものに触れた。
その表面に掴むことのできる取っ掛かりを見つけられずにいると、太い腕が2本伸びて私の身体を抱き寄せてくれる。
飾り気のない素朴な匂いの中で、接した肌から相手の緩やかで力強い脈動を感じた。
こんな夢を見てしまうことが証明に他ならない。
私は眞輔に恋をしたのだと。
それは揺るぎない事実であって、否定も肯定もない。
問題は、その感情に向き合った上での答えを出さねばならないということ。
そしてその選択の結果に起こる出来事を受け入れる勇気を持つこと。
憎らしいほどの難問だけど、もう答えは出ている。
本当は恋なんてする前からわかっていたはずだ。
身を焦がす恋心に溺れた夏を終えて、私は人知れず、この想いを失恋にすることを誓った。
私と眞輔のすぐ隣を駆け抜ける色の無い貨物車と踏切、それを隔てた向こう側にまだ名都の影があると思えたから。
傷ついて、傷つけてでも留まろうとしなければ、簡単にその闇から引きはがされてしまうほどに、眞輔の存在は私を変えてしまう力を持っているだろうから。
――――いつの間にか、携帯の画面は暗転していた。
◆
『本能の定義は?』
私の問い掛けに、前もって用意していたかのように名都は答えた。
『間違うこと』
『は?』
奇抜なことを言い出すのはいつものことだけど、今回はちょっと、意味がわからない。
『あらかじめ定まってる抗えない何かに引っ張られること。それが間違いだとわかってても、抑えることができないの』
『う~ん……』
あながちズレていないのかも。
でもなんだか、名都らしい回答じゃないとも思える。
『……私はね、私を知る人のいない街に来れば、もっと自由な自分でいられると思ったんだ』
その物言いは普段の雰囲気とは明らかに違っていた。
『ねえ、花帆。この半年のあいだ、宇野名都は宇野名都らしくいられたかな』
シリアスな顔でそんなことを言い出すのが一番らしくないんだけど、ビビったのかな、私はついおちゃらけて見せたんだ。
『なに言ってんの。名都はこれ以上ないってくらい、名都だったよ』
悲しそうな瞳をして、名都は表情を崩した。
『その正体を疑うこともないまま、目の前の明かりにぶつかり続けるカナブンでもいいと思ったんだ。それが本来の私なんだったら。でも本能に従うだけでいたら、私はまた繰り返しちゃうのかもしれない』
なんの話をしてるのか、見当もつかない。
目を離せずにいる私の前で、名都はおもむろにシャツのボタンを外し始めた。
はだけた胸元に月明かりでおぼろげに浮かび上がるのは、黒く変色した無数の醜い傷跡。
目の前で暴力を見たことは、ある――?
『間違いとわかっててもそうせずにはいられなかった。突き動かされるままに、私は間違ったんだ』
『何をしたの……?』
『人を刺したの』
遠のいていきそうな意識を繋ぎ止めるために、名都の発した言葉を頭の中で反芻し続ける。
そうする中で、暗澹とした海の寄せては返す静寂が癇に障るほどに煩かった。
このときなんの言葉も掛けてやれなかった私を名都が見限ったのは当然のことだと思う。
でも私の吐く薄っぺらな台詞なんて助けになるはずがない、気休めにすらもならないと、名都を失望させるだけじゃないかと怖くて、黙り込むしかなかった。
薄っぺらかどうかなんて関係ない。
大事なのはそんなことじゃないんだって、そんな当たり前のことも解らずに足踏みをしてしまった私は、間違いなく友達失格だったと思う。
『私、父親を刺したんだ』
はるか遠くから差す灯台の光芒がゆっくりと弧を描いて、舐めるように名都の横顔を照らして消えた。




