まだ素直に認めてはいなかった
薄暗い大講義室の中へ一歩入ると、冷気がわっと身体を包み込んでくれて、はあ、生き返った気分。
クーラーという文明の利器、心から偉大な発明だと思う。
最前列の机の端に積み上げられたプリントの山から一部をつまみ取って、目立たなそうな後方の席に腰を下ろす。
メッシュ素材のバックパックを机の上に置くと、背中に当たっていた部分に熱がこもっていて、それはもれなく私の身体の方も同じ。
肌に張り付いて湿ったTシャツをぐいと引っ張り、そのままの姿勢でジッと、空調機が発する冷ややかなそよ風が火照りを吸収してくれるのを待つ。
迂闊にも机に置いたプリントの上に腕を乗せてしまって、汗で紙がくっついて鬱陶しい。
アパートから20分ほどの登校ルート。
何でもないはずのいつもの道が、季節が夏へと切り替わるだけでまるで様相が変わってしまって、わざわざこんな真夏日を選んで学校に召集しないでよ、って心中で不平が零れる。
一般の授業とは別に、集中講義という連日に渡って続くコマ割り授業がある。
手っ取り早く履修を終えられるのは魅力的で、評価方法もほとんどがレポート課題だから筆記テストを避けられるという利点もあり、単位稼ぎには重宝される。
だけどこの授業を取ったのは失敗だったかな。
開講日が夏休みの中日という時点で既にかったるいのに、加えてこの炎天下の中を今日を含めて3度も往復しなければならず、その苦行を想像するだけで気分は沈む。
冷房のおかげで汗は引いたものの、首筋に残るベタベタがなんとも不快だ。
通常の教室3つ分の広さに相当する大講義室がほぼほぼ埋まり、照明は薄暗いまま静かに講義が始まった。
けれどいかんせん勉強に身が入らない。
なんだか額の辺りが熱を帯びているみたいで、頭もぼんやりする。
そのくせ身体はソワソワして落ち着かない。
この発熱は容赦ない日射を浴びて表皮が炎症を負ったのでも、はたまた夏風邪をひいたせいでもない。
他の原因のためだということは判っている。
最近の私、気付くと眞輔のことばかり考えている。
茉以のストーカーを撃退したあの夜。
最後に見せた眞輔の笑顔を思い出すと、胸がぐずりと揺さぶられる。
彼の太い指が触れた右足首、手指、頬。
感触が甦ってこそばゆくなり、身体をもぞもぞと蠢かさずにはいられない。
バックパックとは別に持ってきた手提げの紙袋には薄手のパーカーが綺麗に折り畳まれて納められている。
あの晩に眞輔が貸してくれた原付用の防寒着。
ゴタゴタのせいで返しそびれて、なんだかんだと預かったままだった。
こんなものいつ返してもよかったんだけど、今日は校内で拳法部の練習があると聞いていたから、ついでに寄ってしまおうと持ち出した。
でもそれは口実で、眞輔の胴着姿を見てみたいという欲が心の中に潜んでいることに、自分でも薄々気付いていた。
◇
講義から解放されたのは午後の4時過ぎ。
それでも外の日差しは昼間と錯覚するほどの強さで、まだまだ日は長いと思わせる。
私はその足で校内の運動施設が集まる区画へ向けて歩き出す。
足元にまだら模様の木漏れ日を見て、その影がくっきりと濃い。
空を振り仰ぐと、道をアーチ状に覆うように枝を伸ばした木々の葉が揺れていて、生まれた隙間から眩い光が私の眼を射る。
自然と足早になってしまうのを意識して抑えながら、湧き上がるこの感情を、私はまだ素直に認めてはいなかった。
色恋なんて安易にするもんじゃないって、人並みに苦い思いも経験してきた教訓が警告を発するのだ。
たった数日差といえど、悠々とした年下の子にペースを乱されて気を揉んでいるだなんて。
私、ちょっと情けない。
天から降り注ぐ熱と地面の照り返しによる熱、二重の熱波に呑まれながら体温と同等の外気の中をさまよう。
私の内なる熱は逃げ場なく身体中をぐるぐると巡っていた。




