2.目覚めの時
「姫……いや、お嬢様、フリアお嬢様。今日はグランペール・オルト仕官隊長さまがいらっしゃる日。さあ、そろそろ起きてくださいませ。お支度が間に合いませんよ」
「うーん……。わかってる……」
遠くでかすかに聞こえるクローノの声に反射的に返事をするが、あくまでも返事をしただけで、ただちに行動を起すかどうかはまた別の問題。ふかふかのベッドから出るには相当な勇気がいる。
クローノの怒りがじわじわと沸点に達しようとしているのもおぼろげながらに感じてはいるが、フリアーヌは何もかも忘れ去っていられるこの朝のまどろみを、そう簡単に手放したくはなかった。
「お嬢様、起きてください。お嬢様」
「わかった。わかってるってば」
クローノの泣き落とし作戦に入るぎりぎり一歩手前で、ようやく起きる決意を固めたフリアーヌは、ベッドの上で大きく伸びをして上半身を起した。
シルクの白い夜着に包まれた肌はいつにも増してすべやかで、夕べも母を思って涙を流したことなど、朝の陽射しを浴びた瞬間に、夜の闇と一緒に消え去って行った。
「オルトはいつ来るの?」
クッションに背を預けながら、クローノに訊ねた。
「午後からでございます。フリアお嬢さまは、まず今から湯浴みをされ、朝食を召し上がられて、そして、お支度を整えていただきます。そうすれば、もう午後でございます。ですので、すぐにでも起きていただかなければ、間に合いません!」
クローノは腰に手をあて、小柄で細い身体から出ているとは思えないくらいはきはきとした力強い声でそう言い切った。
「そうね。ならもう起きようかしら。でも湯浴みはいいわ。夕べもしたし、今朝は……」
「森へ遊びに行くから、そんな時間はないとおっしゃるのですね。ええ、ええ、そうでございますね、わかりました、フリアお嬢さま……なんて、あたくしが申すとでもお思いですか?」
フリアーヌは首をすぼめ、いいえ、思わないわ、と小さくつぶやいた。
「夕べの湯浴みは、裸足で森を駆け回られたからその汚れを落とすためでございます。朝の湯浴みは、もちろんオルト様に失礼のないように、身だしなみのひとつとして行ってもらうものですが、フリアお嬢さまは、我が王国の正当な王位継承者なのです。誰が何と言おうと、近い将来は、お嬢さまが女王になられるのが筋なのでございます。ですので、王家のしきたりとして、湯浴みをなさっていただくのは、当然の儀式だと心得ておりますが」
身の回りの世話から王族としてのたしなみまで、それはそれは多岐にわたる分野を一手に引き受けるクローノは、妥協を許さない。
「んもう、なんかメンドクサイな……」
「め、め、め、メンドクサイ?」
「あ……」
しまったとばかりに口元に手をやるが、時すでに遅し。地雷を踏んでしまったら最後、クローノの小言が開始されるのはもう間違いない。
「なんという言葉遣い。だからあたくしは嫌なんでございます。フリアお嬢さまが、森へ行かれることが。あれはお嬢さまが十二歳になられたばかりの頃。すっかり大人びたお嬢さまのおっしゃられるとおり、お一人で森で遊ばれることをお許し申し上げたことがございました。あたくしはてっきり本当にお一人で遊ばれているのだと信じておりました。鳥やリスや森の木とお話しするのが得意なフリアお嬢さまですもの。あたくしがいない方が、ゆっくりと楽しめるなんておっしゃる、お嬢さまのお気持ちを最大限に汲み取った配慮でしたのに、なのに、なのに、姫さまときたら……」
「ああ、またその話ね。悪かったと思ってる。本当よ。クローノ、ごめんなさい。わたしのこと、信じて」
この話になると長くなるのはいつものこと。少しでも短く切り上げてもらうためにも、誠心誠意謝ることは、この場において必須条件だ。
「はい、もちろんですとも。あたくしはいつでも姫さまのことを信じております。姫さまとて、王位継承者でいらっしゃることをのぞけば、普通の年頃の娘たちと変わりないことはちゃんと存じております。けれど姫さまは、姫さまなのです。あのように、村人とかかわるなど、絶対にあってはならないことなのです」
「だから、わたしはフリアよ。姫じゃなくて、フリア。何度言ったらわかるのかしら」
再び主導権を握ったフリアーヌは、さも不満そうに口先をとがらせる。
「も、申し訳ないことでございます。でも、お言葉を返すようでございますが、あたくしどもが姫さまのことをフリアさまなどとお名前でお呼び申しあげるなど、到底許されぬことでございます。いくら他者に姫さまのことが知られてはならないとおっしゃられましても、長年の慣例を崩すのは、とても難しく……」
「クローノったら。ほんとにもう、仕方ないわね。じゃあ、好きなように呼べばいいわ。ただしオルトの前だけは、気をつけてね。あの方を怒らせたら、お説教がとっても長いんだもの」
そうなのだ。クローノの小言以上に長くなるので、これだけは気をつけて欲しい。
「わかりました。オルト様がいらっしゃる時だけは、フリアお嬢さまとお呼びいたします」
クローノはしぶしぶ納得した。
「それと……。絶対に、さっきの村人の話はしないでね。そのことが知れたら、あの親切な人たちに、危害が及ぶかもしれないし」
「承知しております。あたくしが誰よりも口が堅いことを、よもやお忘れでは。姫さまがもう二度とあの人々と会わないとおっしゃって下さっている限り、誰にも口外はいたしません。姫さまがこれ以上悲しむようなことは、したくないのでございます。産まれてすぐにお母様と離れ離れになり、姫さまがどんなに心を痛めて過ごされていらっしゃるかは、このクローノがよくわかっております。姫さまには、ヨールランド王国で、いや、世界中で誰よりも幸せになっていただきたいのです」
「クローノ。ありがとう。じゃあ、湯浴みの用意をしてちょうだい。クローノの言うとおりにするわ。そして……」
「そして、何でございますか?」
クッションから背を離し、背筋がピンと伸びたフリアーヌがベッドに座ったまま目を輝かせて言った。「オルトにお願いするの」と。
「お願い、でございますか?」
「ええ、そう。この古いお城から出してって。お母様のいらっしゃる、ヨール城に連れて行ってって、頼んでみる。だって、ヨールランドには子どもの命を奪う恐ろしい疫病が流行っていて、わたしもその疫病にかかって。それでわたしはここに連れてこられていたのでしょ? 国王であるお父様は、とても信心深い方で、王家専属の薬師に、誰にも知られぬ場所でフリアーヌが大人になるまで養生させるがよいと言われ、その指示に従った。そして、その間、お父様がわたしに触れたり、わたしを見たりすれば、たちまち国が滅びることになると……。ならもう大丈夫。だってわたしは、こんなに元気だし、もう立派な大人だわ。村人たちの中には、十六で結婚してる人もいたのよ。とてもかわいい赤ちゃんを抱いていた。なら、もうお母様のいるお城に帰れるはずよね? いつまでも、こんな森の奥深くに隠れていなくてもいいはずよね?」
「ひ、姫さま……。でも、まだ戻るには、その、早いかと……」
「どうして? そんなの、おかしい。ねえ、クローノ。本当のことを言って。もう何も知らないふりをするのは疲れたの」
フリアーヌはひざに掛けてあった薄布をはぎ、ベッドから出て立ち上がった。
そして、いつの間にか成長してクローノより頭一つ分ほど大きくなった位置から彼女を見下ろし責める。
「姫さま、何も知らないふりって。別に、隠していることなど、ありま……せん」
「クローノもオルトも、わたしを子ども扱いするのは、もう辞めて欲しいの。村人の噂話も耳にしたわ。その時はあまり理解できなかったけど、今ならわかる。だから本当のことを教えて欲しいの!」
「姫さま!」
「ねえ、お願い。クローノも一緒に頼んでちょうだい。わたしがお母様のところに戻れるように、オルトにお願いして」
「姫さま……。あたくしは、何も。本当に、何も知らないの……です」
クローノは硬く目をつぶり、震えながら知らないと言い続けるが、やっぱり何か隠しているような空気が漂う。
村人たちは言っていたのだ。ヨールランド王国で十七年前に疫病など流行った事実はないと。そして、姫が誕生したという噂が流れたものの、すぐに原因不明の病で亡くなってしまったと。
もしその噂話が本当なら、フリアーヌはすでに死んでいて、この世に存在しないことになる。
その上、国王はひどい暴君で、村人たちをはじめ、多くの人々がその悪政に苦しめられているとも聞いた。
フリアーヌは真実が知りたかった。
この古城で人目を避けて暮らさなければならない本当の理由を知る時がまさに今なのだと、直感でそう思った。