私のもう半分のオレンジ
朝日が瞼の上から穏やかに刺さる。それがじわりと目に染みて、頼斗はゆっくりと目を開けた。
小さく息を吐いて、伸びをする。
「頼斗」
隣室から控えめな声が聞こえた。その声は数秒おきに頼斗の耳に飛び込む。頼斗、頼斗、頼斗。いつ起きたのか知らないが、彼女はおそらく起きてからずっと頼斗を呼んでいたに違いない。
眉を寄せて、相手に聞こえるように頼斗は返事をした。
「ちょっと待って」
ただちに布団をどかしてベッドから降りると、彼女のいる部屋に向かう。その足取りは決して軽いものではない。
部屋に入ると、気配を感じたのか彼女が頼斗の方を見て嬉しそうに笑った。その笑顔を向けられた頼斗は、逆に苦々しくさえ思う。複雑な顔で声をかけた。
「おはよう、純」
ただし、声をかけたからといって彼女はこちらを見てくれるとは限らない。案の定、視線をうろうろと宙に彷徨わせはじめた。頼斗は彼女の頬を両手で挟んで、自分の正面に向かせた。吐息がかかるほどの距離で、ようやく彼女も迷わず頼斗と視線を交わらせることが出来る。
――当の彼女本人には確認し得ないことであるが。
「頼斗?」
「うん、そうだよ」
「ふふ。頼斗だねえ」
何が楽しいのか頼斗にはさっぱりわからない。けれど、彼女は実に楽しげにそんなことを言って笑うのだ。
「おはよう頼斗」
「おはよ」
気持ちを押し込めて、出来る限り優しく声を出すように努める。
「ごめん、起きたのに気付かなくて。待たせたね……いつ起きたの?」
「私には時間なんてわかんないよ。……起きたら頼斗がすぐ来てくれるんだろうなって思って待ってたら、そんな時間あっという間だもの」
失念していた。彼女に時間感覚を求めるなど無意味なのだ。
「そんなことより」
彼女が手を軽く上げて万歳の恰好をとる。
「着替え」
「……はいはい」
頼斗は彼女の腰に手を回し、パジャマを脱がしにかかった。
彼女――純は目が見えない。
なぜ見えないかは知らない。頼斗は純にそれを尋ねたことがなかったからだ。聞いてはいけないような気もするし、彼女も聞かれることを望んではいないように思う。
そう、知らないこともわからないままのことも、放置したまま自分は純と同居している。
頼斗と純とは、血縁関係者でもなければ恋人でもない。強いて言えば高校の時の同級生であった。あまり目立たない、隣のクラスの女。その高校時代においては話したことすらない。いうなれば他人だ。そして、どうしようもなく異性だった。
一体、どうして一緒にいるのだろう。
気付いたら、頼斗は目の見えない純の身の回りの世話をしていたのだ。
「……頼斗?」
純が不思議そうな顔をしてこちらをじっと見つめていた。スープを飲む手が止まっている。
「……えーっと。何?」
正直なところ、純がしきりに何かを話していることには気が付いていたが、その内容は頭に全然残ってはいなかった。頼斗が聞いていなかったことは悟っていたのか、純は数回首を振って「いいえ。もういい」と言った。そのあと、目を細めて面白くなさそうに言う。
「ねえ、早く食べないといけないんじゃなかったの。授業、早いって昨日言ってたでしょう」
純に促されるように、テーブルの置き時計を見た。アナログのそれはもうすぐ長針がてっぺんを指しそうになっているところで、頼斗はそれを見て「アッ」と慌てたような声をあげる。
急いで、皿の上に残っているクロワッサンを口に入れると、立ち上がって片付けを始める。自分の皿と、とうに食べ終わっていた純の皿。両方をシンクに運びながら、純に昼食の話をしておくことは毎朝の習慣だった。
「純。さっき朝ご飯と一緒に作った焼きおにぎりがいつもの棚に仕舞ってあるから、昼はあそこからとって食べてくれ。晩は、そうだな。五時ごろ帰ると思うから心配しないで」
はきはきと喋る頼斗に対し、純はやはり面白くなさそうな顔をしていた。見えないはずの目が見透かすように細められ、どきりと胸が鳴る。
しかし、思い直す。――なぜ、自分のしていることで純に後ろめたさを感じねばならないのだ。
「頼斗、楽しそうね」
毎朝見送りをしたいという純の手を引き玄関まで誘導していると、純は呟くようにそう言った。当然、耳に届いてはいたが頼斗は聞かなかった振りをする。
「……ん?」
「……やっぱりなんでもない。行ってらっしゃい」
「うん、行ってくるよ」
純はそう言ったけれど、握った頼斗の手をなかなか離そうとしない。なんのつもりだ、と思って顔を見つめていると、すっと瞼を閉じた。ついでとばかりに顎が心持ち上を向く。
つまり。これは。
「……なあ、純」
純は目を伏せたまま動かない。
「なあ、離せよ。遅れてしまう」
そう言っても、純は頼斗を離しもせず、目を開けてもくれなかった。頼斗はぐっと眉を寄せて、純のことを振りほどいた。
「やめてくれよ、こういうことは」
どうせ純には見えないのだから、思い切り嫌な顔をしてやればよかったのかもしれない。それでも結局頼斗はそのあとの純の顔を見ないまま、玄関を出て行った。
玄関を出た途端、今までの息苦しさが嘘のように気持ちの良い風が頼斗の周りを包んだ。呼吸がしやすい。ああ、ここが自分の世界なのだと感じる。
あの家が唯一の世界である純とは、明確に違うのだ。
駅のホームで待ち合わせをしていた相手と目が合った。遠くからでも分かるその笑顔に、胸の奥があたたかくなる。不思議なものだ。彼女の笑顔はほっとさせてくれる。純の笑顔には苦いものしか感じないというのに。
里見という名前のその女の子とは、大学受験前に塾で知り合いになった。お互い励まし合って見事同じ大学に合格し、今も付き合いは続いている。頼斗の自慢の彼女であった。
毎朝の電車通学という短い間でも、会うことがこんなに幸せで楽しい。こういうことが、「好き」ということなのだ。残念ながら純には感じたことはない気持ちである。
「おはよう、ヨリ」
「おはよう。ごめんね、待っただろ」
「ううん、そうでもないの」
彼女はそう言って笑うけれど、その鼻の頭はほんのり赤に染まっていた。春の入り口ということもあって、まだまだ外気は体温を奪うに十分すぎる冷たさだ。
文句ひとつ言わず、自分を待っていてくれる。些細なことだがいじらしくて、つい頬が緩んだ。
「行きましょうか」
引かれる手も、彼女の手ならばこんなに心地いい。
***
「飲み会?」
「ああ。新歓コンパってやつ」
夕食の後片付けをしながら、頼斗はそれとなく切り出した。純は、呑み込み悪そうに口の中で「シンカン……」と数回もごもごしていた。
「新入生歓迎の略称だよ。要は新入生をダシにして飲みあおうっていう会合らしい。ま、俺も新入生だしここはお呼ばれに預かろうかなと思うんだ」
「ふうん」
純は興味なさげに言った。
「行って来れば。楽しそうじゃない。そんな言い草だけれど、頼斗は好きでしょ。そういうの」
勿論だ。純がどれほど渋い顔をしようが、頼斗は行くつもりであった。会には里見も行くことになっている。彼女にも、幹事にももう参加の旨は伝えてあった。
パチンパチンと爪を弾く手遊びをしながら、純は言った。
「でも、遅くなっても私のお風呂の手伝いには帰ってきて。だからあんまり遅いと困るよ」
楽しみな気分から一転、一気に憂鬱な気分が襲った。頼斗は重苦しく溜息を吐きながら「わかってるよ」と答えた。
しかし、うまくいかないものである。特に仲間内と遊んでいると時を忘れる。
頼斗がその新歓の日に家に帰ったのは、日付をまたいで早朝のことだ。二次会、三次会と盛り上がる仲間たちに合わせて着いて行った結果であった。
純になんの連絡もしなかったが、おそらくこの時間なら寝ていることだろうと思われた。
なんとなく、家に帰るのが不安だと思った。今更だが連絡もしないまま約束を破った頼斗に対し、純は怒るだろうか。泣くだろうか。心配しているだろうか。そのどれもが予想でき、また予想がつかなかった。実はこんなことは一緒に暮らして初めてのことだったからだ。
なぜだろう。なぜ、彼女を疎ましく思いながらも彼女の世話を投げ出せなかったのか。考えすぎるといけない気がした。
リビングの電気をつけた。薄暗い部屋全体を人工灯が照らす。――ソファのそばで影が揺れた。
「……痛い」
純だった。彼女は目を擦りながら独り言のようにそう言った。多分この光のことだろう。色彩は感じられないが光量は感じられる純の瞳は、確かに蛍光灯の光を眩しく感じているらしかった。焦点を結ぶ機能に欠けている目が数回、ぱちぱち瞬きをする。
「頼斗。帰ったのね」
「ああ」
純は穏やかだった。
「……今は何時よ」
時計を見られるはずもない彼女に嘘を吐くのは容易い。嘘を吐くのは容易いが、見破られるのもまた容易いに違いなかった。なにより、誤魔化す理由も頼斗にはない。
ない、はずだ。
「朝の、六時ちょっと前かな」
「そう」
頼斗は純の真正面に立っていた。純は、いつものように視線で頼斗を探すようなことはしない。ただ一点を見つめていた。なにを考えているのか、表情からは全く窺えない。
「ずいぶん早いものね。私が風呂に入る時間っていうのは」
やれやれ、といった様子でそんなことを言われ、少しカチンと来た。
「なんだよ。その言い方」
「違うの?だって頼斗、あのとき私との約束を了承したんでしょ。『わかった』って言ったでしょ。違う?」
違わない。けれどもう沢山だ。
「なんで俺がそこまで縛られなくちゃならないんだ」
「はあ?」
純が訝しそうに頼斗を見る。
「あなたが私の世話をするのは当然じゃない」
「なんで当然だって言える?」
頼斗は、この家という世界で生きてきた中で一番の息苦しさを感じた。なぜ、この女の世話に重きをおいて自分は生活していかなくてはならないのだ。
「俺は、こんなヘルパーまがいのこと、全く楽しくないね。そうだ、お前のことだってこれぽっちも好きじゃないのになんで世話を続けてきたんだ。……俺には俺の世界があって、お前とは別に好きな女がいて、その女と仮に一緒になるとして。お前みたいな荷物の置き場なんて、俺の人生のどこにもないんだよ」
もう勘弁してくれ。自分の人生を好きに過ごさせてくれ。
元々、赤の他人なんだから。
「……もう一回言ってみたら?」
「何だって?」
さぞショックを受けているかと思えば、女はとても楽しそうに口元を歪めていた。見たことのない表情だった。
「私みたいな、お荷物。何?」
「ふん。……お前みたいなお荷物。俺は要らない。いや、誰だって必要とするもんか」
ふうん、と言って純は笑った。よく見る、いつもの笑みだ。
「じゃあ、仕方ないねえ」
そう言ってソファから立ち上がり、壁に寄りかかりながら自分の寝室へと向かう。寝に行くのだろうか。
「出て行きたいときに、いつでも出て行くがいいよ」
言われなくともそうするつもりだ。頼斗は、食べ過ぎ飲み過ぎでむかむかする胃と、先程の言い合いでむかむかする気分とを抱えながら、寝室へ向かった。
余程疲れていたのか、すぐどっぷりとした眠りに就いた。
青年は、泣き崩れていた。
熱くて大粒の涙をぼろぼろ止めどなく溢し、見ている者は皆、あのまま目玉がすっかり溶けてしまうのではないかとすら思ったほどだった。
同い年ほどの女が、その男に近づく。
「どうかしたの?」
青年は答えない。ずっと涙を溢し続けるだけである。女はめげなかった。毎日男の病室に通い詰めては、男に何があったのかを聞く。青年は彼女のその声から、彼女が数日前自分に告白してきた女であることを察した。
「あんた、なんでここに来るんだ?自分を振った男が惨めに泣いている姿を見るのが面白かったか?」
「やだなあ。私はそんな悪趣味じゃないよ」
くすくすと笑う。わざわざこんな自分を訪ねてやってくる者など、この女しかいなかった。だというのに、やはりこの女に特別な好意を寄せることはできなかった。
「それに、病気で突然目が見えなくなったからって私はあなたを見放したりしないよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ」
女の表情を見ることはできなかったが、やけに真っ直ぐな言葉だと思った。口では何とでも言える。
「俺の立場になったことがないからそんなことが言えるんだ」
投げやりに言ってやると、女は静かにこんなことを提案した。
「じゃあ、私があなたと入れ替わってあげる。そのときは、ずっと一緒にいてくれる?」
朝起きると、頼斗は目が見えるようになっていた。
隣の部屋から頼斗を呼ぶ純の声が聞こえる。そうだ、俺は目の見えない純と二人で暮らしていたんだ。朝食の準備をしなくちゃいけなかった。頼斗と純の二人分。
朝日が瞼の上から穏やかに刺さる。それがじわりと目に染みて、頼斗はゆっくりと目を開けた。
目を開けても、世界はほぼ暗闇だった。
頼斗は絶叫した。
「あら、起きた?」
部屋に、誰かが入ってきた。「純……」という恨みがましい自分の声が響く。
「おはよう、頼斗。久しぶりの暗闇の世界はどう?」
「……どういうことなんだ」
「だって、あなたが嘘をついたから」
見えないものの、純が口を尖らせて拗ねたような物言いをしているのがわかる。「嘘?」と短く聞いた。
「あなたの暗闇を私が引き受けたらずっと一緒にいてくれるって。私の目になってくれるって。最初にそう言ったのに」
淡々と話す彼女の表情は、相変わらず見ることが出来ない。震える手を伸ばすと、彼女の頬に当たった。純は振りほどくようなしぐさもしなかった。
「頼斗は一ミリだって私を好きになってくれた日はなかったでしょう。でも、あなたの彼女より私は頼斗を救ったんだという自負があった。だから別に、彼女になりたいとかそういうのは良かったんだけど」
手を当てた頬に、雫が流れていく。あたたかい。
「きっと、好かれてもいない男のために人生をかけるのが間違いだったんだね。ずっと一緒に生きていけば、頼斗はいつかきっと私を見てくれる。好きになってくれて、本当の意味でずっと一緒にいられるようになるんだって思ってた。馬鹿みたい」
純は、頼斗の両手を掴んで自分の頬から退けた。吐息がかかるほどの距離で囁く。
「私はこの家を出て行く。さようならお荷物さん。もう二度と、」
――私の人生と交わることはないでしょうね。
家はしんと静まり返っていた。
純が荷物をまとめて出て行ったらしい。元々、「目が見えない」彼女の持ち物はそう多くなかった。純の気配は家中どこにもない。純はもういない。自分の望んでいた世界のはずだった。
だというのに、息苦しい。これはなんだろう。
里見を呼ぼうか。友人の誰かを呼ぼうか。……彼らがお荷物の自分を見てどのように思うのか。必要としてくれるだろうか。見捨てないだろうか。自信がない。
結局、俺の人生とはなんだったんだろう。
そんな風に考えながら、頼斗はしきりに純の名を呼んでいた。
タイトルはスペイン語の「私の魂の片割れ」から。
ただ、半分のオレンジがいくら横にいる半分のリンゴを私の半身だと思ったからといって、本物の半身になることはできないというのがこの短篇のキモになっています。