三本目 相談
◇翔
その後、楓は、俺と一緒に従業員控え室に向かった。
2人で、従業員の名前を書いた木札が並んだ壁を見上げる。研さんと密さんの名前は、いつの間にか札から消えていた。けれど、何も書かれていない木札は、本当に2人が止まり木旅館を去ったことをはっきりと示している。楓は、しばらく見上げたまま、そこに縫い止められたかのように、動けなくなっていた。
「あの研修生、どうする?」
「今夜は、巴ちゃんと粋くんが用意してくれている部屋で休んでもらうこととして……」
「神にでも相談してみるか?」
「そうね。一度、ちゃんと使えるか確認しておきたいし」
台帳に続いて、新たな秘密道具が増えたのだ。
楓は、文机の引き出しから一本の巻物を取り出した。そして、机にあった硯に墨をすって、導きの神からもらった筆をそれに浸す。
「書いてみるわね」
楓は、姿勢を正すと、広げた巻物に、さらさらと導きの神へ宛てた手紙を書き始めた。不器用なくせに、案外字がうまい。
大昔、俺と机を並べて千景さんから字を習っていた頃を思い出した。初めは、俺の方が覚えも早ければ、字もうまかった。でも、楓は負けず嫌い。すぐに追い抜かれてしまったのを記憶している。
「できた!」
楓が静かに筆を置くと、半紙の上の文字が見る間に薄れて、消えてなくなってしまった。
「見た目はただの巻物なのに、不思議だな」
「そうね。でも、口にくわえて印を結べば、煙が立ち上って何かが起こりそう。やらないけど」
しばらくすると、同じ巻物の上に、何やら文字が浮かび上がった。さすが、神。達筆だ。ただ、内容はあまりにも残念なものだった。
『私の愛娘、楓! 元気かな? 早速お父さんにお手紙くれるなんて、本当に嬉しいよ!
筆の使い心地はどうかな? 楓のために、可愛い梅の柄が入ったものにしたんだよ。気に入ってくれたかな?
あ、お誕生日には何がほしい? ん? お父さんに会えるなら、ほかに何もいらない?! 分かってるよ、楓の気持ちは! 大丈夫、ちゃんとプレゼントを持って会いに行くからね!』
おい、返事はどうした。肝心なことは、何にも書いてねーじゃん。てか、さっきまで会ってただろ。元気?って尋ねる意味が分からない。それと、なぜ梅にした? 俺なら楓の柄にする。
楓を見ると、頬をピクピクとひきつらせていた。正しい反応だな。
「私の誕生日って、いつなんだろう」
「そう言えば、知らないなぁ」
止まり木旅館は、一応四季があるものの、あまりにも閉鎖的であるためか、時の流れが感じられにくい。そのためか、いちいち誕生日を祝うといったことは、してこなかった。
……うん。こっそり千景さんに日付を確認して、今年は俺が祝ってやろう。
楓が一度巻物を巻いて、再び開くと、導きの神からのふざけた手紙の文字は、消えてなくなっていた。楓は、今度は墨をたっぷり目につけて、何やら苦情らしきものを書き殴り始めた。その筆跡からは、彼女の怒りが存分に感じられる。いいぞ、いいぞ! ついでに、『娘の恋路を邪魔するお父さんなんて大嫌い!』とか書いてしまえ!
導きの神からの返事は、それから30分後のことだった。
手紙の大半は、『娘というものはもっと父親に優しくするべきだ!』とか、『悪い男に気をつけろ!』といった説教が、長々と書かれてあった。
悪い男ね……。ふーん、そんなこと言っちゃっていいんだ? 止まり木旅館滞在中、俺にいろんなものを仕入れさせたよね? 楓と千景さんにチクってもいいってことかな?
「翔、どうしたの? 何か悪いこと企んでる顔してる」
おっと、顔に出ていたか。
「で、研修生の受け入れはした方がいいって?」
「うん。ちょうど2人も一度に減ってしまった後だし、こういうのは受け入れた方が、他の宿からのやっかみも少ないんじゃないかって」
「そうかもな。千景さんにも相談しとく?」
「そうする」
結果から言うと、千景さんも導きの神と同じ意見だった。書庫の資料も全て公開して良いとのこと。太っ腹! 千景さんからすると、止まり木旅館だけでなく、時の狭間チェーンのお宿、全体の利益が大切なんだろうな。やっぱり良い人。
それにしても、あの椿とかいう男、ちょっと芝居がうまい気がするから、少し楓のことが心配だ。でも、仕入れ係を辞めたことで、いつも近くにいてやれる。たぶん、なんとかなるだろう。
翌朝、楓は、研修生として正式に受け入れることを椿に伝えた。止まり木旅館専属の従業員になるわけではないので、木札は準備しない。そして、椿は大浴場の担当におさまった。俺は、そのサポートに入る。
その夜には、恒例の誓いの儀式も実施した。研修生だから、そう長くは滞在しないだろうけれど、やはり念には念を入れておきたい。案の定、「翔さんに近づいて、ここへ永久就職する予定だったのに……!」と嘘泣きする始末。悪いけど、俺、そういう趣味はないから。ってか、人をみくびりすぎ。馬鹿にするな。




