迷走の剣(1)
「ああ、それなら理由は簡単です。あの子、レティシアは今、大会中ということで気が立っているんでしょう」
「大会中?」
大和橋、二朱判線の地下街で出くわした騒動から一夜。
普段通りの五人の面子。即ち、
東真に撫子。純花に紅葉。そしてレリア。
その五人による狭苦しい昼食の席で、昨日の出来事を問うた撫子に対するレリアの返答がこれだった。
「わたくしはとうに辞めていますが、あの子は今、鈴ヶ丘フェンシング部のエースです。双肩にかかるプレッシャーから、どうしても精神が不安定になってしまうんですよ」
「それはまあ分からないではないけど……にしたって、どう見ても大丈夫とは言えない雰囲気だったわよ?」
「そうはおっしゃいますけれど、現にレティシアは丸腰のゴロツキ相手に剣は抜かなかったのでしょう?」
「うん……まあ……」
「それが証拠です。本当に正気を失っていれば、抜刀してしまうのが剣士の性。そこを堪えて抜かず、素手だけで済ませたんですから、理性はまだしっかりしています」
「……理性のある人間の戦いぶりには、とても見えなかったけどね……」
レリアの言い分を聞きつつも、所々で納得しかね、撫子は自分の弁当を箸でつつきながら口を挟む。
とはいえ、
考えれば、今までに感情的な面を見せたレティシアなど見たことが無かった。
彼女の感情表現についての基準が分からない以上、実の姉であるレリアの意見が正しいと判断するのが妥当だろう。
「特に今度対戦する準々決勝の相手……それを思うと、わたくしもあまり冷静ではいられないのが正直なところです」
「お前までか?」
「はい」
「どういうことだ。その準々決勝の相手というのは、そんなに手強いのか?」
今度は相手代わり、東真がレリアと話す。
「わたくしならば別段問題の無い相手ではあるのですが、いかんせん、レティシアはまだまだ未熟。そこを考慮すれば、手強いという表現は当てはまるかと思います」
「ふうむ……」
いつもながら、自分については過剰なほどの自信に満ちたレリアの発言。
だが、その裏にあるレティシアへの心配は本物であろう。
そう聞くと、その対戦相手とやらに、当然の如く興味が湧く。
東真はいつものBLTサンドから包みを剥がしつつ、ふと天井を眺めて対戦相手を妄想した。
「詳しく申し上げるなら、今度の対戦相手は以前、わたくしがまだフェンシング部に在籍していた頃、好敵手とされていた相手です。まあ、その相手が勝手にわたくしのことをライバル視していただけで、わたくし自身は歯牙にもかけていませんでしたが……」
「あんたとライバル関係だった……ねぇ。だけど、あんたとあんたの妹って、そこまで大きな実力差があったっけ?」
「失礼ですね。あんな不出来な妹と一緒にしないでください」
「……あんた、ほんとに自分の妹には容赦が無いわね……」
レリアらしいといえばレリアらしい物言い。
姉妹間のことは他人の身ではうかがい知れないが、レリアのレティシアに対する厳しさは時にレティシアが気の毒にすら思える。
その自覚がまた、レリアにはどうも無いように思えるだけに、余計である。
しかし、
「ただ……」
ここで、少し間を置いたと思うや、レリアはランチバックを開けつつ、言葉を次いだ。
「正確なところを言えば、相性という面も大きいとは思います。御存じの通り、レティシアはあの体格。他の競技ならいざ知らず、フェンシングという競技性を考えると、不利は避けられません」
「あー……先に突いたほうが勝ちって勝負だもんねぇ。的が大きければその分、相手には有利になっちゃうかぁ」
「その通り。ですので、わたくしは普段からレティシアにスピードの強化を課してきました。その効果は随分と出てきてはいるのですが、それでも……」
「まだ相手のほうが一段上って感じ?」
「ですね。加えて、相手は名うての駆け引き上手。レティシアはお世辞にも勝負の駆け引きが上手いとは言えない子です。そこも含めて、総合では相手がかなり上をいっていると言わざるを得ません」
改めて詳細を説明された撫子は、レリアの話に今度は納得し、弁当の卵焼きを口に運ぶ。
相性というのは残酷だ。
単純な実力差とは別の、埋め合わせ難い壁。
これひとつで勝負が決してしまうことが珍しくないだけに、辛いところである。
などと、
東真に撫子が、各々に異なった考えを巡らしていると、
「あ、そういえば」
レリアが一声。
「その対戦相手、確かわたくしと同じく手練者リストに載っているのを思い出しました。紅葉さん、今日は手練者リストをお持ちですか?」
急に言われ、口に箸を突っ込んだまま、紅葉が目を丸くする。
しばしあって、
紅葉は口の中のものを急いで飲み込むと、焦るようにして答えた。
「ああ……はい。手練者リストだったら、確か……」
そう言い、机の横に掛けたカバンの中を物色する。
「あ、ありました」
「よかった。ではよろしければ、外国人枠のページを見ていただけますか。そこの、聖バウムガルト剣学院の手練者を見てください。わたくしの記憶が確かなら、鈴ヶ丘と同じく、あそこも手練者はひとりきりのはずですので」
「ええと……外国人枠で聖バウムガルトということは、鈴ヶ丘フェンサーズスクールと同じくミッション系ですか……」
言いながら、紅葉はページへ目を通してゆく。
手練者リストの外国人枠というのは、限定して日本に帰化した外国人のみを掲載している。
そのため全国規模とはいえ、決して数は多くない。
すぐに目当ての人物は見つかった。
「これ……ですね。聖バウムガルト剣学院二年の女子で、エミリエ・イステル。日本名は石取エミリエ。帰化以前の国籍は……ドイツ?」
「それです」
言うと、レリアは紅葉の持つ手練者リストの端を、ぐっと押し下げ、ちょうど机に座った五人全員が見えるように示す。
「ご覧になってください皆さん。これが今度、うちのレティシアが対戦する相手。小賢しげな剣を使う、面倒な剣士です」
その言を合図のようにして、
東真、撫子、純花が覗き込んだ。
載っていたのは、
なるほど、
紅葉の言っていた通りの、完全な外国人。
正確には元ドイツ人。
バストアップの写真で分かるところは、
柔らかそうな巻き毛のブロンド。
長さは首にかかる程度。
顔はいかにもな白人といった風だったが、碧眼の違和感を除けば、妙に親しみやすい顔をしていた。
ぱっちりとした目元に、どこか柔和な印象を与える独特の雰囲気がある。
「これが……言うほど厄介な相手……?」
疑わしさも露わに、撫子が声を上げる。と、
「見た目で軽々しく判断するなササキ。容姿と業前は必ずしも一致するとは限らん」
「そうですよ。油断は大敵。実際に対戦した秋城さんがおっしゃっているんですから、腕前のほどは確かと見ていいはずです」
すぐに東真と純花から突っ込みが入った。
限られた情報だけでものを決めつけるのが如何に危険かを知っているがゆえの注意。
ではあるが、
そう言っておきながら、東真も純花も、心の中では撫子と同じような疑問を抱いていた。
確かに、見た目からは実力が伝わってこない。
穏やかというか、大人しそうというか……。
そうした印象ばかりが先行しすぎていて、思考では(見た目と実力は別物)と考えはするが、気持ちではそういかない。
人は見た目によらないというのは、現実に見て始めて言える台詞である。
「まあねぇ……紅葉だって剣を持たなきゃ全然、斬人だなんて思えないような顔しているわけだし、言ってることは分かるけどさ……」
「……私を比較に出されても困るんですけど……」
「何言ってんのよ。あんたほど見た目と実力にギャップがあるのなんて他にいないでしょ」
「……自分では、よく分かりません……が、この石取という人物の腕前については、私も保証しますよ」
「あら、それはあんたの斬人ならでは情報?」
「はい。石取エミリエは、聖バウムガルトの中等部時代からすでに頭角を現しています。競技の範疇とはいえ、フェンシング全国大会で過去に三位以下の順位になったことはありません。優勝経験は去年の大会での初優勝のみですが、手練者の条件としては十分な実績ですね」
「……優勝は、去年の一回だけ?」
「その通りです。今までも毎年、いいところまではいっていたのですが、大体が準優勝。理由については恐らく、秋城さんがよくご存じなのでは……?」
そう言って、紅葉は話していた撫子から視線を外し、レリアを見る。
それへ釣られるようにして、撫子もレリアを見た。
ただし、
レリアは何も語らない。
静かに目を閉じ、ペットボトルのジャスミン茶をすすっている。
その代わり、
そうした沈黙が、おのずとすべてを語る。
レリアがフェンシングを辞めたのと同時期の優勝。
つまりは、エミリエにとってレリアはまさしくライバルだったわけだ。
再三あった優勝のチャンスを阻んだ存在。
それがレリア。
ということは、
エミリエはレリアほどでないまでも、それに近しいほどの実力は持っているものと考えていいだろう。
数少ない、西洋剣術の実力者。
レティシアのことを思わずとも、この珍しい手練者に対する興味は東真らの胸をくすぐった。
どういった人物か。
どんな剣を使うのか。
人の好奇心とは、まことに際限が無い。