三十一本目 マイスイートハニー
◇楓
『民宿木っ端微塵』のご主人、千歳さんとはしばらくぶり。今日は先日のような魚屋さんスタイルではなく、羽織袴だ。ちょっと気合入りすぎではないだろうか。
「で、本物の姉さんはいつ来るのかな? 会えると思ったらもう興奮しちゃって、うっかり家を飛び出してきてしまったよ!」
うっかりねぇ……。嘘おっしゃい。確信犯でしょ?
「千歳さん。時の狭間のルール、ご存知ないのですか? 母はもうここの住人ではありません。もう二度と、時の狭間の中で会うことはできませんよ」
「何だってーーー?!!! さすがに懇親会ぐらいは顔を出してくれると思ってたんだよ!! だってほら、招待状には『万障お繰り合わせの上お越しくださいますよう……』って書いてあったし!」
そんな決まり文句、まともに捉える大人がいるとは。この人もけっこう馬鹿かもしれない。でもせっかく、『自ら』、『早く』お越しくださったのだ。ここは、千歳さんの意を汲んで?しっかり働いてもらおう。ね? ちょうどいいでしょ?
「千歳さん、民宿では台所に立ってますよね? 今回の懇親会は急なことなので、人手が足りていないのです。よろしければ手伝ってくださいませんか?」
「そうだなぁ……楓ちゃんの姿を写真に撮らせて……いや、動画に撮らせてくれるならば、やってもいいよ!」
この人、時の狭間から出さない方がいいだろうな。絶対にストーカー気質あるもの。あぁ、危険だ、危険。
「厨房内だけでしたらいいですよ。外に出たら、他のお宿からお越しの方とも会いますので、バシャバシャ撮ったら失礼にもなりますし、やめてくださいね」
小躍りしそうな千歳さん。本当は、母さんにかこつけて、実は私のファンなのではないだろうか? いや、それはさすがに思い上がりか。
「じゃぁ、誰かに作務衣借りて着替えてくるよ! ちょっと待っててね、マイスイートハニー!」
あっという間に暖簾をくぐって厨房から出て行った千歳さん。巴ちゃんに旅館内の案内を頼んでいる声が聞こえてきた。私は、『マイスイートハニー』と言われた影響で頰が引きつったまま。
「……チャラいですね」
ずっと気配を消していた彼(もともと影が薄いのだけれど)、グリーンマンが呟いた。問題児のあなたに言われたら、世話ないわね。でも、同意しちゃう。
その後は、潤くんが旅館中をお掃除してくれたので、備品の補充をしながらその状態をチェックして、粋くんが整えたお部屋も確認。忍くんとのお庭デートも済ませて、巴ちゃんとは当日のお出迎えの段取りについて細かなところまで擦り合わせた。さらに、仕入れから戻ってきた礼くんから仕入れた物の説明を聞いて、グリーンマンと千歳さんのサポートの下、お料理の仕込みも終わらせることができた。もちろんグリーンマンは途中で寝てしまい、脱落してしまったけれど。研さんも、浴場の準備はばっちりだと言っていたし、ざっと準備はこんなものではないだろうか。
気づけばすっかり真夜中。あぁ、忙しかった。たまたまお客様がお越しではない日で本当に良かった。私は、ざっとシャワーだけ浴びて浴衣に着替えると、布団に潜り込んだ。
明日は何時に他の宿の方達がやってくるのか分からない。朝からお越しになることを想定して、いつもより少し早起きしようと思い、私は枕元の目ざまし時計を4時半にセットした。
……眠れない。
私は、暗い天井を見上げた。天井の木目の数を数えても、目がチカチカするだけ。
止まり木旅館なら、従業員の皆なら大丈夫!と大見得斬ったのは昼間のこと。今だって、その気持ちは揺るがない。けれど、どうしても不安になるのだ。緊張するのだ。なんだかずんっと肩が重く感じる。これが女将の責任の重圧というものだろうか。
若女将時代にも、大きな事件はいくつもあった。飯が不味いと苦情が出たこともあった。(そもそもそのお客様は爬虫類に属するお方だったので、お好みが分からなかったのであっさりめの味付けにしたところ、お怒りを買ったのだ。)旅館の中で勝手に運動会が開催されたこともあったし、巴ちゃんに抱きついたまま四六時中離れないお客様なんてのもいた。長期滞在のお客様を従業員と迎え入れることだってそうだ。
だけど、女将となった今は、もっと旅館のことをちゃんと考えなきゃと思えば思うほど空回りしてしまう。私、こんなので大丈夫なのかなぁ。
「こんな時、翔がいたらなぁ」
私は、最後の手段に出ることにした。
タブレット型端末を起動。画面からの灯りで、部屋の中がぽおっと青白く照らされる。私は、メーラーを立ち上げた。翔からもらったメールを読み返そうと思ったのだ。今は、グジャルダンケルに行っているので、新着メールはない。それは分かっているのに、何度も送受信ボタンをタップしてしまった。
彼のメールは、かなり手短だ。例えば、こんな感じ。
* * *
楓へ
元気?
ここの人達も変だよ。
地元で良いものを取りにいってくる。
たぶん、楓に似合うよ。
楽しみにしてて。
* * *
結局何が言いたいのかよく分からない。でも、1つ1つの言葉に、翔の息吹を感じる。それに、メールが届くということ自体が大切なのだ。たとえ、もっと分かりにくい暗号で構成されていたとしても、私は嬉しくなると思う。
「寝よう……」
やっと気分が落ち着いてきたので、私は再び鼻先まで深く布団に潜り込んだ。寝返りをうって、障子の方を見る。すると……障子の向こうに人影が映っていた。私に、誰か用だろうか?
「どなた?」
明日のおもてなしに関する急な用件なのかもしれない。私は起き上がって、浴衣の胸元と髪を簡単に整えながら、障子の持ち手に手をかけた。




