殊更、壁を壊せという方たちに感じる恐怖
センシティブな話題は難しいですね。
DIY番組で壁をぶち壊す匠の話ではありません。
「この壁、壊しちゃおう」
「えっ、壊しちゃうんですか」
ではありません。
まあ、あれはあれで作者は怖いんですが、耐震基準とか大丈夫なん、ってなります。
すいませんね。作者は人間が軽くて薄いので重たい話題は少しおちゃらかさないと書けない病なんです。
では、本題。
ジェンダー論や人権、差別問題と、こういった事柄で活動されている方で、壁を壊せ、壁を無くそうと語られる方がいますよね。
別にそれに反対では無いんです。必要の無い壁をつくり、分断や対立を煽る行為は愚かしいことですから、その壁を壊してしまえというのは、納得出来ます。
ですが、世の中には壊してはいけない壁や、いずれは撤去すべきでも、徐々に段階を踏むべきものもあると思うんです。しかしながら、一部の過激な方はそうした壁もお構い無く「この壁、壊しちゃおう」って匠的発言でbefore afterしようとするんです。
彼らは「それは不味いよ」と言うと、途端にこちらを差別主義者にしてきます。
このような過激な活動家は共通の特徴があります。
1寛容さを謳う割には自分は不寛容
2自分こそが正義だと信じ込んでいる
3間違いを指摘すると、指摘した側をヘイトや古くさい考えだと糾弾する
4物事を客観視出来ないし、しない
5都合の悪いものは見ないし聞かない
こうした方々の動きって例えるなら、
あるアパートに平穏に暮らしている集団がいて、其処にある日、ハンマーをもった一団が現れて
「このアパートには壁が沢山あって分断されている」
といって壁を壊していきます。
住人がやめてくれと訴えると
「これはあなたたちのためにやってるの」
といい、また
「理解出来ないなんて野蛮だわ」
と説教を始めます。
ひとしきり壊すと去っていき、残された住人は不便と恐怖、そして隣人同士で頻発するトラブルに悩まされながら生活を余儀なくされます。
しばらくすると、またかの一団が訪れて
「このアパートには廊下を隔てる壁まであるわ」
と壊し始めます。住人が必死に止めるも、ついに構造物としての機能を失ったアパートは倒壊します。
「やったわね、これであなたたちは本当の自由を手にしたわ」
そう満足そうに各々の家に帰る一団と途方に暮れる住人たちが残ります。
これは、大袈裟に書いてはいますが、本来なら扉をつくり、窓を作るべきところで、壁そのものを壊せば危険に晒されることもあるんです。
人間は全てに共感は出来ません。
ジョン レノンは国も民族も人種も存在しないと思ってごらんと歌いましたが、それは確かに理想的ですが、世の中はそんなに単純ではないし、人間はそこまで広い視野も広い認識も持てないんです。
親しかった人でも数年と交流がなければ、例えば何か不幸があって、それを知ることがあっても、そこまで心動くことはないでしょう。薄情だからでしょうか、違います、残酷な言い方ですが、いちいち全ての人に共感し、心を動かしていたら、磨り減ってしまって生きていけないんです。だから、人間は鈍感になるし、ならなきゃいけない。
それなのに、殊更に共感を唱えて強要してくる方々に、私は他者を慮り、共感するだけの感受性などあるとは思えません。
感想お待ちしています。