崩壊
「返してもらう、とおどれは言うがのう、一体何の権利があってそんなことを言うのかのう?」
悪魔は嘲るでもなく、実直に問う。
「逆に君は何の権利があってネリスの魂を喰らおうというんだ」
少年が問う。
「何の権利じゃと?」
悪魔は大袈裟にため息を吐くと、地面に描かれた魔法陣を指差した。
「妾はこの小娘に呼び出されてここにおるのじゃぞ? そもそもこやつが望まねば妾はここにおらんのじゃ。これは妾とこやつの対等な契約じゃて。おどれはこやつにとっての何なのかのう」
状況は膠着していた。
少年からすれば、少女に受肉した悪魔の実力は完全に未知数である。
悪魔は渾身の不意討ちにすら反応してみせており、事がそう易々と運ばないことは明白であった。
特に、少女と悪魔の具体的な契約内容が不明である点が少年にとっての大きな足枷となっていた。
悪魔が少年の相手をせずに契約を完了させ、魂を喰い逃げしてしまう可能性が捨てきれないのだ。
内容はある程度想像がつくとは言え、一つ間違えば少女の命が失われる重大な局面である。少年は慎重にならざるを得ない。
対する悪魔からしても、久方ぶりの受肉を果たしたかと思えば唐突に目の前へ現れた少年の実力は完全に未知数であった。
そもそも彼女を召喚する魔法陣を描ける者など歴史を見てもほんの一握りしかいないのだ。
それをこの幼い少女が成し遂げたということに驚いていた矢先にこの少年である。
如何に歴戦の猛者であるところの大悪魔とは言え、目の前の少年が警戒すべきなどという言葉では言い表せないほどに危険な存在であることは、先の一撃を見ても身に染みて明らかであった。
驚くべきことに、先の一撃は危うく彼女の命を奪い去るほどの一撃であったのだ。
仮に大悪魔の受肉した肉体が並のものであったならば、その命はとうになかっただろう。
しかし、少年にとっては預かり知らないことだが、受肉直後の悪魔は未だ完全に少女の肉体を制御できていなかった。
そのような状態であっても自分一人では反応すらできなかったであろう一撃に問題なく対処できたこの少女の肉体の実力は、目前の少年以上に未知数であった。
互いが互いの情報を一切知り得ず、積極的に仕掛けるリスクも冒せない完全に五分な状況。
そのはずであった。
「ネリスは僕の妹だ。例え本人が納得しようとも、僕は悪魔との契約なんて許さない」
悪魔はニタリと笑う。
「ほう、お主はこやつの兄なのか」
契約内容が内容だけに、悪魔は初めから少年を無視して勝ち逃げすることを諦めていた。
故に、方針は定まった。
「こやつの兄ならば少しはこやつの気持ちも考えてやってはどうかのう? こやつは心から弱者救済を掲げておったようじゃぞ? その辺、お主はどう考えておるのじゃ?」
時間稼ぎである。
悪魔には確信があった。
この肉体であれば、完全に制御することが出来れば目の前の少年にすら勝てる。
いや、勝つまでもなく契約を完了することが出来る。不意討ちには現状でも対処可能なことは先ほど実証済みだ。
わざわざこちらから仕掛けてやる意味もない。
大悪魔には強者たるプライドなどなかった。
この世には絶対的な強者が存在することを悪魔は知っていた。
創造神や自身の敬愛する死神然り、悪魔をしてどう逆立ちして転んでも敵わない相手というものが稀に一定数存在するのだ。
目前の少年は未だその領域に至っていないものの、十年、いや五年も経たずしてそうなるであろうことは日の目を見るより明らかだった。
立ち姿や構え、呼吸やわずかな視線のブレからさえも、絶対的な強者と何か共通したものが垣間見えたのだ。
変異個体の王か、それに類する者だろう、そう悪魔は冷静に分析する。
しかし若い。
実戦経験も少なそうだ。そこに付け込んで――
「うん、君の狙いは大体分かったよ」
少年はそう言うと、またも唐突に悪魔へと仕掛けた。
悪魔は先ほどまで感知するだけで精一杯であったその一撃を、今度はしっかりとその目で観察する。少しずつではあるが、身体への適応が進んでいるのだ。
事前の魔力操作によって部分的な真空状態を作り出し、そこへ吸い込まれるようにして打撃を放つことで攻撃の更なる加速と音速の突破、更には標的にの引き付けまでを同時に可能とする神業のような一撃。
悪魔は十分に見切ったその拳を先ほど同様掌で受けようとし――、違和感を感じて飛びのいた。
続いて押し寄せる破裂音と爆発的な衝撃波。
「お主……。妹の肉体に対してなんということをするのじゃ」
高速で押し寄せた何か礫のようなものによって数多の裂傷を負った悪魔が言う。
実際、直接的に受けなかった悪魔の判断は正しかった。
先ほどと表面上のメカニズムは全く同じ一撃。
しかし、少年は拳が掌へと衝突する数瞬前にあえてその拳を空気の壁へと激突させ、更に手の中に隠し持った石を炸裂させることで肉体への致命傷を狙ったのだ。
「いやいや、ネリスの身体はそんなにヤワじゃないよ。それに、物理的な損傷は後からどうとでもなるからね」
悪魔の誤算はただ一つであった。
少年は端から無傷で少女を救うことを諦めていた。
第一目標を悪魔の拘束に切り替え、ある程度少女の肉体へのダメージは覚悟の上で攻撃を仕掛けたのだ。
「君、まだネリスの肉体を持て余してるんでしょ? じゃなきゃとっとと僕を排除するなり逃げて契約を完遂するなりしているはずだ」
少年の迷いは消えていた。
どうやら、少なくとも今すぐに契約完遂とはならないであろうことが分かったからだ。
「それはどうかのう。妾はお主と違ってそこまで好戦的ではないのじゃよ」
内心冷や汗をかきながら、悪魔は更なる策を練る。
つい先ほどの分析は完全に誤りであった。
こちらの狙いは完全にバレており、これ以上の時間稼ぎは望めない。
少年は確かに若かったが、変異個体特有の勘の鋭さと駆け引きのセンスがずば抜けている。
そうこうしている間にも少年は次なる一撃に備えて構えを取っていた。
悪魔は全力での戦闘を余儀なくされる。
「そこまでやり合いたいと言うのなら仕方ないのう、少しだけ遊んでやるのじゃ」
飽くまで最終目標を見失わないように、それでいて敗北は許されない、そんな命懸けの綱渡りを悪魔は決意する。
悪魔は少女の肉体に宿る驚くべき能力の数々を既に粗方把握していた。その為の時間稼ぎでもあった。
お互い、準備は済んでいた。
「じゃ、行くよ」
少年はそう言って腰に付けた鞘から剣を引き抜くと、再び一気に迫ってきた。
悪魔は更なる違和感を感じ取る。
音がしないのだ。
剣を抜く際も、足を踏み込む際も、こうして迫ってきている今でさえ、少年からは一切の音がしないのだ。
「なんなのじゃお主は」
悪魔はそう言いながら、創造神の右腕で創造した金属製の剣を構え、そして少年の剣を受けた。
受けた瞬間、その剣がボロボロと粉のようになって崩壊する。
「なん、じゃと……?」
驚愕する悪魔に対し、少年はなおも攻めの姿勢を崩さない。
一瞬動揺した悪魔であったがすぐに持ち直し、先ほどの剣を放棄して再び同様の剣を創造する。
一振り、二振り、三振り。
少年がその剣を振るう度に悪魔の剣は崩れ、再び創造し、さらに崩れ。
「なんなのじゃお主は! なんなのじゃその剣は!」
言いながらも、創造の手を休めず絶え間なく浴びせられる斬撃をすんでのところで受け流す。
相変わらず少年からは一切の音がしなかった。
むしろ少年の周囲だけが無音であるのでかえって目立ってはいるのだが、聴感上は予備動作なしで攻撃が飛んでくるために著しい混乱が生じるのだ。
少年は魔力操作の一環として局所的に気圧を操作することが出来た。
音とは気圧の微弱な交流成分だ。
故に、音源となる箇所の気圧を逐次制御することで完全なる無音を作り出すことが可能なのである。
無論、凡人には適わぬ神業だ。
「知り合いの開発した隠密歩法のちょっとした応用だよ」
少年は更に剣を振るう。
どのように受けても崩壊する自身の剣を尻目に、悪魔は思考を加速する。
あの剣に何か特殊な能力があるのは間違いない。
少なくとも、あの剣で身体に傷を受けることが即ち死を意味することは間違いなさそうである。
――まずは剣の能力を見極めるところからじゃな。
悪魔は再び創造神の右腕を構えると、今度は金属製の剣ではなく木でできた木刀を創造した。
その木刀は直後、スパッと気持ち良い程に一刀両断される。
しかし、先ほどまでとは異なりただ斬られただけといった様子であった。
「おやおや、有機物は崩壊させられないということかのう」
見やると、先ほどから幾度となくボロボロに崩壊させられてきた剣の残骸はひとまとまりになって、何かパリパリと冬場のセーターのような音を立てていた。
「そうかもしれないけど、木刀で僕をどうにか出来るつもり?」
「いやいや、この事実は大変貴重じゃよ」
悪魔は言って飛び退くと、改めて少年を観察する。
齢十にも満たないであろうその体躯からは生命力が満ち溢れ、溢れ出さんばかりの魔力がその身体を常に覆っている。
自身の身長ほどもありそうなその剣は翠色の禍々しい輝きを放っており、いかにも危険物であるという風体をなしていた。
「お主が行ったのは自由電子の操作じゃな? 金属内の電子を――、そうじゃな、恐らくはどこかへ取り去るなどして金属の結合そのものを崩壊させた。逆に、有機物の結合は複雑故に、お主のその剣で崩壊させることは出来ん。どうじゃ?」
少年は無言を貫いた。
悪魔からすれば、それは肯定も同然であった。
事実、崩壊した後の金属は電気的に不安定な状態に見え、異常な能力が電気的な効果として作用したことは明白だった。
「であるならば、妾のすべきことはこれじゃな」
悪魔はそう言って再び創造神の右腕を構えると、木製の槌を創造する。
「一転攻勢といこうかのう」
悪魔の踏み込む音が村中に木霊した。




