吾輩はシロである
昔は子供だった大人たちへの童話です。
吾輩はネコである。
名前はまだない。
ネコといっても数百年の間、生きてきた化け猫である。
主を持たず気ままに生きるのがネコの性分というもの。
今日も、食料を調達するために気ままに旅をする。
「あら~、シロちゃん。おいで。」
1人の老婆が呼びかける。
最近、今にも壊れそうな、この古いアパートに引っ越してきていた。
手には白いものを持っている。
魚の練り物のようだ。
仕方が無い。少し相手になってやろう。
老婆は吾輩を持ち上げると抱きかかえ昔話を始めた。
吾輩は温かな陽が降り注ぐ中、老婆の話しなぞ聞かずに居眠り。
起きると寒さに身体を震わせた。
夏も終わり、陽が沈むと肌寒い季節だ。
老婆は、まだ話を続けている。
アパートに丸い身体の中年女性がやってきた。
「田中さん。こんにちは。」
老婆が挨拶する。
田中さんはなぜか困った顔をしたあと笑顔を見せた。
「ご飯の準備をしますからね。」
田中さんは部屋の中に入り、料理を始めた。
台所から良い匂いがしてくる。
「シロちゃんも、ご飯食べて行くわよね。」
老婆が吾輩の身体を撫でる。今日はここで夜の食事をすることに決めた。
あくる日、吾輩は再び老婆の家を訪ねた。
こうやって時折、顔出すことは生きて行く中で必要だ。
老婆が魚の練り物を手のひらに乗せて、吾輩を呼んでいる。
しかたない。今日も話し相手になってやろう。
老婆の膝の上で昼寝をしていると、アパートの前に車が停められた。
車の中から、きっちりとしたスーツの若い男が降りてきた。
眼鏡が陽射しを浴びて光っている。
「こんにちは。おばあちゃん。」
スーツメガネは人当たりの良さそうな笑顔を見せる。
吾輩はなんとなくこの男が気に入らなかった。
人間社会でいう、お役所特有の臭いがぷんぷんする。
吾輩は老婆の膝から降り、その場から離れた。
「あんたが来たから、シロちゃんが行ってしまったやろ。」
老婆が先ほどまでの穏やかな表情から険しい表情でスーツメガネに怒鳴っていた。
スーツメガネは少し寂しそうな表情を見せながらも笑顔で老婆をなだめている。
ふっふっふ。
スーツメガネめ。いい気味だ。
しかし、今日は食事はどうしようか。
どこかで、適当にありつけるだろう。気ままに歩いた。
目の前に、少女が1人で遊んでいた。
「あ、タマ。」
少女が無邪気な笑顔を見せる。
仕方ない。今日は、この少女と相手をしてやるとしよう。
時は流れ、風が冷たい季節になっていた。
老婆はいつものとおり庭を眺めて座っている。
吾輩は気になって老婆の隣にゆっくりと歩み寄った。
「シロちゃんかい。」
老婆は吾輩をヨロヨロと立ち上がった。
「田中さん。シロちゃんにご飯を。」
田中さんが丸い身体から短い首を伸ばして吾輩を見るとにっこりと笑った。
しばらくして、焼き魚が出てきた。
冷えていて頭が付いていないが、まあ良しとしよう。
老婆は吾輩が食べているのを見つめている。
「田中さん。私のご飯はまだかね。」
「え?」
田中さんが困った顔を見せた後、笑顔を見せた。初めて見た時と同じ反応だ。
部屋にあるテーブルには2人分の汚れた食器が既にあった。
「はいはい。待ってて下さいね。」
田中さんは台所に向かい、饅頭を持ってくると老婆に渡した。
老婆は饅頭を半分ほど食べて満足したようだ。
「田中さん。早く学校に行かないと先生に怒られる。」
「じゃあ、ちょっと、出ましょうか。」
田中さんは笑顔を見せていたが、その丸い後ろ姿は疲れの色が濃く出ている。
吾輩は老婆と田中さんに着いて行った。
老婆は杖を突きながらヨロヨロと歩いては立ち止っている。
「ここを真っ直ぐ行くとね。
桑畑があってね。
そこを真っ直ぐ行くと学校。
校門に先生が立ってて遅れると怒られるから先に行くね。」
老婆は吾輩にそう言うと一歩、一歩ゆっくりと歩いて行く。
老婆が行く道の先には桑畑など無い。
コンクリートで舗装された道が続いているだけだ。
その日、吾輩は老婆に付いてやった。
老婆は結局、アパートの周辺を歩いて帰ってきた。
疲れたのかすぐに眠ってしまった。
それから数日後、老婆の家にスーツメガネがやって来た。
老婆は車に乗せられどこかに出かけて行った。
次の日も、そのまた次の日も老婆は、あの古いアパートに戻ってこなかった。
季節は変わりに桜が咲いていた。
吾輩は、食事を出来る場所を探して歩いていた。
同じところを続けて利用しないのが吾輩の流儀だ。
今日は少し離れたところまで来た。
「シロちゃん。」
呼ばれた気がした。
舗装された道が、砂利の混じった道に見えた。
その左右には桑畑が広がっている。
三つ編みの奥ゆかしい少女が頭から手を離すと、道を走っていった。
その先には木で出来た校舎が見える。
思い出した。
老婆の言った通り、桑畑と学校はあったのだ。
ただ、60年も前の話である。
ということは、あの可憐な少女が、よぼよぼの老婆になったのか。
時が過ぎるのは残酷だ。
吾輩は次の日、老婆のアパートを訪れた。
アパートには田中さんとスーツメガネが居た。
老婆は居ないのかと近づくとスーツメガネと目が合った。
吾輩が威嚇しているとスーツメガネは缶詰を取り出した。
スーツメガネは嫌いだが、我慢して缶詰を食べることにした。
「おまえ、シロだろ。ばあちゃんがお前のこと心配してたよ。」
家の中を見ると田中さんが段ボールに荷を入れている。
段ボールは数箱にもなっていた。
「お前が居てくれてよかったよ。」
スーツメガネが吾輩を撫でてくる。
缶詰が無くなるまでは我慢して撫でられてやることにした。
「ばあちゃん。俺や母さんのことも忘れてしまっても、
お前の事だけはしっかり覚えていたもんな。」
スーツメガネの足元に染みが出来ていた。
季節外れの雪が降っている。
吾輩は自分に、そう言い聞かせた。
「まあ、ばあちゃんにとって、ネコはみんなシロなのかもしれないけどな。」
スーツメガネはメガネをかけ直すと部屋の中に戻り田中さんの手伝いを始めた。
ここで食事をするのも、これで最後だろう。
吾輩は、ゆっくりと缶詰を食べた。
スーツメガネは段ボールを車に乗せ終わると吾輩の前に屈みこんだ。
「シロ。お前、うちに来るか。」
吾輩は迷わず、スーツメガネに背を向けた。
吾輩は主を持たず気ままに生きる。
それに、スーツメガネとは性格が合いそうにない。
少し歩いて振り返ると、スーツメガネは苦笑しながら見ていた。
吾輩はネコである。
名前はまだ無い。
ただ、シロと呼んでいた人がいた。
そして、シロと呼ぶ人が新しくできた。
吾輩はタマである(http://ncode.syosetu.com/n1225bn/)