決戦の剣(5)
十四対十でのマッチポイント。
エミリエはあと一ポイントで勝利。
レティシアはあと五ポイント連続で取る以外、勝ちは無い。
この状況で、
レティシアのとった戦法に、
誰もが、愕然とした。
審判の「Allez!」の声とともに、試合が再開された。
その、直後、
レティシアは、
跳んだ。
真っ直ぐ、目の前のエミリエに向かい、剣を立て、急加速した車の如く、
跳び込んだ。
これには、東真も思わず席から立ち上がり、
「バカな、この距離でフレッシュ(突進突き)だと!」
叫びを上げた。
だが、驚いたのは彼女たちばかりではない。
エミリエも泡を喰った。
試合再開直後の至近距離。
それにレティシアの瞬発力を合わせると、すでに突きというより体当たりに近い。
本来のフレッシュは、ある程度、距離が離れているところから捨て身の一撃を入れる意味合いが強い。
無論のこと、事前の計算はおこなうが、突進して突きを入れるという性質上、軌道修正がほぼ不可能であることと、もし動きを先に知られてしまったら、まず軽く迎撃されてしまうため、捨て身技としての認知度が高いのである。
ところが、
これを超至近距離から出すとなると、意味が変わってくる。
通常の突きですら、察知して避けるのは容易でないのに、これを加速して跳躍しながら放つとなったら、反応するのは極めて困難となる。
その証拠に、
エミリエはレティシアのフレッシュをぎりぎりでかわすのが精いっぱいで、ふたりは互いの剣をかわしはしたものの、体を重ね合うように停止して、少ししてから牽制の剣を振るいつつ、後ろへと飛び退って、再び間合いをとった。
そこまでを見て、東真は立ち上がった体を再び席へ落としながら、またも口を開く。
「まずいな……レティシアのやつ、焦ってるからなのかどうか分からんが、あんな近距離から強引にフレッシュなんかを出したら、上手いこと一回くらいは当たるかも知れんが、その前にブスクラー(激突)でレッドカードが出るぞ……」
「いえ……レティシアもそこまでの馬鹿ではないはずですから、Corps a Corps(コル・ア・コル……選手同士の体が接触する)で最悪、イエローカード程度に済ますつもりでしょう。ただ、無茶過ぎる戦い方なのは確かですけど……」
フェンシングでは、選手同士の体が接触するのは場合により、反則となることがある。
これは故意に相手と体を密着させることで、相手からの攻撃を避ける手段として用いられたりするからというのが理由だ。
ただし、よほど悪質な場合を除き、反則まで取られることは少ない。
その代わりと言ってはなんだが、体当たりなどは言い訳のしようも無く反則となる。
少なくとも競技フェンシングに関しては、体をぶつけるのを戦術としては認めていない。
それどころか、これをやってしまうとほとんどはレッドカードで一発退場。
そこを思えばこそ、よりレティシアの意図が掴めない。
これほどの危険を冒してまで、何ゆえにと考えるのが自然である。
「なんにせよ危なっかしかったのは間違い無い。まさかもうやらんとは思うが、もし繰り返し突っ込むようなことがあれば、石取の対策は目に見えてるしな」
「ですね。あの女なら……あの程度の奇襲、二度とは通用しないはずです」
冷や汗の浮かんだ額を拭いつつ、話す東真にレリアも同心する。
当たり前だが、相手は駆け引き上手のエミリエ。
意外を狙っての攻撃だとするなら、まだ納得も出来る。
失敗に終わったことは残念ではあるが、レティシアがこの奇策に万が一にも固執しないことを祈りながら、再開される試合を東真たちは見守った。
が、
再開直後。
その、まさかが起きる。
再度のフレッシュ。
先ほどよりもさらに鋭くはあるが、問題なのは二度目という事実。
これには東真も目を見開いて、
「バカ、それはもう対策されてる!」
せっかく、一度は座り直した席から立ち上がって叫んだ。
しかし当然だが、それは空しく響く声でしかない。
レティシアはもう動いてしまった。
そして、
エミリエは、
先ほどとは異なる構えでそれを待ち受けている。
東真とレリアが危惧した対策。
至近距離からのフレッシュ……飛び込み突きを、突いてきたレティシアの右腕だけ、紙一重でかわし、エミリエは自分の背後へ攻撃を完全にいなした。
その上で、
自分は剣を持つ右手を左の腰へと回し、まるで鞘から抜刀するような姿勢に入っている。
攻撃のために突き出した剣と右手をかわされ、がら空きになったレティシアの右脇腹。
狙いは……そこ!
「退け、切られるぞ!」
この必死な東真の言葉は、悲しいかな、発音されるより早く結果が出てしまった。
エミリエはすでに攻撃を避けている。
とはいえ、ここまで接近した状態で、突きによる攻撃は難しい。
ところがこれが切るとなると、話は別である。
無防備に接近してくるレティシアの腹を、撫でるように切り払える。
エミリエには絶好の機会。
レティシアには最悪の展開。
絶望から、本能的に目を背けてしまいそうになるのを、ぐっと堪え、成り行きを見つめる東真の視界に、はっきりとレティシアの脇腹を目掛けて放たれるエミリエの斬撃が映った。
その瞬間、
無情な音。
得点を示す電子音。
これにて……決まり。
がっくりとうなだれ、席に落ちるようにして腰を下ろした東真は、会場から上がる歓声に目を伏せた。
うかつなことを……。
そう思いながらも、東真はレティシアの心中も理解出来た。
あれだけの局面。
背水の陣で臨んだのも致し方ない。
他に選択肢が無かったろうことも察するに余りある。
あれほどの試合巧者に、よくぞここまで食らいついたと、褒めるべきなのだろう。
途切れた緊張から、何故か、ほっと溜め息が出た。
もうこんな心臓に悪い勝負を見ずに済む。
そういった思いからだろうか。
そんな、
どこか落ち着いてしまった自分に少し、自嘲気味な笑いを浮かべ、東真は少なからずショックを受けているであろうレリアへ、何か声をかけようと顔を上げた。
上げて……、
その目に、
レリアを見ようとした途端。
「……東真さん……」
無念の声が聞こえてくるかと思っていたところ、レリアの発した声は、
驚きの声だった。
状況からして、レティシアの負けは確定していたというのに。
驚き、戸惑っているような声。
顔を見ると、これもやはり驚愕を濃く表情に映し、目はピストの両選手を見たまま、皿のように見開かれている。
その様子に、東真も妙な違和感を覚えた。
さっきから会場に響く声。
歓声だとばかり思っていたが、
これは……、
ざわめき。
何が起きたのかも分からないといったような、まさしくざわめき。
それを不思議に思っていると、
「……あれ……」
レリアが再び、声を漏らす。
指で、一点を指しながら。
得点表示。
もちろん、十五対十の表示がそこにはあるだろうに。
そう思いつつも、東真は指し示されるまま、レリアの指の先を追い、得点表示を見た。
見て、
東真は、
驚愕した。
十四対十一。
何故?
あの状況から何故?
何があった?
一体、何が起こった?
思考は、驚きを通り越し、混乱に近づく。
訳が分からない。
エミリエはレティシアの攻撃を完全に避けていた。
加えて、
迎撃態勢も完璧だった。
どこにもレティシアが逆転する要素は見当たらない。
考えるほど、困惑の度を増してゆく東真をよそに、試合はすぐさま再開する。
そこでもまた、
東真は驚いた。
三度、
三度目のフレッシュ。
とても正気ではない。
エミリエは手の内を読み切り、絶対的な迎撃態勢で待ち構えている。
そこにこんな……。
理由不明のレティシアへの加点に頭を悩ましていたところに、そんなものを見せられ、東真の混乱は最高潮にまで達しようとした。
のだが、
まさか。
その、レティシアの攻撃が、東真の疑問をすべて払い落とすこととなる。
今回も先ほどとまったく同じ流れ。
レティシアの突きを、腕ごとエミリエが背後へといなす。
構えはやはり、斬撃の構え。
触れるほどに近づいているレティシアの脇腹を撫で切れば、それでもう勝負あり。
そのはず、
だったのに、
起こる。
考えもしなかった事態が。
再度、加点の電子音。
ところが、
表示は……、
十四対十二!
なんだこれは?
そう思い、東真はもう一度、ぶつかるほどに接近したレティシアとエミリエに目を向けた。
向けて、
愕然とした。
よく見れば……、
エミリエの背後に逃されたレティシアの剣が、
ほとんど垂直に曲がり、エミリエの背中に突きを入れていたのである。
付け根ほどまでエミリエの背後に回ってしまっていたレティシアの右手は、手首から驚異的な柔軟さで反転し、その手に持った剣の切っ先をエミリエの背へと器用に突き立てていたのだ。
これを、見て、
東真は叫ぶ。
「……トゥッシュ・ディタージュ(背面突き)!」
本来、
トゥッシュ・ディタージュはフェンシングにおける最大難度の技のひとつである。
相対する敵に対し、その背後を攻撃するという時点で、その難易度の高さは推し量るに用意であろうが、では、それをどのようにして可能たらしめるのか。
答えはフェンシングの剣。
フェンシングに用いられる競技用の剣は、強く振ると、鞭のようにしなる。
弾性の高い合金で作られているこの剣の特性を利用し、敵の側面から、故意にしならせた剣の切っ先を敵の背面に打ちつけ、得点とする。
これが世に言うところのトゥッシュ・ディタージュ(背面突き)。
さりながら、
レティシアのそれは、まったくの別物。
近距離から放たれるため、避けるには腕ごと背後にかわすしかないフレッシュを逆に利用し、相手の背後に回った剣を返して、その背中を突く。
この場合、無防備なのは攻撃側のレティシアの脇腹ではなく、防御側のエミリエの背中。
それも、完全な死角からの攻撃ゆえ、回避はまず不可能。
敵の背後に回った剣を即座に切り返す手首の柔軟さもあるが、それを一連の流れの中で確実におこなうレティシアの技量。
いわんや、この予想外の奇策。
これにはさすがの東真も呆けたように、
「……そうか、レティシアはこれを狙ってたのか……」
つぶやくようにして言うのがやっと。
ふと見れば、
もはや諦めかけていたはずのレリアの顔が、驚きから徐々に緩和し、頬の辺りへ血が上り始めている。
これは……もしかすれば、
もしかするかも、しれない。
驚き、どよめく会場の中、淡い希望が生まれた勝負の行方に、東真は固唾を飲んで再度ピストを俯瞰した。




