靴の猫
イタリアのフィレンツェ郊外。立ち並ぶ家々を通り越し、石の敷き詰められた長い坂道を上がるとぽつんと見える小さな工房。アトリエも兼ねたそこは茶色いレンガ造りの建物で、所々色が変色していたり、割れていたりと、随分と古い印象を与える。
しかし、古いには古いなりの味があり、使い込んだ建物ならではの風格がある。
入口に置かれた看板には《ジャンカルロの靴工房felicita》と書かれていた。
このフェリチータのオーナー兼靴職人であるジャンカルロは、今日の予約客を待ちながら掃除をしていた。大理石の床をほうきではきながら、窓から見える空が今日も青くて、良い天気だなと能天気な事を思った。
予約制という立派なものではないのだが、昔からの常連しか来ないので、実質来る客は限られている。今日も十何年も昔からの常連が来る予定であり、そろそろ約束の昼を過ぎたので掃除道具を片付け、鏡で身だしなみを整える。
老いて色が抜けた真っ白なふわふわとした髪の毛。垂れ下がった目。しわの多い顔。自分も随分と老けたものだとしみじみ思いながら髪を撫で付けて整えていると、カランコロンと軽やかな扉の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
扉の方へ歩み寄ると、常連客であるカブリーニ夫人と、彼女に手を引かれてややふてくされた表情で隣に立つ少女がいた。二人そろって柔らかい栗毛に薄茶の瞳は一目見て親子だとわかる。
「お久しぶりです。今日もとてもお綺麗ですね、奥様」
「ありがとう。電話で話した通り、今日はこの子の靴を新調してほしいの」
カブリーニ夫人は娘の背を押してこちらへ近寄らせる。娘は顔をしかめたまま、こちらを見ようともしない。何かあったのだろうかと思いながら、ジャンカルロはカブリーニ夫人へ視線を戻して問いかける。
「デザインや色も電話で話した通りで良かったですか?」
「大丈夫。後から娘には迎えをよこすわ。私はもう行かなきゃいけないから」
そう言って、結局娘に声をかける事なく店を出て行ったカブリーニ夫人の背を見送り、俯いたまま動かない少女に声をかける。
「カラお嬢様ですね。奥様から聞いておりますよ。今日は靴を新調しに来たのですよね」
しかし、彼女の返答はない。仕方なく足の採寸のために椅子まで誘導し、座ってもらう。木製の台にスケッチ用の紙を敷き、そこに足を乗せてもらう。
カラの前で跪き、小さな足から靴を丁寧に脱がせた。そのまま足長、足囲、甲周りを左右それぞれ計っていると、灰色の猫がみゃあ、と鳴いて椅子に座るカラの膝の上に飛び乗る。
「こら。いきなり入ってきては駄目だと前に言ったでしょう、エスターテ」
顔を上げて注意するが、猫は素知らぬ顔でカラに頭を撫でろと顔を寄せていた。
「夏?」
猫が好きなのか、エスターテの頭や喉を撫でながらカラが口にする。
「私の娘が夏生まれなのですよ。娘が結婚して出て行った時にその猫を拾ったのでエスターテと名付けました。……情けない話ですよ」
「……でも、そんなに想われているなら幸せでしょうね」
ぽつりと零した言葉は、果たしてジャンカルロの娘に対してか。それともカラ自身の話か。何と返せばいいか迷っていると、カラが更に言葉を続ける。
「私、もうすぐ結婚するの。靴はその結婚祝い」
「結婚ですか。おめでとうございます」
まだ十四歳くらいの年齢だとわかる幼い顔立ちの少女は、ジャンカルロの祝いの言葉に顔を曇らせた。
「お母さんはね、私の結婚が嬉しいのよ。金持ちの元へ嫁がせることができて喜んでいるの。カブリーニの家なんて目じゃないくらいのお金持ち。モナコの沿岸に住んでいるのよ。……私は、お金の為に親に結婚を決められたのが嫌なの」
数度会った婚約者は優しい性格で、向こうの家の人は良い人達だと言う。でも、金持ちのところへ半ば強引に決めたこの結婚に、カラは不満なのだろう。母親にまるで金で売られたようで。
「奥様はあなたの幸せを想っているはずですよ」
「いいえ。そんなの嘘よ」
カラはエスターテをぎゅっと抱きしめ、また俯いてしまった。
そんなカラを見つめながら採寸を終えて、道具をしまっていると扉の鈴が鳴る。カブリーニからの迎えが来たようだ。
「ではまた十日後にいらしてくださいね」
そう笑顔で言うと、彼女も少し微笑んでくれた。不満を言って少しだけ気分が晴れたのだろうか。靴を履いて出て行ったカラを見送り、もやもやとした感情をジャンカルロは心に溜めていた。
カブリーニ夫人がまだ十代の頃から知っているが、金目当てに娘の結婚を決めるような性格ではない。それがもっと上手にカラに伝わればいいのに。
せめて母が結婚祝いとして選んだ靴への心が娘に届くよう、ジャンカルロは靴作りに励む事にした。
工房の奥にある使い慣れた作業部屋に入り、窓から差し込む日の光を頼りに靴の木型を作る。木を断裁し、ひたすら計った大きさになるように丁寧に削っていく作業。削って、削って、ひたすら削って整えて。そうして何時間も作業に没頭しているといつのまにか辺りは暗くなり、蝋燭に火を灯した。汗が額を伝い、指の節々が軋む。
不満を持ったまま靴を受け取ってほしくない。カブリーニ夫人の想いがきちんと伝わる最高の靴を作り上げよう。彼女が幸せに嫁げるように。
ジャンカルロは汗も拭わず再び没頭する。
床で寝そべるエスターテが、みゃあとまるで応援しているかのように鳴いた。
***
十日後の日。また昼を少し過ぎてからカラがやってきた。今日はカブリーニ夫人は付き添っていないようで、年頃の娘らしく頬を膨らませて拗ねている。
「今日は一人ですか?」
「結婚式の準備よ。私よりはりきっているの。早く追い払いたいのね」
カラはそう言いながら置いてある椅子に座って、膝にエスターテを乗せた。
「大事な娘が結婚するのですから、はりきるのも当然ですよ」
「……大事な娘なんかじゃないもの」
むすっと唇を尖らせてカラはそっぽを向いてしまう。きっと涙を我慢しているのだろう。ジャンカルロは一度作業場へ戻り、台に置いてある白い箱を脇に抱えてカラの元へ歩み寄る。跪き、箱をひとまず床に置いて、彼女の小さな手を取った。
「最愛と名付けた娘を嫌っているはずありませんよ」
「……嘘よ」
カラは涙を大きな目いっぱいに溜めて、震えた声で返す。なぜこうも上手く伝わらないものかとジャンカルロは苦笑し、口を開く。
「奥様がなぜ、あなたに靴を贈ることにしたか知っていますか?」
カラはもう言葉を発するのも辛いのか、首を横に振った。溢れそうな涙を拭くために自分のジャケットからハンカチを取り出し、手渡す。
「奥様は、嫁いだ先でも自分でしっかり歩けるように、と。そういう意味を込めて今回私に頼まれたのですよ」
遠くへ嫁いでしまう大事な娘。これからは守ってやれないけれど、それでもしっかり幸せになってほしい。困難があっても簡単につぶれないでほしい。そうカブリーニ夫人は電話で言っていた。まさかここまで娘に伝わっていないとは思わなかったが、果たして、カラにその心は今届いたのだろうか。
カラはジャンカルロから渡されたハンカチを握りしめたまま、硬直していた。驚いたせいか涙も引っ込んでいて、くりくりとした目を見開いている。
「…………お母さんが?」
「はい。あなたのお母様が」
「でも、……だって、私はてっきり……」
握られたハンカチがくしゃりと歪んだ。小さな肩が震えている。ジャンカルロはそっと置いていた箱を手に取り、カラに差し出す。
「奥様が今回頼まれた靴になります」
カラはゆっくりとそれを受け取り、箱を開ける。白い箱から出て来たのは艶やかな茶色が目立つホールカットシューズ。イタリアで最も多い、革底とアッパーを直接縫い付けたマッケイ製法で作ったので、軽くて歩きやすい靴になっている。
「……お母さんはこの靴を私に?」
「そうですよ。履いてみてください」
カラの足に靴を履かせ、手を引いて立ち上がらせる。彼女は少し店内を歩いた後、急に立ち止まった。
「どうかされましたか? サイズが合いませんか?」
「いいえ、違うの」
心配になってカラに近づいてみれば、彼女は止まったと思っていた涙をぽたぽたと溢れさせていた。じわじわとこみ上げて止まらないのか、カラは涙でぐしゃぐしゃになった顔をこちらに向け、微笑んだ。
「サイズぴったりよ。とても軽くて歩きやすいわ。とてもとても、素敵な靴。──ありがとう」
またカラの瞳から涙がこぼれ、ジャンカルロも微笑んだ。カブリーニ夫人の想いが伝わってよかった、とほっと胸を撫で下ろした。カラはそのまま暫く泣き続け、迎えが来る頃にはさっぱりと空のように晴れた笑顔で帰って行った。
ジャンカルロが赤らんできた空を眺めていると、足下にエスターテが体をすり寄せてきた。滅多にジャンカルロの元には来ない猫だが、腹を空かせる時間にはまだ早い。
どうしたのかと思って手を伸ばすと素早く叩かれた。能天気に空を眺めていないで早く仕事しろ、と言っているのだろうか。
ジャンカルロは苦笑を零して作業場へ歩いて行く。
「そうだね。靴を作ろうか、エスターテ」
みゃあ、と機嫌良く鳴いたエスターテの声を合図に、ぱたん、と扉が閉まった。
2014.06.03