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異文化エッセイ

エティックとエミック

作者: 中原恵一

 文化人類学の言葉でエティック(Etic)とエミック(Emic,イーミックとも)というのがある。


 ある事象において外的なものの見方をエティック、内的なものの見方をエミックと呼ぶ。

 要するにある文化を外から見て客観的・科学的に判断するか、あるいは文化の中で主観的に判断するかという話である。


 たとえばポーランドという国があるが、ヨーロッパ人たちのポーランド人に対するステレオタイプには「ポーランド人は馬鹿だ」というものがあるらしい。ポーランド人の医者である、というだけで笑われることもあるらしい。

 しかし日本にはそんなステレオタイプはない。というかそもそも日本人はポーランド人なんて深いつながりもなければ普段考えることもない。

 だから「ポーランド人は馬鹿だ」というステレオタイプがある、という話を聞いたとき、我々は奇妙に感じるだろう。

 同じような例に「ブロンド(金髪)は馬鹿だ」というステレオタイプがあるが、これも我々には縁遠い話である。そもそも地毛で金髪の人間がいないのに、こんなステレオタイプは生まれない。


 この例でいくと、ヨーロッパ人たちが「ポーランド人は馬鹿だ・金髪は馬鹿だ」と考えるのはエミックな考え方、「なぜポーランド人・金髪をバカだと考えるのか」についてたとえ自分たちにとって真実でなくても考えようとする姿勢はエティックな考え方ということになる。


 私はいろんな国の人間とかかわる傍ら、いつもエティックな姿勢でものを考える。

 その国の人間にとって何が真理で、どういう条件で物事が発生すると彼らは考えるのか。

 そうしないと異文化理解なんぞやってられないのである。


 そもそも異文化を理解しようというのは傲慢なのだ。

 その国の人間にとってそれが真実ならそれが真実になりうる。

 たとえばイスラム教の国であれば、誰しも唯一神と信じるし宗教を信じない人間はとんでもない人間になりうる。私は完全に無宗教だから、イスラム教国にいけば頭のおかしい人間扱いされてしまう。

 しかし日本であれば、逆に宗教を信じていない人間の方が多い/宗教を信じている人は大体仏教か神道という理由で、イスラム教やキリスト教のような一神教を信仰する人間は奇異な目で見られる。 


 こうした現象は、人間が基本的にエミックな目でしか物を見ることができないからこそ発生する。

 だからこそ――特に外国人とよくかかわる人間なら――エティックにその国の文化について考え、表面上その国の人間に合わせること、彼らにとってエミックな考え方に沿って行動することが求められるわけである。

 たとえ「彼らにとってエミックな考え方」がどんなに非合理的であっても、である。


 ただ別に根本から自分を変える必要はない。適当に合わせることが必要なのだ。

 簡単に言えば、イスラム教国に行ってまでわざわざ自分が無宗教だと声高に宣言する必要はないということだ。そういう人というのは自分自身についたエミックな考え方を脱ぎ去ることができていない、ということになる。


 エティック・エミックの話は外国文化に触れるうえで避けては通れない問題になってくる。

 ここで「確証バイアス」の話をしたい。


 たとえば中国人はうるさい・マナーが悪いというステレオタイプがある。実際よく言われることだ。

 筆者自身よく中国人とかかわるので確かにそうだと思う。

 しかし究極、やっぱり人によるのだ。なぜこんなことをいうかというと、別にうるさくない中国人にも何人と出くわしたことがあるからだ。

 別に中国人だからといって全員いつもでかい声でギャーギャーギャーギャーしゃべったりとか、常にうるさく騒ぎ立てたりするわけではない。


 しかしどうだろう。もしあなたの出くわした中国人の数が少なくて、たまたまうるさい人にしか出会わなかったら、たぶんあなたは「やっぱり中国人はうるさかった」という結論に達するだろう。

 そして一度そういう結論に達すると、その情報を肯定する事象にしか目が向かなくなる人がいる。そういう具合にますます「中国人はうるさい」という考え方を強め、やがて自分の確証を証明する情報にしか耳を傾けなくなってしまうのだ。


 これを心理学の用語で「確証バイアス」と呼ぶ。

 全ての人間が上記のようになるわけではないが、人間というのは結構表層の印象だとか最初の印象ですべてを決めてしまうことが多いのだ。

 

 私が以前、中国のテレビ局で放送している特撮ショーの番組を見ていたとき、日本人のコメントで「また中国は日本の○○をパクって……」というのを目にした。日本のとある有名なアニメの主題歌が中国語で吹き替えされて歌われていたときも同じようなことを聞いた。

 しかし実は、この二つは中国のテレビ局がちゃんと権利を買い取って(前者に至っては日本企業が撮影に協賛していた)作っていたものだった。

 にも関わらず日本人は海賊版・違法コピーだと思ってしまったわけである。


 ではなぜ、こうした考え方になるのか? これがまさに「確証バイアス」だと私は考える。

 私は中国でアニメやドラマの海賊版が出回っていることをちっとも擁護する気はない。

 中国にはそういう問題がある。

 だが、上述の日本人の中には確実に「中国人は何でも物をパクる」という確証バイアスがあり、それによって誤解してしまったわけだ。真面目にもの作ってる人間から言わせれば迷惑な話だ。

 中国に真面目に物を作っている人間が一人もいないのなら私も諦めるが、別にそんなことはない。

 バイアスというのはかかっている本人が気づいていなければバイアスではない。その人にとって、あるいはその社会にとっての真実になりうる。

 バイアス、というのはエミックなものの理解とかぶる部分があるかもしれない。


 だが一方で、私のような立場にいる人間でもエミックなものの味方を理解する必要はある。

 繰り返すが、普通の人間はエミックにしかものが見られない。

 だからこそ彼らの考え方を否定するのではなく、寄り添う必要がある。

 その人がそう思うなら、できるだけそれを尊重するべきだと。

 たとえばブロンドをバカだと思ってしまうアメリカ人や、日本人は誰彼かまわずAVが大好きだと信じて疑わない中国人は悪気があってそういう考え方になったわけではないのだ。

 ただそういう人間と付き合うときに、いちいち腹を立てずにそうですね、と言ってあげられるかどうかが、ストレスをためない人付き合いに必要になる。

 お互いにある程度譲歩してお互いのエミックな部分について分かり合う、ということが異文化理解なんじゃないだろうか。


 私が相手の考え方を否定しないのは、相手が非論理的だと思うからではない。自分が相手のエミックな考え方を変えられるほど論理的な考え方をしているわけではないからだ。

 私は常々人とかかわる中で、これを念頭に置いていこうと思っているのだが、何分私自身も頑固なことがあって上手くいかないことも多い。エティックになりすぎるのまた、よくないのである。

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