奇縁の剣(3)
「ほうほう。お嬢ちゃん、西洋剣術をやるのかい?」
言いながら、男性は近くの自販機で購入してきた温かい緑茶の缶をレティシアへ渡す。
レティシアはというと、
ベンチに座り、こっくりと形ばかりの礼をして、缶を受け取る。
ここは、央田川親緑公園。
央田川沿いに細長く、緑化事業の様々な樹々の林とともに付設された公園。
そこのベンチへ腰掛けて、ふたりは何気無い会話をしていた。
普通に考えれば、深い時間とまでいかずとも、夜に見知らぬ男性とベンチに座って話をするというのは、年頃の女子としては明らかに警戒心が欠如しているように思えるが、そうした普通の心働きを起こさせないのが、この男性の特徴のようであった。
歳こそまだ若いが、これがあと二十か三十ほど歳を重ねれば、絵に描いたような好々爺の出来上がりであろう。
そうしたこともあり、
レティシアも、どこか気楽に男性と話をしていた。
「しかし大変だね。こんな遅くまで練習かい。今日日、なかなかそう勤勉になれる子は珍しい限りだ。何か、よくよく熱心になるような理由でもあるのかい?」
気遣いだろうか。
レティシアと同じベンチに、ちょうどひとり分ほど間を空けて座った男性は、焼きたての大判焼きが、ぎっしりと詰まった紙袋を差し出しつつ、問うてくる。
これに、レティシアは手を突っ込むと、ひとつ大判焼きを取り出して、口に頬張った。
甘い。
それに、温かい。
「心が穏やかじゃない時は、甘いものが一番さね。それをたらふく食べる。腹が膨れれば、心も膨らんで、とげとげしていたのが、丸くなるって寸法だよ」
言って、男性もひとつ大判焼きを取って、口へと運ぶ。
ひと口分を口に入れ、咀嚼するその様。
(随分と美味しそうに食べる人だな……)
そんなことをレティシアは思いながら、男性の横顔を眺めていた。
人の不幸は蜜の味などと、世間ではよく言う。
が、
人の幸せはどうか。
これは実のところ、難しい。
過ぎたる幸福……例えば、宝くじで億単位の賞金が当たったなどは、よほど人間ができていなければ、途端に妬ましいという感情が心に生じてしまう。
だが、例えば昼食に持参した手作り弁当の中に、好きなおかずが入っていたことを喜んでいる人を見た時はどうだろうか。
この程度の事柄だと、共感の範疇に入る人も多いはずだ。
その場合は、一緒になって喜ぶこともできる。
小さな幸せを喜ぶ人を不快に思う人間は、そういない。
男性には、そうした共感を引き出す、独特の雰囲気があるようであった。
会話についてもそう。
聞いてはくるが、別に返事を強要するようなことはしない。
言いたくなければ言わなくていいし、言ってくれるなら有り難い。
そう付け加えているような、とても優しい、話の調子なのである。
だからこそ、
逆に、レティシアはよく口を開く。
普段は、ほとんど口もきかない子であるはずなのに、ぼそぼそと、それも切れ切れとはいえ、赤の他人と話をしている。
「……大会……」
「大会?」
「全国大会……あるから……」
「ああ、それで遅くまで練習してたってわけだね。お嬢ちゃん、よっぽど剣が好きなんだね」
そういうことで男性が納得しかけた。
その時、
ふいに、レティシアは首を小さく横に振る。
これを見て、
男性はしばし、レティシアを見つめた。
すると、
「……お姉ちゃん……」
いつもの、ささやくような声。
それからしばらく、
間を置いてからようやくに、
「お姉ちゃんに……喜んで、もらいたいから……」
顔を伏せ、恥ずかしそうに言った。
「……なるほどね」
聞いて、男性はうれしそうに微笑むと、
「お姉ちゃんのために、か。お嬢ちゃんは優しいね。うん、良い子だ良い子だ」
ひとり納得したように、うんうんと何度もうなずきながら、我がことのようにうれしそうな顔をする。
そんな男性の反応に余計、照れてしまったのか、レティシアは伏せた顔を紅潮させ、見る間に頬から耳までを真っ赤にしてしまった。
「いやいや、そう恥ずかしがるようなことじゃあないよ、お嬢ちゃん。身内で仲睦まじいっていうのは、何よりのことさね」
男性としてはフォローのつもりだったのかもしれないが、言えば言うほど、レティシアは顔を伏せる。
終いには、ほとんど背を丸めるような姿勢になってしまって、男性もさすがに苦笑を漏らす。
「まあまあ……じゃあもうこの話は、すっぱり終わりにするとして……別の話をするとしようかね」
この状態が続かれても困ると思ってだろう。
男性は少し慌てるようにして、話題を切り替えた。
「それで……大会に出るってことは近く、試合をするわけかい?」
話題が変わったのが功を奏したか、
レティシアは気持ち、顔を上げたようになると、小刻みにうなずく。
それを見て、男性も安心したようで、自分の緑茶缶から、お茶をひと口すすると、
「ふむふむ……そいつは大変だね。で、その試合とやらはいつなんだい?」
何気無く聞いてみた。
のだが、
「……明日……」
ほぼ顔を伏せた状態で一言、
つぶやくようにレティシアが言うのを聞いて、
「……明日?」
男性も、まさかそこまで急なこととは思いもしなかったらしく、つい、聞き返すような調子で返答してしまった。
「それはそれは……また参ったね。そうなるともうさすがに取れる手立ても尽くしたろうし、気が気じゃないだろうに……」
「……」
「で、その試合の相手はどんなものなんだい。強いのかい?」
「……うん」
「強い……か。じゃあ、勝つのはなかなかに難しそうかい?」
「……私、大きいから……動きも遅いし……だから、すぐ先に攻撃される……」
「ふうむ……」
気がつくと、
レティシアの顔からは、いつの間にか赤みは消え、蒼白としている。
話したことで蘇ってきた明日の戦いに対する緊張によるものだろうか。
夜風に冷やされたせいだろうか。
できれば後者と思いたいが、まず前者だと考えて間違い無い。
どこか、表情までも強張ってきてしまったレティシアを、男性は心配そうな顔をして見つめていた。
と、
ふと男性が目を見開く。
何かを思いついたようで、
「おお、そうだ!」
自分の膝をひとつ叩くと、急に、
「実はね、お嬢ちゃん。私もこう見えて、少しは剣をやるんだよ。よければどうだい、そこの肩に掛けてる剣、見せてもらえないかい?」
こう言ったものである。
「大丈夫。壊したりやしないよ。言ったように、これでも剣には詳しいほうなんだ」
この提案には、さすがのレティシアもかなり警戒した。
競技用とはいっても、剣士にとって自分の剣は我が半身と言っていい。
やたらに人へ預けられるほど、気安い代物ではないのだ。
なのに……、
これも、男性の持つ、特有の性質のせいか。
または単なる気の迷いか。
少し悩んだ後、レティシアは肩のケースを取り、中身は出さずにそのまま男性へ手渡した。
「ありがとう、お嬢ちゃん」
そう男性は言って、ひとつ深く頭を下げると、ケースのチャックを開き、中の剣を取り出す。
この動きだけで、
分かる。
言っていた通り。
確かにこの男性は、剣の扱いに通じている。
帯刀していない時の剣の持ち運びは、基本的に専用の収納ケースを用いる。
それの扱いが手慣れていることは、すなわち、剣そのものの扱いにも慣れているということ。
男性は剣を取り出した空の収納ケースを丁寧にベンチの上に立てかけると、中身である競技用の剣を、興味深げに眺める。
「ほうほう……やはり面白いね。西洋剣術で使うレイピアを、さらに軽く、扱いやすいように改良したものなわけだね。なんとも競技用らしい作りだね」
話しつつ、男性は剣の細部を確認し、ふと考えを口にし出した。
「思うに……お嬢ちゃんの話からして、今度の試合の肝はスピードのようだね。しかし、この剣の様子からして、お嬢ちゃんが遅いとは到底思えない。とすると相手が速いか、互角の速度と見るのが順当だろうね。この刀身についた傷だが、とても遅い人間につけられる傷ではないのがいくつかあるよ」
「……え?」
「剣速が遅い人間が相手と剣を交えた場合、刀身に刻まれる傷は直線的なものになりやすい。これは、相手側の勢いだけで刀身に傷がつくのが原因だ。対して、使い手の剣には稲妻のようにギザギザとした傷がつく。双方の意図した力が同時に別々の方向へ加わると、こういう傷になる。そして双方の力が加わるには、その剣を使う人間も相当の剣速でないと無理だ。これらを総合して考えるに、試合の相手はお嬢ちゃんでも敵わないほどの非常の剣速を誇る相手か、または同程度の剣速ながら、技に優れる相手と推察するが、どうだい?」
この男性の推測にレティシアは、
唖然とした。
ただ、剣を見ただけ。
それだけで、
ここまでの情報を探り出した眼力。
ちょっとどころではない。
よほど剣に精通していなければ、こんな意見はとても出てこない。
この男性、
一体、何者なのか?
そんな疑問を顔に浮かべていると、男性はまた言葉を次ぐ。
「どうだろう。率直なところを言ってくれないかね。剣速で勝られている相手なのか。または技に勝られている相手なのか。そこが分かるだけでも、対策らしきものは提案できると思うんだけどね」
剣のしなり具合を確認しながら言う男性の言葉に、少しく迷う。
すでに勝負まで一日も無い。
この期に及んで、取れる対策などあろうものなのか。
土壇場での下手な小細工は、剣を鈍らせる危険もある。
慎重にならざるを得ないのだ。
ところが、
「気持ちは分かるよ。ここに来て妙な付け焼刃は逆効果になることもある。だがね、一番重要なのは(勝ちたい)という一念だ。そこさえ揺らがなければ、あとは単なる材料。それをどう利用し、勝利を勝ち取るかは、最終的にはお嬢ちゃん自身の気持ちひとつだよ」
正論。
そう、
力も。
技も。
戦略も。
すべては道具。
それらを使い、勝利を手繰り寄せるのは、他ならぬ自身の心。
目に見えぬ道具は邪魔にはならない。
使い方や、使いどころさえ間違えなければ、それらはすべて心強い味方となる。
考え抜き、得心したレティシアは、
「……スピードは、同じくらいは早くなれたと思う……けど……」
「了解したよ。相手は技巧派。そうだね?」
説明を半分ほどすると、途中で結論を察し、男性は確認する。
それにうなずくレティシア。
男性もまた、うなずいた。
「さてさて……となると、なかなかに厄介だね。力や速さで勝る相手に勝つためには、対策をしっかり立てさえすれば、それほど難儀なことじゃない。が、技に勝る相手は難しいね。相手もそうした対策には通じているから、下手な作戦では、立てたところでさらにその対策を講じられてしまうのがオチだ」
言っていることこそ悩んでいるように聞こえるが、相変わらず男性は柔和な顔をして、レティシアの剣を観察するばかり。
別に悪意によるものではないのだろうが、どうも腹の底が見えない。
そうこうして、
男性との会話を始めて、何度目かの沈黙が訪れるや、
その沈黙を、またも男性が破る。
「よし!」
自信に満ちた一声。
「思いついたよお嬢ちゃん。技巧派対策の一手がね」
「……ほんとに……?」
「うんうん、本当さね。ただし少々、込み入った手順が必要だよ。その辺は大丈夫かい?」
「……勝てるんなら……」
「よしよし、その意気なら心配無いね。では、最初の手順からだ。しっかり聞いておくれよ」
それから。
結局、レティシアの帰宅は八時を回ることになる。
ただし、
帰宅したレティシアを見て、とっくに帰ってきていたレリアは、不思議な雰囲気を感じた。
ここ最近、ずっとピリピリとしていた様子は消え去り、奇妙に思うほど落ち着いていた。
理由はレティシアしか知らない。
正確には、
レティシアと、謎の男性のみ。
その夜、公園で男性は一体、どのようなことをレティシアへ教えたのか。
それを知るのに、焦りは必要無い。
わずかに一晩。
次の朝が来れば、その謎はすぐに誰もが知ることになる。




