1.フリアーヌ
湖は、まるで森中のすべての光を集めたかのように眩く輝き、湖面の小波にいつしか心地よく酔わされていく。
木々はその梢を優しく揺らし、この世の生きとし生けるものをわけ隔てなく招き入れる。鳥が羽を休め、リスたちが集い、人には憩いの場を与える。
足元のクローバーの絨毯の上を、ひときわ甘い風が走りぬけ、重なり合った三枚組みの葉がさわさわとかすかな音を立て、群れてなびく様は、誰でも目を奪われることだろう。
フリアーヌは足首に触れる露の冷たさに身震いをしながらも、そのひとつひとつの自然の営みがどれも愛おしく、クローノの呼ぶ声など全く気に留める様子もない。
「姫さま……。姫さま! そろそろ参りましょう。でないと……」
「でないと、森の精霊がわたしをさらって行くと言うのでしょ? クローノったら、いったいわたしをいくつだと思ってるのかしら。そんな脅しがまだ通用するとでも?」
「じゅう……十七でございます」
「そうよ。もう子どもじゃないわ」
「ええ、ええ、あたくしが夫のもとに嫁いだのは十六。ですから、姫さまがもう十分大人でいらっしゃいますことは、このあたくしが百も承知いたしておりますわ。では何と申せば姫さまはあたくしの言うことを聞いてくださるのでしょうか?」
本来は愛くるしい人の良さそうな目をしているクローノが、フリアーヌに懇願の眼差しを向ける。
「あら、そんなことないわよ。いつだってクローノの言うとおりにしてるじゃない」
「姫さま……。いつだってというところは、訂正をお願いいたします」
「そんなこと、どうだっていいじゃない。ただ、今日は……。もう少しだけ、ここにいたいの」
「姫さま、お言葉ですが。昨日も一昨日も。いつもそのようにおっしゃってますが……」
「そうだったかしら? でもそんなこと言ったって、森がわたしを呼んでるいるんだもの。こっちよ、こっちよって、わたしを招き入れてくれるのよ」
「姫さま、お願いですからそんな我がままをおっしゃらずに。いつまでもこんなところにいては、危険でございます」
「危険なんて、何もないわ。その証拠に、今まで、ずっと大丈夫だったでしょ?」
「それはあたくしが、ちゃんとそばについて、姫さまをお守りしているからです。仮にも、この森に姫さまがこうやって身を隠していらっしゃることは、国王陛下ですらご存知のないこと。妃殿下であられる、姫さまのお母様とのお約束は、このクローノが命に代えてでもお守りする所存でございます。ですから、どうか、あたくしの言うことを聞いてくださいませ。ああ、姫さま、お願いでございます、うううっ……」
「また、泣き落とし? ほんと、しょうがないわね。わたしがクローノの涙に弱いって知ってるくせに。でもクローノもいけないわよ。わたしのことを姫さまって呼んだらだめだって、いつもここへやってくる、もじゃもじゃ髭の仕官隊長に叱られてるじゃない」
「それはそうでございますけれど……」
両方の指先を合せてごそごそと動かしながら、クローノは口ごもる。
「手紙でお母様が言ってくださるみたいに、フリアって呼んでよ。それならわたしだって、クローノの言うとおりにするはずよ」
そう言ってフリアーヌは透き通るような頬をふわりとピンク色に染めて、再びクローバーの上を裸足で駆け出した。
「ひ、姫さま! いや、そうでなくて……フリアさま。フリアお嬢さま。お願いですから戻って来て下さいませ」
クローバーに足を取られ身動きが出来ないクローノは、どんどん離れて行くフリアーヌを恨めしそうに見ていることしかできない。
「ふふふ……。クローノもこっちにいらっしゃいな。とてもいい気持ちなんだから! そんな堅苦しい靴なんて脱いで、さあ、早く!」
「む、無理でございます。フリアお嬢さま。お願いですから、もうこれくらいにして、どうかお戻りください。姫さまともあろうお方が、なんて格好で。ああ、こんなところを、もし妃殿下に見られでもしたらと思うと、胸が苦しくて……」
フリアーヌの気性など、とっくに知り尽くしているクローノは、両手を空に向け、もうお手上げとばかりに首を横に振る。
そして、彼女の言うとおりに靴を脱いで手に持ち、転ばないように注意をしながらフリアーヌの後をよたよたとついて行った。
尚も木漏れ日の差し込むクローバーの緑に戯れるフリアーヌに、クローノは言いたくも無い小言を続ける。
「あと少しだけでございますよ。決してこれ以上先に行かないでくださいませ。わかりましたね、姫さま!」
「姫さまじゃなくて、フリア! 何度言ったらわかるの? もう少ししたら帰るから、クローノは先に帰ってて。わたしは大丈夫。ここより奥には絶対に行かないから」
「はい、承知いたしました……って、フリアお嬢さまを一人を残して、あたくしだけ帰るわけにはまいりません。ここで、ちゃんと見張っておりますから。ええ、そうですとも」
クローノは、慣れない素足をもそもそと動かしながらその場に立ち、フリアーヌから一瞬たりとも目を離すことはなかった。
フリアーヌはそんな生真面目なクローノを遠巻きにしながら、湖面に映る自分の姿を、じっと見ていた。
「フリアお嬢さま……。危のうございます。あまり、湖に近付きませんように……」
クローノの声が森の風に乗って、フリアーヌの頭上を通り過ぎていく。そんなことはお構いなしに、より一層湖に身を乗り出し、そこに映った自分に向き合った。
意志の強そうなくっきりとした眉に、常に笑みをたたえているように見えるピンク色の小さな唇。そしてなんと言っても、古城の屋根裏部屋にある肖像画の女性に生き写しの、大きく見開かれたはしばみ色の瞳。
その人が自分の母親であり、このヨールランド王国の国王の后でもあるというのは彼女もすでに知っている。
ただし、フリアーヌはまだ一度もこの母親に会ったことはない。今彼女が暮らしている古城にあるあの肖像画のみが、母を知る唯一の手がかりだった。
「お母様。わたしは、いつまでここにいればいいのですか? どうしてお母様と一緒に暮らせないのでしょう。お母様ってどんな香りなのかしら。甘いフリージアのような香り? それとも、薔薇の香料の入ったシャボンのような香りがするのかしら。一度でいいから、お母様の声が聞きたい。白くてしなやかなその手で抱きしめてもらいたい。ああ、お母様、お母様……」
フリアーヌは、いつも自分の姿をまだ見ぬ母親に重ねながら、一人むせび泣くのだった。
読んでいただき、ありがとうございました。
そばにいて、以来、約五年ぶりの新連載になります。
この物語を書き始めたのも五年前。ようやく連載の運びとなりました。
ゆっくり更新になりますが、またお立ち寄りいただけると嬉しいです。
訂正があります。
ヨーランド王国→ヨールランド王国