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プロローグ(3)


「うー……せっかくお茶飲んであったまったと思ったのに、これじゃあまたすぐに凍えちゃうわね……」

店を出ると同時にふたりを襲った強烈な寒風に、撫子は身をよじりつつ、うなるように一声、恨みがましい言葉を吐く。


口こそ開かなかったが、東真もこれには同意した。


空は曇天。

風は強く、しかも身を切るように冷たい。


季節がらのせいと分かっていても、悪態ひとつくらいは口から出る。

特に、暖をとった直後となると、自然現象にも悪意を感じてしまう。


「仕方ない。今日は予報でも相当冷えると言っていたしな。文句を言う暇で、さっさと地下鉄まで向かったほうが利口だろう」

「賛成。ああ……地下街のあったかさが恋しいわぁ……」

東真たちの住む央田川おうだがわ地区からは、ここ大和橋まで地下鉄一本でこれる。


橋向こうの深花駅ふかはなえきから地下鉄、二朱判線にしゅばんせんに乗り、五駅も行けばすぐ大和橋駅である。


二朱判線の大和橋駅は地下から老舗百貨店と繋がっており、大きな地下街が広がっているために、そこへの買い物客には甚だ便利だ。


通りに出て、用事を済ませなければならない東真たちのような人間以外にとって、ことが電車の往来だけで終えられるのはこうした時期には特に有り難く、客足も多い。


それだけに、寒空を渡り歩いてきた東真たちには、この地下街が恋しくすら感じられた。


もちろん電車から降りれば、深花駅から残りの帰り道は徒歩なのに変わりないが、途中経過は重要である。


思い、東真も撫子も揃って知らぬ間に足が早まった。

人こそ多いが、この時期の大和橋中央通りは歩行者天国なので、大した不便は感じない。


思うように大通りを横断すると、目的の地下街に続く下り階段へ達し、早々に下りてゆく。

内外の気温と気圧の差から、階段を下っている間にも心地良い熱気が立ち上ってきて、全身を包む。


地下街……特に、地下鉄に独特の熱せられたコンクリートと鉄の匂いに、若干のカビ臭さと人いきれの臭気が混在し、鼻をつくが、不快には思わない。


むしろ、安息感から声すら漏れそうになった。


そうこうし、

到達した広い地下の通路は、外とはまた違った喧噪が響き、なんとも賑やかである。


「はー、ほっとするねぇ。やっぱ、この時期に暖房は必須だよ」

「暑さ寒さ程度で音を上げるなど……と、言いたいところだが、そこは同意せざるを得んな。身に応える寒さを味わった後だと、さすがに暖の有り難さか身に染みる」

珍しくも、こうした受け答えで東真からの同意を聞き、撫子は少しばかり得意そうに笑う。


人間、辛いものは辛い。

士道とは本来、分かりやすい言い方をすれば「やせ我慢」の文化だ。


嫌なものも嫌と言わず、辛いことも辛いと言わず、ただ一心に忍の一文字。


それが士道に特有の美学であるとは理解しているが、とはいえどこからどこまでを許容するかは人それぞれ。

現実的に考えれば、東真と撫子は半々に割ると、ちょうど当世向きになるようにも思える。


何事も匙加減が大事ということである。


などと、

取り留めも無い思考をしつつも、東真と撫子は暖かな地下道を歩く。


ここの地下通路は他線への乗り換えにも用いられているため、非常に広い。

単純に、端から端でほぼ平均的な駅のひと駅分くらいの長さがあるため、これが外の寒空の下だったとしたらと思うと、ぞっとしてしまう。


華やかな百貨店の地下街を横目にし、さらに進めば二朱判線の券売機が並ぶ場所へ出る。

あとは切符を買い、さらに階段を下りてホームに出るだけ。

そうなれば、ほぼ用事は終わったようなものと、さしもの東真も気を抜いていた。


ところが、

事件はそんなタイミングで起きる。


先ほど通り過ぎた通路の真ん中あたりで、何やら大きな怒鳴り声が聞こえたかと思うや、周囲がざわつき始めたのである。


即、東真は後ろを振り返り、


「……何事だ?」

言って、撫子と顔を見合わせた。


「さあ……でも、なんかケンカっぽい感じかな……?」

「ふむ……」

意見は一致を見た。


問題は行動。


正直を言うと、

東真はいつになく、この騒ぎに妙な好奇心を起こしていた。


何故かと言われると難しい。

どうしたものか、

いつもならこうした騒ぎは他人事と割り切り、変な野次馬根性は出さないはずの東真が、この時に限り、不思議と興味をひかれて仕方がなかった。


後になって考えると、それもまた何かの縁だったのだと知ることになるが、この時は単に東真は自身の下衆な好奇心(あくまでも、それは東真の価値観によるものだが)を如何に制したらよいかと、悩ましく券売機と事件の起きていると思しき場所へ、交互に視線を巡らせた。


すると、

そんな東真の様子から、彼女の興味に勘付いたらしく、撫子は、少しいやらしい目つきをして東真の顔を横から覗き込むと、


「なによう。誰かさんのケンカに興味持つなんて、あんたにしては珍しいじゃないのさ」

ニヤつきながら、そう言う。


「い、いや、違うぞ。どうも……なんだ、こう、まだ早いうちから何事だろうかと、ちょっと思っただけであって……」

「言い訳してんじゃないわよベニアズマ。見たけりゃ、素直に見物すればいいだけのことよ。ほら、一緒に行ってあげるから覗いてみましょ」

「あ、おい!」

言うや、撫子は東真の手を掴むと、言葉も聞かずに騒ぎの場所へと引いてゆく。


対して、東真は口でこそ反抗していたが、止むところの無い好奇心には勝てず、言った言葉の正反対に、ほとんど抵抗もせず、撫子に引きずられて現場へと向かう。


しばらくして、

我関せずを決め込み、無視して素通りしてゆく人々を掻き分けて進んでゆくと、野次馬で形成された人垣が現れた。


人垣の隙間から見える様子からして、当事者は東真たちとさほど変わらない年頃の女子が三人と、五人の若い男。


女子のほうはそれぞれに東真たちと同じような収納ケースを肩に掛けているところからして、士道学校の生徒らしい。

男たちはといえば、いかにもチンピラといった風体。


五人の男は、女子三人を囲んで立ち、何やら双方で言い合いをしているようだが、女子のほうの声は半分、泣き声のようにも聞こえる。


何にせよ、

思わず、


「あの……」

東真は、手近の野次馬のひとりの婦人へ声をかけ、


「一体、何があったんです?」

ことの成り行きを聞いてみた。


と、

人垣の一部だった婦人は振り返り、まるで堰を切ったように東真へ仔細を語り出した。


「あら、いえね、私も最初から見てたわけじゃないんだけど、どうやらあの女の子たちの荷物が、ああして囲んでる男たちの肩に当たったらしいのよ」

「……肩に荷物が……?」

「そうそう。で、女の子たちはちゃんと謝ったんだけど、そんなんじゃ済まされない。土下座して詫びろとかって、あの男たちがねえ……」

「それは無体な……」

「でしょ。でも相手が大の男五人となると、なかなか間に入って助けてくれるような人も出てこなくって、私もやきもきしてるのよ」

「むう……」

婦人の話に、東真も低くうなる。


悲しいかな、復古主義によって士道が復活したこの時代にあっても、こうした不心得者は後を絶たない。


完全な秩序などというのは土台、理想であり、絶対数こそ減っても、こういう輩は必ず存在し続ける。


石川五右衛門の詠んだという辞世の句ではないが、「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」ならぬ、「世に悪人の種は尽きまじ」といったところか。


大小や多少の差異はあろうと、どんな時代も悪人がいないということは有り得ないのである。


そうした中、

東真もまた、どうしたものやらと考え、撫子に相談しようと後ろを振り返って、


「おいササキ。聞いての通りだ。はて、どうしたものだろうか」

そう問うた。


のだが、

東真は自分の問いが、撫子にはまったくもって無意味なものであったことを知る。


振り返って声を掛けたその時、

撫子はといえば、

肩に掛けていた収納ケースを開け、今にも中から剣を取り出さんとしていたからである。


これを見るや、さすがの東真も慌て、すぐに撫子の右手を引っ掴むと、無理に剣をケースの中へと戻させた。


「バ、バカかお前は、一体何をしようとしてる!」

「何よ。なんもかんも無いでしょうが。今すぐあのゴロツキ連中、軽く痛めつけてやろうかと思って剣を……」

「だから、それがバカだというんだ!」

撫子としては、撫子なりに事態の対処をと考えての行動だったのだろうが、いかんせんそれは許容できる行動ではない。


止める東真も必死だ。

そのため、明らかに不満そうな顔をした撫子へ、それでも東真は言葉を続ける。


「いいか。相手は確かにろくでもない連中だ。そこは間違い無いだろう。が、あくまで相手は丸腰の一般人。剣を抜いて向かおうなど、言語道断だ」

「でも……」

「一般人へみだりに剣を振るうは士道不覚悟そのもの。お前だって分かってるはずだろう」

「……」

東真の言い分に反論できず、さしもの撫子も無言になってしまった。


一般に勘違いされているところが多いが、その昔、武士が町民などに対しておこなったものと言われている(無礼討ち)というものは、必ずしも一般に知られるような(切り捨て御免)とはかけ離れている。


武士に対する非礼の度合いが切り捨てるに足るほどであったか。


そうした部分はよくよく調べ上げられ、もしもそれが正当と判断されなければ、切腹や家名の断絶といった重い処罰が下された。


実際に当時の事例を調べれば、よほどのことでもない限り、武士が町民に刀を抜くなどということは無かった。


無礼討ちするというのは、武士にとっても命懸けの行為であり、そう簡単なことでは刀を抜くわけにはいかなかったというのが現実である。


ゆえに、武士にとって刀を抜くという行為は、刀を交える以外の理由でも命懸け。

これぞまさしく、武士の持つべき覚悟。

転じて、軽々に剣を抜くのは士道不覚悟となり、処罰の対象となる。


大きな権利には、それに見合った義務と責任が伴うという、典型的事例と言えるだろう。


さて、

そんなやり取りをしていたところで、目の前の問題は解決するわけではない。


考え、東真は言葉を次いだ。


「言っておくが、私もあの連中を懲らしめるに、やぶさかではない。が、剣は無しだ。あの娘たちを助けるというなら、素手でかかることになるぞ」

「えー、素手ぇ……?」

「そう面倒そうな顔をするな。剣だけでなく、体術もこなしてこその兵法。お前だって、それなりには出来るだろうに」

「そりゃあ、出来ないわけじゃないけど……」

「ないけど、なんだ?」

「どうも、生身で投げたり打ったりってのは、まどろっこしいのよ。剣でぶった切れば一発で済むわけだし……」

「こんな時に、下らん文句を垂れるな!」

状況を考えない撫子のわがままへ、東真は小声で一喝し、自分の肩からケースを下すと、撫子へ押し付けた。


「もういい、私がひとりで片付けてくるから、お前はここで待ってろ!」

「ちょ、ちょっと東真、別にあたしも、やらないとは一言も言ってない……」

痺れを切らして、ひとり向かおうとする東真に、慌てて撫子が続こうと、


した、その刹那、


「がっ!」

奇妙な叫び声が上がる。


何事かと思い、瞬時、言い争いを中断した東真と撫子は、声の下方向へと目を向けた。


そこは、

まさに今、向かおうとしていた騒ぎの只中。


野次馬に囲まれた人垣の中心。

気付けば、辺りは今までとはまた違った様子で騒然としている。


「な……何、今の変な声……?」

何が起きたのやら事態が飲み込めず、困惑して撫子は切れ切れの声を発した。


のを無視し、

東真は素早く人垣へと走り寄ると、野次馬を掻き分け、中で何が起きたのかを目で確認しようとした。


そうして、

見えたのは……、

なんとも驚かされる光景。


それとも奇々怪々な光景と言うべきであったろうか。


まず驚いたのは、

ここに、この場に、

秋城レリア(あきしろ れりあ)の妹、レティシアの姿があったことである。


姉とは似ても似つかぬショートの黒髪と、童顔の無表情な顔立ち。

それに釣り合わない、180センチを優に超え、190に近い、堂々たる体躯。

異常なほど特徴的なその容姿は、見間違うということを根本的に許さない。


ただ、

気になる部分はそこだけに止まらない。


先ほどした妙な叫び声。

その正体をも、レティシアは教えてくれていた。


彼女の右手。

それが、

五人いたゴロツキたちのうち、ひとりの頭をがっちりと掴み、近場にあったコンクリート製の柱へ、ほとんどめり込むほどに叩きつけていたのである。


男は受けた衝撃が強すぎたのだろう。

叫び声も満足に上げる暇無く、顔を柱とレティシアの手との間で押し潰されて、完全に意識を失っているように見える。


突然の出来事。

そのせいか、

周囲は露の間、沈黙に支配された。


だが、ほどなく。


「な、なんなんだテメェッ!」

残った四人のチンピラ連中からひとりが、ようやっと絞り出したようにしてレティシアへ怒声を浴びせた。


ところが、

次の瞬間、


「ぶっ!」

またも奇妙な叫び声が響く。


今度はレティシアが、怒鳴りつつ向かってきていたその男の横面を、空いた左手で思いっきり殴り飛ばしたのである。


男の受けたであろう衝撃は想像以上。

元より、レティシアの剛腕ぶりは先の戦いで確認済みだが、それにしても凄まじかった。


大の男が、殴りつけられた勢いで壁へと激突すると、ばっと散るようにして舞う鼻や口からの血飛沫とともに、そのまま床へ昏倒してしまった。


そこでようやく、

レティシアは右手で握り潰さんばかりにしていた男の頭から手を離すと、その男もズルズルと柱にもたれかかるようにして倒れる。


柱に、なすりつけたような血の跡を引いて。


ここで再びの沈黙。

周囲が気づき出した。


人垣の野次馬も。

中央で固まっていた三人の女子も。

残ったゴロツキたちも。

レティシアの、無表情な顔の中で一点、見過ごしてはいけなかった部分を。


目が、

怒っている。


表情として出ているわけではないのだが、よほどに無神経な人間でもない限りはすぐさま悟るほどの強烈な怒りが、ぎらついた眼光から滲み出ていた。


これを見たこと。

加え、レティシアのあまりに破壊的な力技によって、瞬く間に屠られたふたりの仲間の様子に戦慄してか、完璧に腰が引けてしまっている。


それでも、

泥棒にも三分の理というわけでもなかろうが、チンピラにも……というより、チンピラだからこそに余計、プライドはあるらしく、残された三人からひとりが、勇敢にもさらにレティシアへと歩みだし、一言、


「こ……こいつ、何してくれて……」

そこまで言ったのだが、

逆にそこが限界。


口を開いて即座、しゃべりだした男に向かい、視線を合わせて一歩、踏み慣らすような一歩で男へと逆に向かってきたレティシアを見て、男たちの対抗心は跡形無く四散した。


おぼつかない足取りで慌てふためき、踵を返すと、囲みの野次馬を掻き分けて男たちは逃げてゆく。


無情にも、倒れた仲間たちは置き去りにして。


そして三度、

場を支配する沈黙。


が、

やおら動き出す。

レティシアが。


自分のした行為などまったく気にもかけず、ゆっくりとその場を離れてゆく。


そこへ、


「……あ、あの……」

女子の声。


からまれていた三人の女子からひとり、レティシアの背後へ立つと、


「あ、ありがとうございます……どうも……」

怯えつつも、礼を述べる。


しかし、


振り返らない。

無視するように、その場を立ち去る。


それを見送ってから、

少しずつ散り散りとなっていく野次馬たちに横をかすめられながら、呆然と立ち尽くした東真と撫子は話す。


「い……まのって……確か……」

「……秋城の……妹だった……な」

「うん、多分……でも……」

「ああ、えらく……鬼気迫っていたようだったが……」

「……何なんだろ……?」

降りかかった疑問に直立したふたりは、長らくその場に留まり、今見たことを整理した。


若い女子たちを不埒な男どもが襲っていた。

それを、偶然に通りかかったレリアの妹、レティシアが助けた。

流れとしてはそう。


なのではあるが、

それ自体には特別、疑問は無い。

広い世の中といっても、たまたま出会うことはある。


問題は彼女の態度。

あのレティシアが、何故あれほどまで感情的になっていたのか。


彼女に何事かあったのか。

東真と撫子の抱いたこの疑問。


これも後日、日を改めて解決されることになるのを、今はまだ、ふたりは知らない。


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