-起- スローライフに憧れて転生する僕
宗方ツバサは真っ白な空間で目を覚ました。
自分が見覚えのない場所にいると気付き、一気に意識が覚醒する。
「ああ……やっとお目覚めになりましたね」
目の前には、金色の髪を腰まで伸ばした美しい女性がいた。
柔和な笑みを浮かべてツバサのことを見ているが、ツバサの方はまるで見覚えのない相手だ。
「な、なんですか、あなた」
混乱するツバサに、女性が頭を下げた。
「申し訳ありません。我々の手違いで、あなたはその生涯を終えることになりました」
「え?」
「あなたはトラックに轢かれて亡くなったのです。しかし、それは本来の運命とは異なる結末。これは完全に我々神のミスです」
神を名乗る女性の言葉で、直前の記憶が蘇る。
夜中にコンビニに行く途中に、クラクションが鳴り響いたと思ったら、次の瞬間には視界が暗転していた。
あれは、トラックに轢かれたのか。
自分は死んだ。即死だったのだろう。
頭では理解しても、実感が湧かず呆然とするツバサに、女神が言う。
「お詫びといってはなんですが、可能な限り、あなたの要望にはお応えします。すでに死が観測された元の世界に戻すことは叶いませんが、それ以外でしたら何でも。例えば、別の世界であれば、蘇らせることも可能です」
「て、転生ってことか?」
「そうですね。といっても、赤ん坊からのやり直しではありません。あくまで今のあなたのまま、肉体を再構築して異世界に送り込むという形になります」
願ってもない話だった。
元々、現世に未練はない。別れを惜しむような家族もいなければ、恋人だっていなかったのだ。
「当然、特典として望む力を一つだけ差し上げましょう。龍をも切り裂く聖剣。あらゆる魔法を使いこなす魔導書。如何なる災厄からも身を護る鎧。どのような力がお好みですか?」
「特典……」
束の間、ツバサは考えた。
剣や魔法の力で無双する、勇者のような自分を妄想し、すぐに思考を打ち切った。
「そんなのは、いいよ。チート能力なんて要らない」
「まあ、なんて無欲な方でしょうか」
「身の丈に合わない力なんて、余計な争いを生むだけだろ? 飴ばっかもらったって、虫歯になるだけだ」
元々、争い事の苦手な性格だ。
就職してからは、上司や営業に言いたいことが言えず、最終的には大量の仕事を押しつけられて、最後は体調を崩して退職する羽目になった。
下手に特別な力なんて与えられたら、それこそ二の舞だろう。
それに、何の考えもなしに女神様の申し出を断ったわけではない。他の者なら転生特典に浮かれて素直に受け取ってしまうのだろうが、自分は違う。
これは交渉だ。将来設計の観点から、強力な特典を一つ貰うよりも、もっと自分に合った力を選んだ方がいいと考えたのだ。
ふと思い至った風を装って、ツバサは言う。
「ああでも、そうだな。異世界ってことは、危険があるんだろ?」
「そうですね。あなたの暮らしていた国に比べれば」
「だったら自衛の手段くらいは欲しいな。人を傷付けたりしたいわけじゃないけど、そういうのをくれる?」
「分かりました。では、私の方で選びますね」
「うん。よろしく。ああ、ついでに生きる上で役に立つような力もあれば欲しいかな。そんなに凄いのじゃなくていいから。DIY、的な?」
「二つ目、ということになってしまいますが……」
「チート能力は要らないからさ、そこは融通してくれよ。聖剣だのなんだとに比べれば可愛いもんだし、そっちにとっても悪い話じゃないだろ?」
「……ええ、はい。そうですね。分かりました」
よし、と内心でガッツポーズを取る。
交渉が上手くいったことを喜びながら、ツバサは念のため確認した。
「一応確認するけど、別に転生したからって、何かしなきゃいけないってことはないんだよな? 魔王を倒すとか、そういうの」
「ええ。これはお詫びですから。好きなように生きてくださって結構です」
「そっか、良かった。なら夢が叶うな」
「夢……ですか」
小首を傾げる女神に、ツバサは笑顔で答えた。
「スローライフってヤツだよ。田舎で静かに暮らしたい。それが僕の望みさ」
――転生者の立去った、白い空間。
ニコニコと聖母の笑みを浮かべていた女神は、その表情のまま、無言でぬいぐるみを取り出した。
愛らしい顔立ちの、ウサギのぬいぐるみだ。たっぷりと中に布が詰まっており、ふわふわととても柔らかい。
それは彼女のストレス軽減に一役買ってくれる、癒しアイテムだ。
誰もいないことを確認してから、彼女はぬいぐるみを壁に押し付ける。
その顔から表情が消えた。
「……敬語を、使え」
ぼそりと呟き、ぬいぐるみを殴りつける。
ドスンと鈍い音が響く。
「私の、ミスじゃねぇ」
どうして余所の部署の尻拭いをしなければならないのか。
そんな思いを込めて、拳を叩き込む。
「要らねぇなら、注文つけんな」
渾身のストレートをぶち込んでから、ふー、と大きく息を吐く。
ストレスと無縁の仕事はない。特に役所を訪れる者は、どういうわけか、自分の方が立場が上であると無遠慮な言葉を投げてくる輩が多い。
公務員を敬え。仕事だから愛想良く答えるが、内心までそうだと思うなよと言いたい。
腹部の綿が圧縮されるくらいまでストレス解消に役立ってもらい、女神は感謝の気持ちと共にぬいぐるみをしまった。
次のお客が来たからだ。
「ああ……やっとお目覚めになりましたね」
くるくる、くるくる、社会の歯車を回し続ける。
全て仕事だ。どこで生きていようと、何もせずに楽して生きられるほど世界は優しくない。
今日はいくつぬいぐるみを潰すことになるだろうかと思いながら、女神は事務的に会話を続けた。