第4話 今なら言えるような気がした
「おはようございます! 橘キャプテン」
「おはよ〜。お? 柏木、何か最近元気良いな」
朝練を前に、ユニフォーム姿のキャプテンが部室から出て来たので挨拶をすると、思わぬ言葉を掛けられた。
「そうですか? いつもと変わらないと思いますが……」
キャプテンにはそう言ったけれど、最近私の世界がほんの少しずつ変わっているのは本当なのかもしれない。
あれから、須藤先輩と話す機会がぐっと増えた。
さらに、先輩は上手く私に話を振ってくれたりして、他の部員達との会話に自然と交じわれるようになった。先輩に背中を押してもらったような気がして、そのうち私一人でも皆に積極的に話し掛けるようになると、皆からも声を掛けられる回数が格段に増えた。
私にとっては大きな進歩だ。
「あ、綾香先輩、京先輩! おはようございます」
「おはよう。柏木さんドリンクの準備……」
「はい。出来ています。ベンチに運んでおきますね」
須藤先輩の言葉のおかげで自分の仕事に自信が持てるようになると、不思議と余裕も生まれて、今までいっぱいいっぱいになっていた事が、段々と効率良く出来るようになり、空いた時間に練習メニューの管理にも少しずつ関われるようになった。
「よいしょっと!」
また、口にしてしまった……。
でも何だかこんな言葉さえ今の私には弾んでるように聞こえて仕方なかった。
グラウンドには、すでに須藤先輩がいた。
「おはようございます。須藤先輩」
「おはよ! 今日もありがとな!」
感謝の言葉に少し照れてしまう。
けれどそんな先輩はストレッチを始めるのかと思えば、ベンチに座ったまま救急箱からごそごそとテーピングを取り出すと私に差し出してきた。
「柏木、テーピングお願い」
「どうしたんですか? もしかしてどこか……」
痛めたんじゃないかと思って心配していると、後ろの方から綾香先輩も駆け寄ってきた。
「悠司、大丈夫? テーピングなら私がやろうか? 柏木さんは他の準備を……」
テーピングに伸ばしかけた綾香先輩の手を、けれど私は咄嗟に呼び止めてしまった。
「あ、あの……この前ほんの少し勉強してみたので、今日は私にやらせてもらえませんか?」
言い終わって、すぐにハッとする。
これってもしかしてすごく出しゃばってしまったんじゃないかと、ぐるぐる思い悩んでいると須藤先輩が私に向かってテーピングを軽く放り投げた。あたふたしながらも、無事にキャッチする。
「何かうんうん唸りながら勉強してたの知ってる。痛めたってほどじゃないけど念のためって事で、せっかくだから練習台になってやろうと思ってな。だから今日は悪いな、白石」
「あ……ううん。じゃあ……あとの準備は私がやっておくから、柏木さんテーピングの練習頑張ってね」
「はい!」
任せてもらった嬉しさに満面の笑顔で返事をした。
須藤先輩から気になる箇所を聞き、ブツブツと勉強した事を反芻しながらうつむき加減で巻いていると、ふとつむじに息が吹きかけられた。
「なっ、何ですか!?」
「ん〜、ちょっと暇だったから」
予期せぬ先輩の行動にびっくりして顔を上げると、悪びれた様子もなく笑っていた。
「うっ……。手際が悪くて、ごめんなさい」
「そうじゃない。少し力入り過ぎてるから和ましてやろうと思って、練習だから、ゆっくりでいいぞ」
そう言ってくれるのは嬉しいけれど、正直こういう事されるとドギマギしてしまって困るのだ。けれど、先輩はそんな私の気持ちも知らず、またもやドキッっとさせることを言うんだ。
「柏木って、眼鏡してるからあんま分かんなかったけど、こうやって近くで見ると、案外目が大きいんだな」
何を思ったのか、今度は突然先輩が私の眼鏡クイッとずらした。急にぼやけた視界に驚き、あわてて両手で顔を覆った。
「やっ……、いきなり何するんですか」
「ははっ、悪い。何か眼鏡してない顔見てみたくて……て、そんな全力で隠さなくても。見せるの嫌?」
「嫌とかじゃないですけど……その、鼻の横の眼鏡の跡とか恥ずかしくて……」
先輩のイタズラに眼鏡をかけ直すと抗議を込めてめずらしく少し強気に、キッと顔を上げたけれど、私の前髪が先輩の鼻先を掠めるくらい間近にあって思わず心臓が止った。
お互い一瞬見つめ合ったけれど、ハッとしてすぐに離れた。
「……悪い。思わず覗き込んでた……」
「いえ……」
先輩にとっても予想外の近さだったのか、素直に謝った。
それから次の言葉を探したけれど、さっきまであんなに話せていたのに今は言葉が全然出てこない。
そのまま無言でテーピングを巻きはじめたけど、そんな静けさとは反対に、心臓はけたたましく鳴り響いていて、先輩にまで聞こえちゃうんじゃないかって気が気じゃなかった。
「こうやって……と。出来ましたけど、どうですか……?」
「お……! 何か結構、良い感じだな」
「本当ですか!」
上手く出来たみたいでほっと胸をなでおろす。
そして、そのまま練習に向かおうとした先輩を、私はありったけの勇気を振りしぼって呼び止めた。
「あの、須藤先輩!」
「ん?」
今なら言えるような気がした。
「れ、練習、頑張ってください!」
「おう! サンキュー、柏木」
自分より頑張っている人に、今までどこかためらいがちに口にしていた言葉。
でも、本当はずっと、ちゃんと胸を張って言いたかったの。
ほんの少し自分が頑張れるようになって、やっと言えた。
それは気弱な私の精一杯のエールだった。