時をかける忍者
少年は薄暗い廃墟の中で、昏い笑みを浮かべていた。
アルコールランプの光が、コンクリートを打ちっぱなしの壁にゆらゆらと影を生む。
少年の名は空賀。現生の親につけられた名は別にあるが、空賀は前世の名こそが、己の真の名だと決めていた。
14の空賀が"前世の記憶"などと口走ろうものなら、周囲は何かを汲んだような、生卵の白身のようにぬるっとした視線を向けるだろう。
だが、あいにくと空賀には本当に前世の記憶があった。
山野に囲まれた田舎で彼は普通の少年を演じながら、しかし前世で磨いてきた技を取り戻していった。
20センチ長のコンバットナイフを磨きながら、床に並べられた草や虫の死骸を数え上げる。その全てが毒草に毒虫であり、人を殺すための道具であった。
「今日で7人か」
ボソリと呟いた空賀は、目を閉じて7人目の犠牲者の姿を思い出していた。
夏休みの公園で一人佇んでいると、一人のサラリーマンが声をかけてきたのがきっかけだ。
まったく、平成の世とはおもしろい。男が男を囲うことは禁忌とされているはずなのに、まるで戦国の世とおなじように、この身は馬鹿どもを誘き寄せる。
前世の己に似た中性的な顔立ちにつばを吐きかけられないことを悔やみつつ、空賀は子供を手篭めにしようとした変態に痺れ毒を盛り、山中に捨ててきた。ついでにちょっとばかりの小遣いも頂いて。
自分から人目につかないところに移動してくれるので、空賀は毒で痺れさせたらその場を離れるだけである。用いる毒は秘伝の一品で、速効性があるのに現代医学でも発見が困難な奇跡の一品。
見つけることが出来るのは、自分と同じ組織に属するものだけ。
だから空賀は己の目的のためだけに餌を撒き、男共に罰を与えた。
そしてその日、それはやってきた。
● ● ●
「動くな!」
廃屋に、女の声が木霊する。
視線を上げると、階段に女が居た。
短いスカートとブラウス姿のOLだ。年齢は二十代後半だろう、と空賀はあたりをつける。化けが濃すぎて良くわからんが、顔立ちが整っただけの、ただのOLである。
数十センチはある小刀を構えていることを除けば。
驚きはない。
むしろ待ち人が現れた喜びが、自然と顔に浮かぶ。そして待ち焦がれた言葉を放つ。
「甲賀の末裔か?」
「………」
空賀の問いに、沈黙が返される。それもまた想定通りだ。
女はジリジリと近寄りながら、空賀の手元や周囲を観察する。
一瞬、虫の死骸の山に足を止めたが、すぐにそれが何に用いられるかを悟って息を呑んだ。
「そんな……。なぜ貴様がソレを知っている!!」
「『オレが開発した毒』だからだ。落ちぶれたとはいえ、さすがは甲賀のくノ一。現代風のアレンジを加えているのに、一瞬で秘伝の毒を見ぬくとは、誇らしいよ」
空賀はゆっくりとコンバットナイフを手放すと、床の上を滑らせた。自分から武器を手放す愚行に、女は警戒を一層強くする。
表情には現れない心の動きを察して、空賀は更に、手を頭の後ろで組んでうつ伏せになった。
降参するつもりなのだろうか。
女は一瞬でもそう考えた自分を戒める。この少年は子供の姿をしていてもれっきとした『忍』なのだ。正体不明ではあるが、甲賀秘伝の毒を用いて事件を起こしている。
山中に放置されて危うく死にかけた者までいるのだ。許せはしない。
「私達の毒で事件を起こされるのは迷惑なの。おかげでうちの家業を知っている人には睨まれるし、仕事はなくなりそうだし、ほんと邪魔」
だから、死んでもらうわ。
くノ一は肩からかけていたバッグに片手をつっこみ、中からセラミック手裏剣を取り出した。
大小の刃と、おおきくたわんだ形状は空賀も初めて見るものだが、想像はつく。おそらく現代科学で生み出された合金と、空力特性を考慮した最新鋭の手裏剣に違いない。
まったく。若い衆というのは昔から便利なものを使うことしか覚えない。
うつぶせのまま、空賀は落ち着き払って会話を続けた。
「くノ一、貴様の名は?」
「ガキのくせに生意気な口の聞き方ね。甲賀忍軍、葛城イヅルよ。あの世で自慢することね」
イヅルが手裏剣を投げる姿勢に入る。
「そうか。オレの名は空賀」
女に聞く耳はなかった。この少年が使っていたものと同種の痺れ毒を仕込んだ手裏剣だ。戯言は捉えてから聞けば良い。
だが、耳に入ってくる言葉を脳は勝手に捕まえる。
「戦国の世で最高の毒使いでありながら、里に名を奪われ、無実の空を背負わされた男よ」
「は?」
手裏剣が指から離れて、少年の独白にドン引きした瞬間。空賀の指がピクンと動き、イヅルの足元が爆発した。
コンクリートの内部に仕掛けられた爆薬は、爆圧と熱だけでなく、コンクリート礫でも彼女を傷つける。
しかしそこは忍の女。イヅルは爆発よりも先に床の変化を感じ取り、空賀の真上にジャンプしていた。
これでもう、爆発は通じない。ここまで接近してしまえばどの角度で爆発を起こしても少年自身に被害が出る。
だが、忍の仕掛けが一つで終わるはずがあろうか。
壁に隠された改造エアーガンが、毒に浸された樹脂弾を発射する。
おもちゃの銃だと甘く見ることはできない。強化スライドと重ねられたスプリングによって威力を高めた業界最重量の0.3ミリグラムのBB弾は容易に皮膚を割く。
浸されていた毒は、少しでも体内に取り込まれれば即座に動けなくなる麻痺毒だ。かすっただけで勝負は決まる。
イヅルが防御ではなく回避を選んだのは偶然だった。
彼女の中のくノ一が、これに触れてはならないと選んだ正解。
しかしその意識すらも毒草を見せびらかしていた空賀の術中だとしたら……。
体を捻って無理矢理に姿勢を整え、イヅルは空中から突きを放つ。
「せいっ!」
うつ伏せになった相手を背後から刺す。彼女の思い切りの良さに感心しながら、空賀はしかし手加減することなくあっさりと避けてみせた。
「そんなおたんチンじゃあ、ゲーセンで遊ぶのも苦労しそうだね」
戦国の世に比べれば、最近のTVゲームの方がよほどタイミングと反射神経を要求されるものだ。一秒間に16ものボタンを瞬時に選択して操作とか、最初は何事かと思ったものだ。
結果的に戦国の武術と現代の科学に鍛えられた空賀は、中学生の肉体からは想像も出来ない動きでイヅルの攻撃を回避した。
背筋で上半身を反り起こし、膝を外に傾けて斜めに"床を壁走る"。前に伸ばした手で手裏剣を掴むと、裏拳の要領でノーモーションに背後のイヅルへと投げ返した。
万全の体勢から投げたイヅルを遥かに上回る速度で飛び込んでくるセラミック手裏剣。彼女も思わず小刀で受け止めざるをえない。
パキン、という弱々しい音を立てて、小刀が折れた。
驚愕に動きが止まったイヅルを、空賀はボレーシュートのように蹴り飛ばした。
子供とは思えぬ膂力に弾き飛ばされ、壁際に後退する。
「私の動きについてくるなんて、信じられないわ!?一体どこの忍なの、吐きなさい!」
「戦国時代に死んだ忍の、生まれ変わりだ。あんたが信じようが、信じまいが、俺は覚えている」
最強の隠密集団として鍛えられた自負。
自らの技量を誇る仲間。
殺した城主。
殺された仲間。
木と、山と、人だけで作られていた、あの世界。
「忍の血が廃れて久しいであろうこの時代に、同胞の姿を見られるとは僥倖」
頭のおかしい中学生の話を肯定するつもりはない。
だが、現代時点で最強を自負するイヅルが手も足も出ない事実もまた、否定出来ない。
「貴様の目的はなんだ、空賀!!」
とりあえずは会話で間を引き伸ばし、弱点を探るしか無い。
妄想激しい中学生、好き勝手に喋らせてやればいい。
だがそんな甘ったれた戦法が、歴戦の忍に通じないという発想は彼女には生まれなかった。
空賀は彼女を指さして笑った。
否、指したのは彼女の中にある、己が最強だという自惚れ。
「昨日までの現代最強の甲賀忍。まずは、貴様に敗北を味わわせてやることさ」
今度は空賀から飛び出した。
体を鍛えに鍛えた空賀ではあるが、身長だけは自然に任せるしかない。成長しきった高身長のイヅルを相手取るに、体格では縦も横も低い。だがそれは決して"劣り"ではない。
空賀は己の背の低さを逆に利用して低く床を"登る"。
長身のイヅルは逆に視線が下がり、前傾姿勢になることで体勢も更に下がり。
下がり続け、走り続け、少年は床の中に消えた。
「えっ!?」
そう、まさしく消えた。
何もない床だ。爆発で発生した穴は10メートルも横だ。たとえそれが150kmで投げられる豪速球であっても見逃すはずのない移動距離。ましてや人間大なら尚更だ。
まじまじと空賀が消えた一点を見つめているイヅルの背後から、空賀のため息が漏れた。
「やはり、忍"術"は使えぬか」
背後からの声に振り向いての裏拳は空を切る。体の向きが180度変わり、最初に正面を向いていた方向から蹴りが入った。
背中を強打され、息が詰まる。
どうして姿が消えたのか。
どうして背後から声が聞こえたのか。
どうして正面に再び回りこめたのか。
何もかもがわからず、イヅルは床を転がった。
強い。強すぎる。
イヅルは間違いなく現代で最強の忍だ。
その彼女が手も足も出ないとは。
肺が空気を取り込むまで、およそ3呼吸分の間。
振り返ると、そこにはナイフを手の中で弄ぶ空賀が笑っていた。
「やれやれ。術を扱えない忍が一人前気取りか?刃を振り回すことだけを覚えて、その下に忍としての心を持たぬから、貴様のようなろくでなしが生まれる。昔も今も、変わんないね」
空賀はナイフをオーバースローで投げつける。
流れるようなフォームはゆったりとして見えるのに、イヅルはまったく反応出来なかった。
刃から、せめて目だけはそらすまいとして、イヅルは丹田に力を込めたが、空賀の放ったナイフは、まぶたに触れて急停止した。
イヅルは硬直したままだ。勝てないと事実から目を背けずに拳を握る姿に、空賀は笑いをこぼした。
「実力はまだまだ」
しかし、
「勝てず、逃げることも出来ぬ相手にせめてもの意志を見せたのは見事。我等は日陰者だが、性根まで影で腐らせてはいかんからな。少なくとも腑抜けでないのなら、次のステップに進められる」
弄ばれた。
その事実を理解すると同時に、イヅルは体から力が抜けるのを止められず、床にへたりこんだ。
空賀は手元で何かを手繰り寄せ、ナイフを引っ張っている。夕方の薄暗い廃墟の中で、見破られないほど極細の糸を用意していたのだろう。
用意周到。そして彼我の距離をミリ単位で見極め、こちらの目に触れた所で寸止めする実力もある。
その技量は寸止めという言葉でも生ぬるい。一寸は3センチ。眼球が3センチも抉られれば、再起は不可能だ。
前世などという戯言も認めざるをえない。少なくとも、現代最強のくノ一より強い忍の存在は現実のものだ。
前世に目覚めたと気取るだけの中二病に負けるより、凄腕の先祖に殺されると思うほうがまだマシだと、イヅルは思い切って溜飲を下げた。
ナイフを丁寧にしまった空賀は、無遠慮に近づく。
罠や仕掛けや反撃があろうとも、害にならない。
彼の態度が雄弁に実力差を見せつけていた。
「ん?」
空賀があと一歩を踏み出せば、自分は死ぬ。
死などとうに覚悟していた。今までに命を失いかけた任務もあった。だが、彼女が恐怖を感じたのは初めてだった。
死に怯えたのではない。自らとは生きるステージの違う存在。初めて出会う異次元の空気に、否応なく体は力を失っていった。
拳の届く距離に足を踏み入れた瞬間、空賀はイヅルが股ぐらから小便を漏らしていることに気づいた。
「えっ?あっ、い、いや……」
もはや手遅れなくらいに溜池を作ってから、彼女は自分の体がどんな反応をしたのか、理解した。
やれやれ、と肩を竦めた空賀は、部屋の端においてあったスクールカバンから、タオルやらボディペーパーを投げ渡して、床に腰を下ろした。むろん、濡れていない部分にである。
「貴様の命は獲らん、安心して身を整えよ。貴様をこの場から生きて帰す代わりに、オレも貴様に要求がある。まずは身を清めて落ち着いてこい」
● ● ●
意味不明だったが、イヅルはさらに奥まった部屋を指さされると、そそくさと移動して汚れを落とした。窓のない部屋で、やはり空賀に隙がないことを痛感する。
「一体何を要求されるんだ」
手早く服の汚れをペットボトルの水で洗い流しながら、イヅルは考えるまでもなく結論に至った。
連続事件の犠牲者は、すべて男性である。空賀はぶらぶらしているところを誘われているようだったが、忍から見ればどちらが誘っているかは一目瞭然だ。
恐らく、彼は待っていたはずだ。自分の希望を叶えられる犠牲者が現れることを。
空賀ならば、人間を即死させる毒を作ることも、見つからないように死体を隠すことも容易く出来るはず。
それをせずに、わざわざ見つかるように麻痺毒で生かしておいたのは何故か。
被害者には金持ちも居た。それらを見逃してまで求めていたものは。
イヅルは思わず身を抱いた。
くノ一の修行の一つとして、美しい造形を保つのも仕事のうち。イヅルはあらゆる観点から現代最強の年頃くの一だ。
(私はまんまと誘き寄せられた捕食対象か)
項垂れながら戻ったイヅルは、意外にも正座で待っていた空賀に面くらいながら、同じく正座で対面した。
空賀の目は、ギラギラと強い光を湛えている。
我欲を貫き通そうとする、およそ忍とは相反する意志の力だ。
(だが、それこそが、刃の下に持つべきもの、なのだろうか)
既に日は落ちて暗い部屋の中、アルコールランプの光にあおられて、真摯な顔をした空賀は、
土下座をした。
「甲賀イヅルよ。貴様の命を助ける代わりに、どうかオレを貴様の家に再就職させてはもらえないだろうかっ!!」
「えっ」
就職活動こそが、空賀の真の狙いであった。
空賀は早生まれの現在14歳、中学3年生。忍術の修行に明け暮れた彼を襲った、中卒浪人という未来。
古典の諳んじと体育以外、学徒として何の取り柄もない彼は、考えなしに秘蔵の麻痺毒を使った。
そして最初の犠牲者が出てから三日後。
彼は気づいた。
自分に、忍の監視がついている。
「オレは歓喜した。現代にもまだ、忍は居たのだ。己の人生すべてをかけて捧げた忍道は、絶えていなかったのだ。だから、イヅルよ。追放の憂き目にあった愚か者ではあるが……オレを、採用してはいただけないだろうかーーーっ!!」
イヅルは泣いた。
なんだこれは。命懸けで謎の忍を討ち取ろうとし、負けて、失禁し、私は面接官になっていた。何が起こったのかわからないが、レイ●なんてちゃちなものよりもっと恐ろしいことが起きていた。
気が抜けた彼女は涙をこぼしながら、しかし逆に冷静な判断を下していた。
「……分かった。空賀殿を雇おう。幸い、空賀殿に声をかけていたのは全員が性犯罪の疑いのある人物だった。もみ消すのは難しくない」
バッと顔をあげた少年の瞳に見つめられ、イヅルはうっと息を呑んだ。
確かにこの美貌。女であるイヅルにしても、可愛さに目が惹かれる。性犯罪者ばかりを誘き寄せる高性能誘蛾灯スキルは女性にも効能があった。
「ありがとう!イヅル!」
屈託の無い笑顔に、最後に残っていたかすかな気力まで持っていかれる。
とんでもない厄日だった……。家に帰って、どうやってお父様になんと報告したものやら。
ひたすらため息をつくイヅルが甲賀忍者の本拠地である自宅の住所を教えると、空賀は学生らしいエナメルのスポーツバッグから消臭剤を手渡した。
「ほら、これでも使ってよ。じゃあまた明日ね!」
赤面どころではない。
あまりの恥ずかしさに思わず胸のあたりを抱いたイヅルは、顔を伏せたままコクンと一つ頷くのが精一杯だった。
● ● ●
OLくノ一を廃ビルに置き去りにして、空賀はガッツポーズをしながら夕方の街を駆け抜けつつ、一つの疑念を抱いた。
「しかしあの年増は、何をあんなに気にしていたんだ?」
戦国生まれの空賀にとって、年頃の娘に、2x歳は含まれない。
理解できないおばさんの心などつゆ知らず。とりあえず手に入れた内定に小躍りしながら、夕闇の中を少年は影に溶け込みながら走り抜けていった。
この日、日本において『戦国最強の忍』と『現代最強の忍』が邂逅し、最初のすれ違いを果たす。
上司と部下。師匠と弟子。
ちぐはぐ忍伝が、ひっそりと幕を開けた。