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彼岸空想  作者: 君島世界
2/10

Α:未知幻想(undiscovered fantasy)

「共通認識は屋上コンプレックス」

雨を待つ二人。川岸の三人。空想。

女の子は男の子と会話し、さらに彼女の友人とも会話する。

ただそれだけの、ありふれたはずの物に見出す価値とは。



(別サイト並びにPixivに投稿されたものと同内容です)

Α:未知幻想(undiscovered fantasy)


--------------------------------------------------------------------------------








 ……そう、目覚めはいつもこうなんだ。

 枕もとのけたたましいベルの音に、夢の中から追い出される。

 だから、わざと乱暴に目覚し時計のスイッチを切った。

 その程度の八つ当たりではどの道気は晴れないことはわかっているけど。



 つけっぱなしだったヘッドフォンを頭から外し、それから時計に置いた手を支えにして、ぐっと体を起こす。

 その間じゅう、私は必死に自分の本能を抑えなくちゃいけない。ここで気が緩むと体がベッドの上に倒れこんで、それで二度と起きられなくなってしまうからだ。

 ……事実、こんな風に朝から雨が降っている日は、身体に湿気の重みがまとわりついているようでなかなか決意ができない。

 何とか本心を鼻先にぶら下げた餌で騙しながら、体を起こしきることに成功する。

 次いで足をベッドからおろし、いつもの位置のスリッパに爪先を突っ込んでから、私の心は何とか今日も一日頑張ることを決意したようだ。

 立ち上がり、暗い部屋の中でうーんと身体を伸ばす。

 かろうじて私にも備わっている一般的常識から言えば、ここでまぶしい朝日とパンの焼けるいいにおいがあれば素晴らしい朝として何もいうことはないのだろうが、残念ながら両方とも望めそうにない。

 さっきも言った通り今日は朝から雨が降っているし(その音を私は夢の中で聞いていた)、食卓備え付けの食パンは――自分で焼かなければならないからだ。

 思い出して少し鬱が入った所で服に着替える。

 いまいち湿っているように感じるのは私が渇いているからか。

 それでも、下ろしたてのワイシャツは袖を通すと気持ちよく感じるもので、その快感の最中私はさっきまで見ていた夢のことを考えていた。

 覚えていることはとても少ない。

 雨と、渇き。

 他のことは知覚しているはずなのにもうわからなくなっている。

 記憶喪失とはこんなものだろうか。

 体験した全てが指の間から砂のように逃げていってしまう。

 それは随分静かな音を立てながら、私に勘付かれないように風に還ってしまう。

 忘れるべきではない事を忘れてしまうのはとても恐ろしい。

 だから、一応鞄の中の教科書を確認してから部屋を出た。

 ドアの前でスイッチに手を触れると、いつもあるはずの凸の感覚がない。

 ……そうか、着替えている間ずっと暗かったのはそれ故だったのか。

 私は納得して居間へ向かった。



 食卓備え付けの食パンを備え付けのトースターに入れ、備え付けの置き手紙を備え付けのごみ箱に捨てると、私は備え付けの椅子に座って備え付けではないもののことを考えようとした。

 でも見るもの全てがやはり備え付けであるこの現実の手前、どうしても私は夢のことを考えざるを得ない。

 わかっていることは、雨と、渇きという二つの言葉(概念)(存在)(乃至事象)だけだった。

 仕方なく、私はその二つのキーワードから物語を創り上げることにした。夢も物語も私が作り上げるもの、たいして違いはあるまい。

「……そうね、諸所背反からくる恍惚のイメージかしら、私の趣味から言って」

 自分でもよくわからない言葉の構成物を言霊として発すると、心の中に物語のベクトルが生まれてきた。

 それはこういうストーリーだ。

 主人公である彼(性別がわからない場合、私はいつも『彼』で統一している)は雨の中を歩いている。

 三日三晩歩きつづけている彼に持ち物は何もない。一欠片のパンも一滴の葡萄酒すらも持ち合わせていない。

 おりしも雨が降り始める。だが、彼は喜ぶことも、口を開けて上を向くことすらしない。

 それはなぜか。実は、この世界の水は既に汚れきっており、工場生産される蒸留水こそが真に人間の飲用水として販売されているからなのだ。

 彼は知っている。雨が目に入ったものが失う光のことを、雨が体の中に入ったものが失う自由のことを。

 そして、雨に気が付いて本能的につい喜んでしまった人間の、憐れで滑稽な末路のことを。

「……馬鹿は、踊り狂って死ね」

 コートについたフードを目深にかぶり、彼は歩きつづける……。

 そんなストーリーを、私は起きる寸前に雨と渇きから作り上げたのではないだろか。

 自分の夢想力にある種の敬意を抱きながらため息を吐いた時、備え付けのトースターが乾いた音を立てた。

 反射的に焼きたてのパンを取り出し、それがかりっと口の中で音を立てた時点で私は自分の喉と口の中がひどく乾いていることを思い出し、結局そのパンは白湯で飲み込むことになった。



 ジャムとパンの焼けかすが付着した白無垢の皿を備え付けのシンクに入れ、居間備え付けのライトを消したところで、自分が妙な気分になっていることがわかった。

(誰かが誰もいない隙間から覗いている)

 私なりの言い方をすれば、これは「その気になっている」という症状だ。私がそう認識することで世界は変わりゆく。

(だから、私は隙間を見てはいけない)

 今は私を除く何もかもが始まりから終わりまで存在して、それは全て私のために用意されたものだというような気分だ。

(見つめ返せば連れ去られるだろう)

 全ては私のためにそこに備え付けられている。おそらくは僅かな悪意を込められて。

(でも私は奴の場所を知っている)

 そんなものの中で私は道化のように観察されながら生きなければいけないのか? 冗談じゃない!

(奴に手すら差し伸べられるかもしれない)

 ……私は「備え付け」という言葉を今日一杯禁句にすることにした。

 こんなもの、今日一日使わなければきっと忘れてしまうさ。今までだって私はそうだったんだ。

 忘れっぽいことのみが、私の唯一利用価値のある長所だったではないか。

 さあ、忘れろ、私。忘れろ、忘れろ、忘れ



 降り始めた雨に気が付くと私は目的地へ向かう途中にある橋の上にいた。手には傘を持っている。

 そうか、私はまた、何かを忘れることになったんだな――と、たぶん今日二度目のため息をついた。

 私は、意図的に物事を忘れることができる。いつからそうだったのかはもう忘れた。

 私が願うだけで、その事物は記憶の井戸の奥深くに投げ込まれる。

 今回の作用はいつもより強力で、その封印すべきなにかと共にどうでもいい日常を吹き飛ばしてしまったようだ。

 或いは旧友と偶然に出会って立ち話したことが、忘れたことに含まれているかもしれない。

 でもそれはただの可能性で、もし事実だとしても、私が忘れてしまったものにはもう興味がない。

 忘れた、ということは、興味も執着もそれから失われたということを指す。

 記憶喪失が外因的でないならば、それは忘れた所で本心には何の問題もないことなのだ。

 結局、それは自分が望んだ結果でしかないのだから。

 事実、私はもう――旧友となんか、会いたく、ない。

 会いたくない理由をどうしても忘れられないのが私には何よりも辛い。



 橋を渡りきり、途中の商店街を抜けると、駅前の広場に向かう横断歩道の手前で彼に出会った。

 今度の『彼』とはけして夢の中の登場人物でなく――肉体を持った存在としてのある男性だった。

 あの、屋上で会ったひと。

 蓮谷詠二。

 なぜか傘を持っていない。

 こちらに気づいた彼は、左手で重そうな鞄を背中に下げ、あいた右手で人差し指と中指だけを立てる独特の挨拶(目配せ?)をした。

 印象だけを言葉にするとどうも彼がキザっぽく聞こえるが、実際彼はそれが当然のようにすばやく、自然に行った。

 そしてすぐ、さっきまでの他人モードに入る。

「おはようございます、詠二君」

「……んぅ、おはよう」

 極度のあがり症か人見知りのような返事をするが、それでいて彼は気後れした様子はない。

 むしろ、当然のことをしているかのような、堂々としたその態度――。

 素、らしい。

 しばらく私のほうを向いていたあと、不意にまず視線だけが前を向き、それに連続するように顔と体が進行方向を向いた。

 その動きを目で追うと既に、彼は横断歩道を渡っていた。

 青信号を確認してから、その後を追う姿勢で横断歩道を渡る。

「こら、蓮谷。ヒトを無視するな」

「……ん?」

「起きてるの?」

「……んぅ」

 あいも変わらず能面顔。

「……」

「……あふ」

 彼は能面のままあくびをした。眠そうな能面というものを私は見たことが無いが、たぶんこういう表情なんだろう。

「ね、元気?」

「それなり」

「朝ご飯は?」

「昨日の残りのスープ」

「宿題は?」

「無いだろ」

「……」

「……」

(低血圧?)

 そんな考えを半ば確信した頃。

「……あの、悪いけど、さ」

 私には予想外の展開だった。

(彼のほうから口を開くなんて)

「今はまだ、何も話題がないんだ。朝は、弱いし」

 言い訳のように呟く。

「でも、社交辞令とかでいいんじゃないの? 天気とか、景気とか、どこかの国の戦争とか」

 そんな彼に対して、一般的事項を告げてみると、彼は僅かに表情を好転させる。

「――それは、どこにもたどり着かないんだよ」

「?」

 頷いたままの視線を上げて、言う。

「天気の話をしたからといってこの雨がやんで俺の体を乾かしてくれるわけでない。景気の話をしたからといって俺の財布があたたかくなるでも寒くなるでもないし、俺の知覚範囲と関係範囲を超えた場所の話をしても俺は結局それには無力だ。

 そう、どこにもたどり着くことはできない」

 そんな長いスパンの台詞を、すらすらと並べ立てる彼。

「それでも、さ。私はこの沈黙に比べれば随分いいと思うけど」

 もちろん、雰囲気の問題で。

「……好みの話をするのはあまり好きじゃないけど、俺はAの為のAというものがどうしても好きになれないんだ。

 それは自己循環だけでどこにもたどり着かないから、結果を生み出さない。

 ここで沈黙を破った所で、それは会話のための会話だろ」

「そうかなあ」

「そうさ」

 先ほどまでのボケっとした雰囲気はどこかに消え、かわりに視線に鋭さが戻ってくる。

「俺は、全ては関係から価値が生まれてくると思ってる。ここで話していることが後々にでも何かの役に立てばそれでいい。逆に、そうでないなら――」

「時間の浪費」

 すっ、と猫背気味の肩を上げて、嬉しそうに彼は笑った。

「気が合うね、随分」

「偶然だよ。でも」

 いつの間にか、彼のほうから積極的に会話をはじめている。

 こんな雨降る朝の会話に、意味を見出したのだろう。

「そうじゃなかったら、私はあの時飛び出していたかもしれないよ」

「なら僥倖だ。俺は無駄ではなかったらしい」

「私は、好奇心こそあなたに抱くけど、素直に感謝しているというわけではないみたい。それでも?」

 自分の正直な所を話す。彼はけして恩着せがましいところはないけど、誤解されるのもいい気持ちではない。

 なるほど、整理はつけたのか――と、彼の意味深な発言。

「適度な情動、まあ怒りとか哀しみとかも含むけど、そういうものもまた人間に必要さ。神様ありがとうばっかりで世界の半分を黙殺していれば、不幸と幸福とのメリハリがない」

「メリハリ、ね。単純な二元論だけど、有効だと思う」

 幸せだけで幸せの意味を見失っていた私。そして、不幸で幸せを実感する事が出来た私――。

 思い出してすこし悲しくなった。



 それからまたしばらく、沈黙が続いた後。

「理由を話そうか」

 学校へ向かう坂の途中、見上げても頂点の向こうが見えないようなところで、彼は唐突に話し始めた。

 塀の向こうの花を見ていた私は、振りかえって彼を見た。

「え?」

 その、微妙な表情。話し始めたという事実よりも、そちらの方が奇妙だった。

「俺がAの為のAを嫌う理由」

「どこにもたどり着かないから、でしょ?」

「それはそうだけど、俺が話してみたいのは、俺がそこに至ったまでの過程さ」

 彼が何故そんな話をはじめようとするかはわからなかったが、とりあえず私は聞いてみることにした。

 自然、足並みは遅くなる。そうなってようやく、この場所からあの屋上が見え始める事に気がついた。

「――最初は、自分一人で満足するウロボロスは自らの尾に噛み付いた時点で存在を崩壊させていることに気づいたから、だな。今ではもう記号としての役にしか立たないように」

「ウロボロス?」

「円環蛇。無限の象徴だよ。数学記号で言う所の、アレ――ほら、8を横にした奴」

「……ふむ」

 私は、8が横になったような例のマークをイメージした。

「それはどこにもたどり着かず、何を変えるでもない。そういう作りになってるだろう?」

 確かに、その横になった8の上にポインターをいくら走らせても、それはどこにもいかない。

 軌道上を動くというルールの元では。

「ウロボロスというのは、もともと神話の存在なんだ。それが後世の数学者に引用され、そのまま本来とは違う機能を植え付けられ……、しまいには、機能それ自身になってしまう。それが存在の崩壊さ。

 自分という記号が表すもの自体が、主体として自らを支配する。それはつまり、「自由意志」を否定することなんだよ。例えば、蝋燭は蝋燭である事に意味がある代物だが、私は私であることに意味があるのではなく、私として独立した行動ができることに意味がある。

 だれが、結局は「私」という曖昧な一記号でしかない存在に価値を見出してくれるだろうね」

 ここまで彼が話した所で、これが彼の言うシサクなんだろうかと気づいた。

「幸運なことに、僕ら人間からは尻尾は随分昔に失われている。おかげで、自分を追いかけるといった無駄この上ない所業は機能上できないことになっている――」

「……」

「けれど、意識・欲望というものは機能を上回るもので、中には自分の幻影を追いかけるものがいる」

「それが、彼の為の彼」

「だいたいそんなところ。そして、俺はそんなものがだいっ嫌いだということを知っておいて、たぶん損はないよ……というところで、この会話はオチるんだけど」

 つい先ほどまで彼を包んでいた強張った雰囲気は消え、変わりに屋上で少し見せた気さくな雰囲気が立ちあらわれる。

「ねえ、随分話したけれど、詠二君朝は弱かったんじゃないの?」

「弱いよ……。いまのは、君が持ち出してくれた話題が、自分の中のシサクのストックに符合するからなんとか喋れたんであって」

 思い出したように、あくび。

「ストックっていう事は、始終こんなこと考えているの、詠二君は」

「俺は詩人だって言ったろ……。ただ、考えるのが好きなんだ」

「何を?」

「意思という主体が中心とする行動の理由をさ。また、それ自身を。全ては、自分という宇宙最後の未知を理解するために」

「自分という、未知か……」

「それを知るために俺は随分と面倒で余計遠回りでしかも無駄な道を辿ってはいるけどね。理由を考えると同時に、宇宙という集合から自分の反集合を知り、計算から自分を導き出そうとしている。

 簡単に言い直すと、俺は全てを知ろうとしているんだ。文字通り全てを」

「やっぱり、今のもストック?」

「そうだね。でも、宇宙というのはアドリブだった。ホントはここに世界という単語が入っていたんだけど」

「……話を聞いていると、なんだか、あなたが文系なのか理系なのかわからなくなるわね。集合なんてのは数学の分野だろうし、そんな中に宇宙なんてほとんど仏教用語のような単語が入ってきてる」

「あれ、ということは、今の宇宙って言葉、わかってたんだ」

「時間の広がりと空間の広がり、でしょ。あなたが前に言っていた『世界』には、連続する時間の概念が入ってない。日々刻々と変化する『私』を表すには、それじゃ不十分だと思う」

 また、彼は嬉しそうな笑顔を浮かべた。どうやら、意外と感情が顔に出るタイプらしい。

「はは……。俺はどうやらついに満足できる聞き手を手に入れたらしい」

「偶然だよ……。中学生の頃、気紛れで辞書を引いたら、なんかそういう意味のことが書いてあったし、たぶんそっちのほうがキミには相応しいだろうと思って」

 そう、このペシミストな哲学者には、ちょっとひねくれた解釈のほうが正しいだろう。

 自分にどこか似た彼に、私はそんな確信を抱いていた。



 ……そんな話をしている間、ふと気が付くともう目的地の学校にかなり近づいていた。

 この角を曲がり、坂を少し登れば、そこはもう門だ。

 雨は強くなるでも弱くなるでもなかったが、彼は傘を取り出す様子はなかった。

「ねえ」

「ん?」

「傘、差さないの?」

「無い袖は振れません」

「うわ」

 ……まさか、ここまで変わり者だったとは。

「朝から、ずっと降ってたよ」

「俺に言わせれば、このくらい傘を差すほどじゃない」

「そうかな」

 秋の柔らかく細い雨とはいえ、長く歩いていれば服が肌に張り付くぐらい濡れてしまうはずだ。

 事実、シャツから覗く肩に布はぴたりと張り付き、横顔の髪がほつれて頬に微かな模様を描いている。

「一応鞄にタオルは入れてきてるし、そういう点では全く問題は無いね」

「そういう点って……」

「あと、ホントは傘、学校に置きっぱなしだし」

「……」

 じーっと、無言。

「で、でも、俺、雨に打たれながら歩くの結構スキだしさ」

 ほら、と両手をあげて笑う。

「君はそういう経験ない? 傘を忘れた日、仕方なくそのまま帰ったら、結構楽しかったりして」

「私は、昔から傘だけは忘れたことはありません」

「どうして?」

「雨が降る日には、いっつも父さんが傘もってけって、うるさかったし」

「……なるほど」

 そして、今朝だって、そんな声を思い出していたのだろうし。

「いい父さんなんだね」

「そんなこと……、いや、そう……かな」

「そうさ」

「……」

「……」

 じっ、と、気遣うような微妙な視線。

「もしかして、わかっちゃってた?」

「ああ」

「何がわかっちゃったのさ」

「過去形」

「やっぱり……」

「この話は、もうやめにしようか。多分、君の中でもう答えは出てるんだろうし、それに俺が干渉する気は無いし」

「うん……」

「先、行くよ。遅刻ボーダーまでは余裕あるけど、変な道草食ってたら間に合うものも間に合わなくなるぜ」

「道草なんか、食わないってばぁ……」

 私は、少し早足になり、それから駆け足になった背中を見ていた。

「道草なんかしないのよ、か……」

 それは、母の口癖だった。



 別れたとはいっても、私達はすぐに同じ教室で顔を合わせることとなる。

 でも『顔を合わせる』はただの比喩で、私は結局相手の背中だけを見ることになる。

 それが常。相手は振り返りもしない。私はその背中を見るだけ。

 左方向斜向かいのその席は、私の知っていた詠二君の席だ。

 そこを視界の端になんとなく捕らえながら、雨上がりの空を見ていた。

 灰色の雲の裂け目から神々しいともいえる太陽光が差し込んでくるその風景を、飽きることもなく。

 こういうものはいつまで見ていても飽きることはない。連続する秩序。具現する混沌。それこそ、私が夢の外で見るどんな事象より自然は魅力的だった。

 その濡れた大気に、もし許されるのなら触れてみたいと思う。

 でも窓はここから遠くて、今は授業中で、様々な制約で私は縛られていて。

 わたしはずっとこういうものが嫌いだった。

 自分じゃないのに自分を制限するもの。

 制限の中にこそ人付き合いといったものがあるのは理解できるが、理解できることと許せることとは等値ではない。

 私は、本当は、どこにもいたくない。

 ただ私として在ることができればそれでいい。

 私だけの世界、そこに他者は一人すらいらない。

 そんな場所がずっと欲しくて、私はいつも夢の中でそれを求めている。

 今も、その、絶対孤独を。

 でも。

(私は一体何が欲しいんだろう)

 そんな私でも、時には友人達と一緒に、本当に楽しいと思える一時を過ごすことがある。

 此岸は私にとって捨てたものではないと、そのときはそう思う。

 今もその認識は変わらないのだけど、では、彼岸を願う私と、そのどちらが本物なのだろうか?

 つまり、モノとしての私がわかれば、きっとこんな迷いはなくなってしまうんだろうけど、答えがわかった瞬間、私はそうなってしまうのだろうか。

 私は今の私が随分気に入っているから、できれば変えたくはないけれども。



 そんなこんなであっという間に1限の授業が終わっていた。

 ぱらぱらと次の教室に移動をはじめる学生達の中、私は一人自分に戻ることができずにまだ窓の外を見ている。

 ――そうだ、今なら外の空気に触れることができる。

 ――あの濡れた大気に指先を当てることができる。

 そう思って椅子から立ち上がった時。



「つばめ?」



「だ……れよ」

「私よ、私」

 にっこりと、笑顔。

 さらりと彼女の黒髪が舞った。

 彼女は微笑みながら窓とは反対側にいる。

 今の私と完全対称なその素顔を見せるこの名前は。

「エナ」

「そう」

 そしてまたにっこりと、私のこんな顔は見飽きたとでも言う風にわらった。

「ずっと外みてたよね。教室に入ってから、授業始まってからも、授業終わっても、今も、ずっとずっと」

 彼女の名は三国みくに 依名えな

 私――の、本性――を知り、それでも私には何も教えてくれない女の子。

「外に行きたいんでしょ」

 ふわりとその白い指先が窓をさす。

 いつの間にか不吉な風をたたえるようになった空を映す窓に彼女の指が触れ、つつうぅっと滑るように表面をなぞる。

 硝子をなぞるその指先から灰色の雲が濃度を増していくようだ。

 いつの間にか、そう、気づいた時には、空は深黒だった。

(ソレハ カノジョノ フカイ  クロ)

「行きたいんでしょ」

 振り返ってもまだ笑ってる。

 暗い空から滲み出す僅かな光を横顔に受けるその笑顔は ズイブン キレイデ。

「うん」

「でも、だめだよ。今は」

 振り返った顔の正面を左に向ける。

「今日はまた雨降ると思うし」

 明後日の方向を向きながら、窓に当てていた左手の人差し指を右眼の下に中てる。

 エナのよくやる癖だった。

「それに、今から教室移動だしね」

「え?」

 すっ、と、指が動いて、予定表をさす。

 その動きがあまりに優雅で、私はそれが何を意味するのかをしばらくできないままだった。

「理科室で実験だよ、次は」

 その、極めて一般的で、あたりまえな事柄に、私は私を取り戻すことができた。

 こういうとき、ホント、彼女は助けになる。

「なんの実験だったっけ、つばめ」

「……えーと」

 思い出そうとする。

 ……やっぱり忘れていた。

 実験だっていうこと自体忘れてたんだから、当然か。

「もしかしたらカエルの解剖とかやるかも」

「それはもうずっと前に……」

 やったと思う。

 ……あまりいい思い出じゃない。

「そうだっけ。なら、何の解剖かしら」

 心底わからないといった口調で、おどけるように話す。

「あのさ……、解剖から離れてみたら?」

「そっかぁ、じゃあ、じゃあねぇ……」

 そして、ゆっくりと考え込む。その間中も、ずっと微笑みは絶やさない。

 ――そう、これが彼女。

 独特なペースに他人を巻き込んで、自分だけは台風の目でいられるという、ある意味羨ましい特徴をもつ。

(ああ、今日もまた面倒な相手に関わっちゃったな、と)

 私は一人心の中で呟いて、すっかり現実に引き戻された心を引き摺りながら、教科書とノートとペンケースと下敷きと凸レンズの眼鏡を出した。

 実験というからには、多分観察とかそういうことやらされるに違いない。

 私の遠視の視界ではきっとそれをうまく見ることができないだろう。

 荷物をまとめ終わる頃には、エナは答えを出したようだ。

「そうだ……、思い出したよ、つばめ」

「で、なんだったの?」

「うん、物理。落下とその衝撃の観測だよ」

「落下と衝撃」

「そう」

 落下、衝撃、――破砕。

 ぐらりと揺れる視界と脳。

「……あれ? どうかしたの?」

「ごめ……、ちょっと、いや、なんでもないの」

「嘘ね」

 鋭く言い放つその言葉に、なんのためらいも感じられなくて。

「でも、わかった。つばめは何ともないわ」

「――ありがとう」

「今度、聞かせてね。気になるから」

「機会があったらね」

「うん。あてにはしてないけど、約束」

 特に指を絡ませたりすることはなく、その場限りの口約束を交わして、私は教室を離れた。

「約束ついでに、頼める?」

 廊下を歩きざま振り返って私が言うと、エナは

「体のいい言い訳でしょ。雨、きっとすぐにまた降ってくるよ」

 と、何もかもを見通したような言葉を返してきた。

 まあ、理科室とはまるで逆方向に歩いているんだから、彼女ほどの人間なら気づいても不思議ではないだろう。

「ご忠告ありがとう。けど、私は雨に濡れて困ったことはないのよ、これでも」

 そう言って微笑んでみせる。

 ぱあっと、彼女のあたりが明るくなったような気がした。……喜んでいるらしい。

「それじゃ、雨に濡れて楽しかったことは?」

「たぶん、今から始まるのよ」

「なるほどぉ」

 私はそう言い残すと、さっき理科室とは反対側の階段を上っていった詠二君を追った。

 その階段は屋上に向かっているし、それに彼が私に一瞬だけ目配せするのが見えていた。

 どうせなら付いてこないか、と、多分そういう意味をこめて。

 実際このまま理科の実験とやらをうけて妙な気分になるのも嫌なものだし、私は可能性に賭けてみたのだ。

 例のペシミストの行動に。

「ふぅん……なるほどねぇ」

 後ろで特徴的なため息をつくエナ。

「ところでさっき、そっちのほうに蓮谷君が歩いて行ったような」

「……きっと気のせいよ、それ」

「わたし、『気のせい』なんて基本的に信じてないんだけどなぁ」

 ゆっくり首をかしげるエナ。黒髪がさあっと流れるその仕草にまた魅入られそうになる所をなんとか押し留めた。

「――じゃあ、私は行くから。今度帰りにでも何かおごるからさ、今日は頼まれてよ、ね?」

「今度の約束は守ってくれなかったら酷いんだからね、つばめ」

「わかった。じゃ」

 私は軽く手を挙げて彼女の元から去った。

 早足で歩いている時、遠くチャイムが響くのが聞こえていた。

 後ろで彼女が手をゆっくり振っていた。



 あまり重くないガラスの引き戸を開けると、一面に空が広がっていた。

 ただし、天気はあまりよくない。

 むしろ、さっきも言ったように『不吉な』という形容詞こそがしっくりとくるような、灰色で湿った雰囲気。

 アスファルトも前に見たときよりもその灰色を増しているようだった。

 いつも感じてしまう眩みがないことに感謝しながら、私は彼を探す。

 二、三歩歩いたところですぐ見つけることができた。

 フェンスに寄りかかって、半ば寝転ぶような姿勢で座り込んでいる。

 傍らに煙草の箱。ただしその封は切られていない。

「よお」

 私がくることを期待していたのか、それともわかっていたのか、最初からこちらを向いていた視線からは読み取れない。

「サボり?」

「じゃないとしたら俺達がしていることはなんだろう」

「逃避とか」

「選択肢のひとつといって欲しいよ。強制されたことではなく、選び取ったことならば」

「つまり、好きでやってるんだから口出しはするなと」

「そう……。ただしその場合、自分でやったことの責任は取らなくちゃならない。選択する自由を獲得した俺達は、同時にソレに対する責任を負わなければならない」

 極めてあたりまえのことを言って後悔したのか、彼はわずかに顔をしかめた。

「まあ……、どうでもいいことなんだけど」

「どうでもいいこと……」

「そう。善悪なんて、彼岸に捨ててしまえ」

 私は彼の横に一人分ほどスペースを開けて座った。

「そういうのって思考停止って言わない?」

「考えても無駄なことさ。言ったろ? これは思考のウロボロスなんだ。

 例えば、ヒトゴロシにとっては自分が自分であることこそが正義。一方、そうじゃないものにとって、彼という存在こそが悪。

 ――まるで、カラスを見て黒か白か言い争いをしているみたいだ」

「でも、カラスは黒いから、どちらかが間違っている」

「その正解のほうが大多数に支持され、最大公約数的な正義になる。哀れなのはカラスを白といった一派さ。太古の昔、カラスは白かったって神話もあるのに」

「あ、その話知ってる。たしか、太陽に向かっていって焦げ付いたから、カラスは黒くなったんだって」

「そう。それでそのカラスは黒点になって、今もこの地球の地磁気を乱してる。

 皮肉なことに、ね」

 私は太陽を見上げた。

 灰色のカーテンの向こうの太陽は直視に耐える程度の光しか届かない。

 その向こうに、今も焦げ付いたカラスが太陽にへばりついているのだ。

「……いつか、見てみたいもんだね。その白いカラス。多数と異なった選択肢を取って、それでも生き残る者達」

「その白いカラスって、まるで私たちみたいじゃない? ほら、教室のみんなはみんなボールを落っことしに行っちゃったけど、私たちはここでとりあえず何も落とすようなことはないだろうし」

「言えてる。けど、本当に残念なことに、俺達はカラスじゃなくて人間だ。空を飛べなくて、本当に残念だよ」

 と、感慨深く漏らす彼。

 ――そのとき、一羽の鳥が飛び立っていった。わずか、雷鳴のように黄色い鳥が。

 それは灰色の壁にぶつかるように空を走っていくと、不意に、すっと壁の中に吸い込まれていった。

 私が黄色の跡をたどる間に、雷鳴が一つ、灰色の壁を突き破った。

 ジグザグの切り傷の中に、あの黄色の色彩がまるで川のように流れる。

 私たちは、その中に先ほどの鳥の姿を見ていた。大きく、偉大な姿をした、異国に古くから伝わる鳳凰のようなその鳥は、まさしく雷鳴より、そして私たちの内より出でた新しいものの姿だったのだ。

「……鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う」

「? 詠二君、たしか、それって……」

「卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない」

 私は彼の言葉を繋げた。

「……鳥は神に向かって飛ぶ。神の名は――」

 繋げた言葉をもう一つの雷鳴が掻き消して、私たちは無音になった。

「……ずっと、知らないままだった」

「……」

「こんなにも、雷鳴が美しいものだったなんて」

「君は、もう少し美しいものを見る気はないか?」

「あるよ」

「なら、しばらくここにいるといい。俺の見立てだと、これからすぐに俄か雨が振り出す。それは十数分降り続いた後、見違えるように空は晴れ渡るんだ。

 ――青空の中に太陽と俺達とビル群だけを残して」

「……タオルは二人分あるの?」

「用意は万全。向こうの屋根の下に二人分、一式揃ってる。何も後のことを心配することはない」

「それなら安心だ。私、明日のこととか考えて、遊園地でも本気で楽しめないタイプなの」

 うん、と、息を吐くように呟いて、空を見上げた。

「さあ、雨をまとうか。時に人間であることを忘れて、雨に濡れるカラスであることも、悪くない」

「悪くないね」

 そして、彼の見立てどおり、数秒後には雨の雫が私の頬を濡らしたのだ。



「えへへー」

「あ、つばめ。ゴキゲンだね」

 昼休み。

 ふらっと教室に戻ってきた私を、何人かのクラスメイトが呼び止めた。

 私はそれに適当な返事をして、まずエナに話し掛けた。

 無論、報告のためである。

「浴びてきたよ。雨と太陽のシャワーを、いっぱい」

「楽しかったでしょ」

「そりゃあもちろん」

「鮮やかなグレイに染まるビルの群れ、移り変わる雲の色、それに同化していく自分達の体」

「うんうん」

「やがて降り尽くす俄か雨、青空、乾く髪、そして残るのは言い様のない高揚感」

 語るうちに、少しずつエナの表情が変わっていく。

 たぶん、恍惚と表現する類の物だろう。

「へー、エナも知ってたんだ」

「そうよ……だって、蓮谷君に教えてあげたの、わたしなんだもん」

「え?」

「でも、どうかな。昔のことは遠く楽園の出来事のようなものだからはっきりとしてはいないんだけど、ある雨の日に、川原で二人して寝転んでたことがあるの」

「……」

「多分台風か何かの次の日で、ずいぶん水量が増してた。そのせいでほとんど濁流のような川だったけど、随分綺麗だった」

「流木とかゴミとかその他いろんなものが上流から流れていって、時々備え付けの岩に当たると、渦を作って沈んでいく」

「それは、そんな情景だった。子供心に、これが何かの正体なんだと感じたわ」

「その流れを足元に見ながら、ふと横に身体を向けると、そこに誰かいるのよ。それが確か、幼い頃の蓮谷君」

「気づいてた時には、もう寝てたわ。その時はわたしが蓮谷君を連れてきたんだと、そう思ってたから、多分それでいいんだと思う」

「わたしも、そのまま少し眠ったわ。近所の大人が驚いて声をかけるまで」

「それが、私の記憶の中の雨の思い出」

「言ってなかったっけ? わたしと蓮谷君、実は結構歴史のある関係なのよ」

「初耳だよ。でも、私が一度聞いていて、それを忘れたのかもしれない。

 ほら、私って忘れっぽいから」

 えへへ、とごまかす。

「こう言う話は、できるだけ忘れないようにして欲しいな」

 私がすこし怯えた視線を返すと、

「――でも、そんなに大げさなことじゃない。記憶の片隅にでもいいから、それだけでもいいから、ただ、あなたとこの記憶を共有したいの」

「どうして?」

「友達だからだよ」

「友達だから?」

「そう。詠二君とつばめっていう、意外な接点も見つかったわけだし」

「あのさ、なんで詠二君と私がそういう、なんというか……」

 彼女は、くすくすと笑うだけで答えなかった。

「それじゃあ、私と記憶を共有しましょうか。他の人には教えなくてもいい。詠二君にも。これは私たち二人の個人的なことだから」

「でも、私、そんなことしたことない」

「なら、思い浮かべて。雨の降る川岸。寝転がる三人。灰色の空」

「うん……」

「何が見える?

 何が聞こえる?

 何を感じる?

 ――でも、それらは口にしなくてもいい」

「よく……わからないな」

「曖昧なものに対する認識はその程度で充分だよ。わたしももう、あの頃のことをリアルに思い出すことはできない。例の川原に行ったとしても、きっと結果はおんなじ。

 だから――楽園を作るのよ」

「楽園?」

「定義はあなたが自由にして。ただ、そこの園丁に、これこれこういうモニュメントを作ってくれって伝えるだけでいいから」

「うん……」

 そして私は目を閉じて、彼女の言う光景を、出来るだけアンリアルに思い浮かべようと試みた。

 そして眠りのような瞑想。

 ――その中で、私は彼女の言う園丁の姿を見ていたのかもしれない。



 次に私が『私』に戻った時には、窓の外の光景は赤に染まっていた。

 ほんの少し、眠っていたかのような気だるさが体のあちこちに残っている。

 もう教室の中には誰もいない。詠二君も、エナも、誰も。

 空いていた隣の席においてある私の鞄を手に取ると、私もまた、ここからいなくなる一人になることにした。

(それにしても)

 不思議な体験だった。

 朝の時のように、意図的に意識が未来へ飛ぶことはあっても、全くわけのわからないうちにこうなってしまうのは、あまりないことなのだ。

 ……考え直すと、今日はやけに珍しいことが何度も起きている。

 朝の詠二君との会話、エナとのやりとり、屋上と雷鳴と雨、そして楽園――。

 そのどれもが私のとっては印象深く、大切で、楽しいことだった。

 私の知らないどこかで何かの歯車がぴたりとあったような、そんな気がした。

 そうでもなければ、こんなに楽しいことが一日の中に存在するわけがない。



 或いは、誰かが機械仕掛けの神の最後の歯車となったのか。

 だとしたらその歯車はきっと。

 私は頭上に浮かぶ神のごとき歯車を夢想すると、少し可笑しくなって、喉の奥で笑った。



 昇降口で靴に履き替えて外に出ると、あたたかいとも冷たいとも感じない心地よい風が吹いていた。

 昼が終わり、夜が始まる暫時の雰囲気。

 大気はもう乾いていてあの時の名残を感じることはできないが、雨の中で感じた世界との一体感は忘れていなかった。

 ここにあるもの全てが私と同じように濡れ、また私と同じように乾いていったのだ。

 傘を差す人間には決して経験できないこと。

 ゆっくり歩きながら少し口笛を吹いた。

 夕焼け空に吸い込まれていった。



 そして、朝が終わり、昼が終わり、夕が終わり、夜がやってくる。

 私が一人であることをどうしても実感しなければならない時間帯の一つ。

 誰もいない家の鍵をポケットから取り出し、私以外に温められていないドアノブに差し込む。

 無人を包み込む空気が夜空に逆流する。

 構わず私は入り込む。そうする必要が私にはあるから。



 その後の行動は全く機械的といっていい。

 鞄を部屋に置き、着替え、シャワーを浴び、適当に野菜や肉を炒め、食べ、しばらく時間をつぶした後で部屋に戻り、暗い部屋の中でヘッドフォンをつける。

 私がこの家でやる行動は、全く機械的といってもいい。

 けど、私にもまだ人間らしい行動の選択肢が残されている。

 ――戸棚から、一体どのCDを出すか。

 それだけを選び取ったら、また私は機械になる。

 それを聞きながら眠り、次の朝になったらまた起きる機械に。

 私がここでできることは、たったそれだけなのだ。



 暗闇の中で取り出したCDをデッキにかけると、オルガンのメロディーが流れ出してきた。

 よくは覚えていないけれど、多分バッハの曲だったと思う。

 ヨハン・セバスチャン・バッハの曲は、私を心地よい眠りに誘ってくれた。



 ――ああ。

 ――それにしても。

 ――隣りの部屋の、うるさいことといったら。

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