濡れるでも凍えるでもなく
◇
「心理学概論、やばくないですか?」
やばいわよ。やばいに決まってる。
適当に聞き流していた授業の中で配布されていたプリント資料は膨大な枚数にのぼり、クリアファイルひとつをパンパンに膨らませている。
総合科目はその特殊な履修形態上、過去問も出回らないので対策の打ちようもない。
試験日を目前に控えた私と眞輔はとりあえず近場のファミレスに集って勉強会を開いた。
ドリンクバーで無限にコーヒーを汲みつつ深夜まで籠城という、通称〝ファミ勉〟は、金欠学生がテストを乗りきる際の常套戦法だ。
重要そうと思えるキーワードに目ぼしを付けて、その周辺の単語も拾いつつプリントをマーカーで染めていく。
それだけでも気が遠くなるほどの作業で、もう、今日何時に帰れるんだろうって。
学習机よりだいぶ低い食卓テーブルに猫背気味に食らいつく私。
そのやる気を挫くように携帯の着信が鳴る。
茉以からだ。
何だってのよ、こんなときに。
眞輔に気を使って席を立ち、会計カウンター付近まで移動してから電話に出る。
「アンタ、まだ話してないわけ? ボディーガードの件!」
しまった。完全に抜け落ちていた。
「グズグズしてると、私暴漢に襲われて殺されるわよ!」
およそ暴漢に襲われて殺されそうな可憐さの欠片もない物言いに、悟られぬよう声を押し殺して苦笑する。
「とにかく、顔合わせ会の打診、お願いよ。ユミっちとサオリンにも声掛けといたから、そっちも拳法部の男の子、数人見繕っといてよね。ヨロシク!」
おい話が違うぞ。合コンでもやるつもり?
って私が慌てたときには、既に通話は途絶えていた。
あのさあ、目的、すり替えてるでしょう。
ここまで図々しいとストーカーの存在自体も口実欲しさの狂言じゃないかと思えてくる。
無言になった携帯を片手に、目についたドリンクバーでホットコーヒーを淹れる。
スティックシュガーとミルクのポーションを2つずつ掴んで窓際の席へと戻ると、眞輔はペンを握ったまま頬杖をついて外の景色を眺めていた。
今夜は霧雨。
風に吹かれた細かな雨粒が音も立てずに窓ガラスに当たってその表面を静かに濡らす。
幾重もの雫の線がガラスを伝い、ファミレスの内側から見える風景を微かに歪ませて写している。
眞輔は席に座った私に気付き、微笑みを向けて、
「こういう天気も、悪くはないなぁ」
ぎしっと軋むように椅子の背もたれに体重を預けながら再び顔を窓に向ける。
「空調の効いた部屋で、濡れるでも凍えるでもなく、ただじっと雨の様子を伺う。それが妙に落ち着く気がして」
つられて、私もぼんやりと夜の中を舞う小雨のちらつきを眺める。
居心地のいい沈黙。
「先輩、今日ずっと元気ないね」
ふいに眞輔は言った。
「もうへばっちゃったんですか? 年かな?」
「失礼ね。年の差、君と1週間も違わないわよ」
「それ言うんなら、もうタメ口でいいじゃん」
「たとえ1週間差でも、それで私は1年長く大学生やってんの。な、後輩くん」
眞輔は口をへの字に尖らせて私を睨む。そのままのふざけた表情で、
「気鬱な理由、巽でしょ? アイツ、先輩に失礼かましたんじゃない?」
私はとっさに言葉に詰まる。
それがもう、アタリって言ってるようなものだった。
「気にしなくていいよ。悪い奴じゃないんだけど、敵を作りやすいんだよな」
悪い奴じゃないって、初対面の子に面と向かって「期待外れ」ってのたまえる野郎が悪い奴じゃないはずがない。
「知りたがりなんだ。なんでも解ってないと気が済まない。きっと、自分にはいろんなものが足りてないと思ってて、その裏返しなのかな」
「足りてないって?」
「たとえば、親の愛、とか」
「へえ……」
医者である巽の親は、本人の望まぬ進路や将来を願って彼に浪人生活を強いたという。
「事実かは知りようもないけど、少なくともアイツ自身は愛されてなかったって、そう思ってるんだよ」
自分が親に愛されてないと確信するなんて不幸なことだと思う。
そんな考えに至る人の心中など私には推し測れるはずもない。
だけど眞輔の話を聞いて、あのときひどく大人びて見えた巽くんに少しだけ親しみが湧くように感じたのは確かだった。
同情とは違う。
彼も弱みを持った人間なんだっていう、親近感かな。




