三つ目の燭台
第一場 白い炎
「灰色狼、ですか」
ユノは依頼書をもう一度読み返した。
北の洞窟に魔獣が出没。討伐等級は三。見習い冒険者三名を派遣する。
十年前と同じだった。
村の名前も、洞窟の名前も。
違っているのは、依頼書の端に押された日付だけだった。
ユノは依頼書を伏せ、引き出しを開けた。
古い記録が一冊、残っていた。
十年前、見習い冒険者三名が洞窟へ向かった。
帰還したのは二名。
死亡者、一名。
ミア。
ユノはその名前を指で隠した。
しばらくして、呼び鈴を鳴らした。
「カイとリセを呼んでください」
職員は不思議そうな顔をした。
「二人とも、ですか」
「はい」
「同じ時間に?」
「同じ部屋で」
職員は何か言いかけたが、やめた。
二人が顔を合わせなくなって十年になることは、ギルドの誰もが知っていた。
*
誓問室には、窓がなかった。
厚い石壁に囲まれた部屋に、三脚の椅子。
それぞれの前に、銀の燭台が置かれている。
椅子を少し動かすだけで、脚の擦れる音が壁に返る部屋だった。
カイが先に着いた。
三十を過ぎた男の腰には、古い剣が下がっていた。
「今さら何の用だ」
ユノは答えず、椅子を勧めた。
「誓問の前に、ひとつ確認します」
「何だ」
「この部屋では、正式な問いに、嘘で答えることはできません」
「知っている」
「ただし、ここで照らされるのは、事実ではありません」
カイは眉を寄せた。
「本人が、どれだけその言葉を信じているか。それだけです」
「同じことだろう」
「そうでしょうか」
ユノは燭台の一つに目をやった。
「灯は、手をかざした者の問いにだけ応えます。それ以外の言葉は、ただの言葉です」
そのとき、扉が開いた。
リセだった。
彼女はまず椅子に座るカイを見た。それから、ユノを見た。
「この人もいるの?」
「必要な証人です」
「私には必要ないわ」
「今度の討伐依頼に関する確認です」
リセは足を止めた。
ユノは依頼書を二人の前に置いた。
灰色狼。
洞窟の名前を見て、リセの表情が変わった。
「まさか」
「十年前と同じ場所です」
カイが書類を取り上げた。
「まだ、あそこに出るのか」
「その確認をしたいのです」
二人が座るのを、ユノは待った。
三つ目の椅子には、誰も座っていない。
本来、誓問官は審問の前に、三つ目の燭台に手をかざし、自らに中立を問うて答える。ギルドが何代にもわたって守ってきた作法だった。
ユノは、それをしなかった。
ギルドの事務を長く務めてきたリセがそれに気づいたかどうかは、分からなかった。
*
「最初に、カイさん」
ユノは一つ目の燭台に手をかざした。
銀の皿の中央に、小さな光が浮かんだ。
「十年前、洞窟で聞いた声は、誰のものでしたか」
背後で、扉の金具が小さく鳴った。
「ミアだ」
ためらいのない返事だった。
光が伸びた。
白い炎になった。
「間違いありませんか」
「間違いない。俺の名前を呼んだ。助けて、と」
炎は揺れなかった。
ユノはそれを書き留め、リセの燭台に手をかざした。
「あなたは、何を聞きましたか」
「来ないで、って」
「誰の声でしたか」
「ミアよ」
二つ目の燭台にも、白い炎が灯った。
カイが鼻で笑った。
「だから何だ。お前はあいつを置いて逃げたんだろう」
「逃げたんじゃない。戻れと言われたの」
「それで戻ったのか」
「そうよ」
「一人残して?」
リセはカイを見た。
「ミアはいつもあなたに言ってたわね。あなたは、誰かの役に立とうとしすぎるって」
「それがどうした」
「あの日も、そうだったんじゃないの。助けに行ったつもりで、あの子を危険にさらした」
「何だと」
「言ったとおりよ」
ユノは二人の間に手を置いた。
「確認しましょう」
彼はカイの燭台に手をかざした。
「あなたは、リセさんがミアさんを見捨てたと考えていますか」
「そうだ」
白い炎。
「リセさん。あなたは、カイさんの行動がミアさんを死なせたと考えていますか」
「ええ」
もう一つの白い炎。
カイは燭台を見比べた。
「おかしいだろう」
ユノは黙っていた。
「どっちも正しいなんて、あるわけがない」
「正しいとは申し上げていません」
「じゃあ何なんだ」
「お二人とも、そう信じていらっしゃるということです」
リセが小さく息を吐いた。
「くだらない」
「そうかもしれません」
ユノは記録を続けた。
*
「もう一つだけ」
ユノはリセの燭台に手をかざした。
「ミアさんの『来ないで』という言葉は、あなたに向けられたものでしたか」
リセは答えなかった。
「リセさん」
「……分からない」
炎が消えたわけではなかった。
ただ、その問いに対して、新しい光は生まれなかった。
「どういうこと?」
リセが燭台を見下ろした。
「何を迷っておられるのでしょう」
「迷ってなんかいないわ」
「では、もう一度お聞きします」
「しつこいわね」
ユノは筆を置いた。
リセは口を開いた。
しかし、何も言わなかった。
カイが笑った。
「結局、自分でも分かってないんじゃないか」
「あなたに言われたくない」
「俺は全部覚えている」
「全部?」
「そうだ」
「十年前の、全部を?」
カイは答えなかった。
ユノはその沈黙も記録した。
*
やがて、カイが立ち上がった。
「もう十分だろう」
「まだ終わっていません」
「二人とも証言した。灯だってついてる」
「はい」
「じゃあ、帰る」
カイは扉に手をかけた。
動かなかった。
もう一度、力を込める。
木の扉が軋んだ。だが、取っ手は動かない。
「おい。開かないぞ」
ユノは筆を置いた。
「最初の問いが立ったときに、扉は閉じました。開くには、三つの灯が必要です」
「そんなことは聞いてない」
カイは扉を押した。
今度は、軋みもしなかった。
「……知っていたのか」
ユノは三つ目の燭台を見た。
カイは扉から手を離し、部屋を振り返った。
二つの燭台には、白い炎が灯っている。
三つ目の燭台は冷たいままだった。
「証人は二人だろう」
ユノは答えなかった。
リセも、空いた椅子を見ていた。
「もう一人、呼ぶつもり?」
ユノは書類を閉じた。
そして、三つ目の椅子を見た。
「……そうですね」
それだけ言った。
第二場 呼ぶ声
「三つ目の灯をつければいいんだろう」
カイは扉から手を離した。
「だったら、さっさと呼べばいい。もう一人の証人とやらを」
ユノは返事をしなかった。
依頼書の下から、黄ばんだ紙を一枚取り出した。
古い地図だった。
「十年前の洞窟です」
「そんなもの、見れば分かる」
「では、確認させてください」
入口から一本の道が延び、途中で左右に分かれている。
「カイさんは左へ」
「ああ」
「リセさんとミアさんは、右へ」
「そうよ」
ユノは二人の位置に、小さな銀貨を置いた。
もう一枚を、記録に目を落とすこともなく、右の通路の奥に置いた。
記録にある場所より、指一本ぶん奥だった。
「ミアさんが最後に確認されたのは、このあたりですね」
「そう」
リセは銀貨を見つめていた。
「岩の裂け目があったの。あの子は向こう側にいた」
「姿は見えていましたか」
「背中だけ。ランタンを持っていたから」
「顔は」
「見ていないわ」
「口元も」
リセはユノを見た。
「何が言いたいの」
「確認です」
ユノは筆を取った。
「そのとき、あなたは『来ないで』という声を聞いた」
「そうよ」
「カイさんは、左の奥から『助けて』という声を聞いた」
「ああ」
「どちらが先でしょう」
カイは顔をしかめた。
「そんなことまで覚えているか」
「では、声を聞く直前に何がありましたか」
「地鳴りよ」
答えたのはリセだった。
カイが彼女を見た。
「最初は、遠くで岩が崩れたと思ったの。二度目は、足元から。三度目は……」
リセは言葉を切った。
「三度目は、どこから聞こえたんですか」
「分からない。洞窟全部が鳴ったみたいだった。そのあと……」
「待て」
カイが遮った。
「お前も、三度目だったのか」
リセは答えなかった。
「カイさんも?」
「三回揺れた。その直後に、ミアの声がした」
「同じですね」
「何がだ」
ユノは地図に指を置いた。
「同じ時刻に、別々の場所で、違う言葉が聞こえています」
「反響したんだろう。洞窟なんだから、声くらい響く」
「反響したなら、言葉も同じになるのではありませんか」
「聞き間違いかもしれない」
「そうですね」
ユノは否定しなかった。
カイは舌打ちした。
「何が言いたい」
「まだ、何とも」
ユノは地図を裏返した。
裏には、古い文字で何か書かれていた。ほとんど消えかけている。
リセが身を乗り出した。
「それは?」
「当時の調査記録です」
「そんなものがあったの?」
「正式な討伐記録には、採用されませんでした」
カイが笑った。
「当たり前だ。あのときの魔獣は灰色狼だった」
「見たのですか」
「何?」
「灰色狼を」
カイは黙った。
「足跡はありました。爪の跡も、ミアさんの傷も、狼のものです。ただ、群れはそれほど大きくなかった。見習いとはいえ、三人そろっていれば追い払えた数だと、調査員は書いています」
「なら、なぜ」
「三人が、そろっていなかったからです」
誰も何も言わなかった。
ユノは記録の末尾を指した。
「調査員は、もう一つ書き残しています。三度の地鳴りは、落石によるものではなかった可能性がある、と」
「じゃあ、何なの」
「似た報告があります」
ユノは別の冊子を開いた。
分厚い魔獣図鑑だった。
ページの隅に描かれていたのは、獣とも鳥ともつかない黒い生き物だった。
口がない。
その代わり、首の周りに細い裂け目が幾つも並んでいる。
「ヨビゴエ」
リセが名前を読み上げた。
カイが彼女を見た。
「知っているのか」
「その名前、ミアから聞いたことがある」
リセは図鑑から目を離さなかった。
「何と言っていたんですか」
「人の声を真似る魔獣だって」
「それだけですか」
「……それだけよ」
カイが顔を上げた。
「だったら、どうして俺たちに教えなかった」
「知らないわ」
リセは答えてから、少しだけ声を落とした。
「聞こうともしなかったもの」
ユノは図鑑を二人の方へ向けた。
「この魔獣は、自分で獲物を追いません」
「どういう意味だ」
「獲物を、一人にするのです」
部屋が静かになった。
「声を聞いた者によって、聞こえる場所も、言葉も違った、という記録があります」
「そんな馬鹿なことがあるか」
ユノは何も言わず、図鑑をカイの前へ押し出した。
カイは何も言わなかった。
リセは図鑑を見つめていた。
やがて、ぽつりと言った。
「でも、私は見たわ」
「何をですか」
「ミアの背中を。そこにいたのよ。間違いなく」
「そうでしょうね」
「だったら、あの声だって……」
そこで言葉が途切れた。
ユノは何も尋ねなかった。
二つの燭台では、白い炎が静かに燃えている。
リセは自分の燭台に目を落とした。
「ねえ」
「はい」
「白く燃えているのよね」
「はい」
「だったら、私は間違っていないんでしょう?」
ユノは答えなかった。
「違うの?」
「その灯が照らすのは、あなたがそう信じているということだけです」
リセは炎を見つめた。
しばらくして、小さな声で言った。
「……そうだったわね」
カイが椅子を引いた。
「くだらない。今さら魔獣の種類が違ったところで、何が変わる」
ユノは地図の上の銀貨を一枚、指で押さえた。
ミアの位置を示す銀貨だった。
「もし、ミアさんが、お二人を呼んでいなかったとしたら」
カイは動きを止めた。
「何だと?」
「仮定の話です」
「だったら、するな」
ユノは銀貨から指を離した。
「分かりました」
カイは拳を握っていた。
何か言いかけて、やめた。
その顔を、リセは黙って見ていた。
三つ目の燭台には、まだ火がなかった。
第三場 帰る場所
「仮定の話なら、するな」
カイはもう一度言った。
ユノは図鑑を閉じなかった。
「では、記録にあることだけをお話しします」
「好きにしろ」
ユノはページをめくった。
黒い魔獣の挿絵の隣に、細かな文字が並んでいた。
「ヨビゴエは、声を発する前に首の裂け目を三度震わせます。低い音が岩に伝わるため、洞窟では地鳴りと間違われるそうです」
リセが顔を上げた。
「三度……」
「はい。三度目の震えの直後に、人の声が聞こえると」
カイは腕を組んだ。
「それで、あの声が魔獣だったと?」
「可能性はあります」
「証拠にはならない」
「おっしゃるとおりです」
ユノはあっさり認めた。
カイは面白くなさそうに顔を背けた。
「ただ、ほかの土地で、生き残った人たちの証言が残っています」
ユノは図鑑に挟まれていた古い紙を抜いた。
「ある猟師は、亡くなった母親の声で、こっちへおいで、と聞いたそうです。ある娘は、喧嘩別れしたままの兄の声で、悪かった、と」
リセが紙を見つめた。
「みんな、その声のほうへ行ったの?」
「はい。そして、一人になりました」
誰も口を開かなかった。
石壁が、紙の擦れる音さえ返してくる。
「……聞きたかった言葉ね」
リセが言った。
ユノは紙から目を上げた。
「記録した学者も、そう考えています。聞く者が心の奥で望んでいる言葉を、その者にだけ聞かせる、と」
「例えば、誰かに必要とされたい人なら」
ユノはそこで言葉を切った。
カイが顔を上げた。
「俺のことを言っているのか」
「一般論です」
「だったら続きを言え」
「必要とされたい人には、助けを求める声が聞こえるかもしれません」
カイは何も言わなかった。
「そして、危険な場所から離れたいと思っている人には……」
「もういいわ」
リセが遮った。
ユノは口を閉じた。
少しして、紙に目を戻した。
「魔獣は、人の心を読むわけではないそうです。相手が何を望んでいるのかも、分かってはいない。ただ、望みに触れて、それを声にする」
「便利な化け物だな」
カイが吐き捨てた。
*
しばらく、紙の擦れる音だけがした。
リセは自分の燭台を見ていた。
白い炎が、静かに燃えている。
「ねえ、カイ」
カイは返事をしなかった。
「あなた、本当にミアのことが好きだったのね」
「今さら何だ」
「好きだったから、助けたかったんでしょう」
「当たり前だ」
「そうよね」
リセは小さく頷いた。
「私だって、好きだった」
「だったら、どうして置いていった」
その言葉に、リセは目を閉じた。
十年前。
右の通路は狭かった。
岩の隙間から冷たい風が吹き、奥でミアのランタンが揺れていた。
足を踏み出すたび、小石が靴の下で滑った。
もう少し進めば、戻れなくなるかもしれない。
そう思ったことを、リセは覚えていた。
ミアの背中が見えた。
そのとき、声がした。
来ないで。
リセは足を止めた。
ミアが危ない。行かなければ。
そう思ったはずだった。
けれど、胸の奥で何かが緩んだことを、リセは覚えていた。
リセは目を開け、自分の手を見た。
「……怖かったの」
カイが眉を寄せた。
「何?」
「洞窟の奥へ行くのが、怖かった」
「だから逃げたんだろう」
「違う。戻れと言われたから、戻ったの」
「まだそんなことを」
「ユノ」
リセはカイから目を離した。
「聞いて。正式に」
ユノはリセを見た。
それから、少しだけためらって、彼女の燭台に手をかざした。
「ミアさんの声で『来ないで』と聞こえたとき、あなたは何を思いましたか」
リセは燭台に目を向けたまま答えた。
「……ほっとした」
一度、息を吸った。
「戻っていいんだ、って」
銀の皿の中央に、小さな白い光が生まれた。
それは細く伸び、先に灯っていた炎に溶け込んだ。
リセはその様子を見ていた。
「……本当だったのね」
カイは笑わなかった。
「それで?」
「何が」
「ほっとしたから、何だ。それを認めれば、ミアが帰ってくるのか」
「帰ってこないわ」
「だったら、何の意味がある」
リセは燭台から目を離した。
「意味なんて、知らない」
カイは椅子の背にもたれた。
「俺は違う」
「何が違うのでしょう」
「俺は助けに行った。あいつが呼んだからだ。それだけだ」
ユノはカイの燭台に手をかざした。
「呼ばれたとき、うれしかったことはありませんか」
カイの指が止まった。
「ミアさんに、必要とされたことが」
カイは口を開いた。
しかし、何も言わなかった。
灯は、何も変わらなかった。
リセはカイを見ていた。
ユノも、手を下ろさない。
カイの唇が、わずかに動いた。
「……答えなくていいんだろう」
「はい。沈黙は許されています」
「なら、答えない」
ユノは手を下ろした。
カイは最後まで、燭台を見なかった。
*
「もう一枚、確認していただきたい書類があります」
ユノは古い記録の最後のページを開いた。
薄い紙が一枚、挟まれていた。
リセが先に覗き込んだ。
「何、それ」
「冒険者登録の変更申請です」
「誰の?」
「ミアさんです」
カイが手を伸ばした。
ユノは書類を二人の間に置いた。
そこには、ミアの名前があった。
署名も。
そして、翌月末をもって現在のパーティーを離脱する旨が記されていた。
リセが目を見開いた。
「……知らなかった」
カイは何も言わなかった。
「そんな話、一度もしてなかったわ」
そう言ってから、リセは書類から目を上げた。
「……違う」
「何がだ」
「前の晩。話があるって言ってたの。帰ったら聞いて、って」
カイが顔を上げた。
「俺は、聞いてない」
「あなたは剣の手入れをしてた。明日でいいって、あの子が笑ったのよ」
リセは自分の指先を見た。
「今まで、忘れてた」
「提出は、討伐依頼の三日前です」
「どうして」
リセは書類を手に取った。
「どうして、もっと早く言ってくれなかったの」
「理由は記されていません」
「誰かに相談してなかったの?」
「記録にはありません」
リセは署名を見つめた。
見慣れた文字だった。
ミアは、最後の文字をいつも少し右に跳ね上げていた。
その癖も、変わっていなかった。
「私たちのこと、嫌になったのかしら」
ユノは記録に目を落とした。
カイが書類を取り上げた。
しばらく読んでから、机に戻した。
「関係ない」
「カイ」
「辞めたかったなら、辞めればよかった。でも、あの日はまだ仲間だった。それは変わらない」
ユノは静かに頷いた。
「そうですね」
「だったら、もういいだろう」
カイは書類を指で押した。
「こんなもの、今さら見せるな」
「申し訳ありません」
「謝るくらいなら、最初から出すな」
ユノは紙を元の場所に戻した。
リセはその手元を見ていた。
「ねえ、ユノ」
「ミアは、どこへ行くつもりだったの?」
ユノの手が止まった。
「行き先は記されていません」
「そう」
リセは小さく頷いた。
「私、あの子のこと、何でも知ってるつもりだった」
しばらくして、カイが口を開いた。
「あいつ、暗いところが嫌いだった」
リセがカイを見た。
「怖くなると、鼻歌を歌うんだ。調子の外れたやつを」
「……知ってる」
「あの日は」
カイはそこで黙った。
リセも、続きを聞かなかった。
白い炎が静かに燃えていた。
*
カイは依頼書を手に取った。
「で、今度はどうする」
「何がでしょう」
「見習いを三人、あそこへ行かせるんだろう」
「現在の依頼書では、その予定です」
「やめさせろ」
リセがカイを見た。
「カイ?」
「魔獣が違うかもしれないんだろう。だったら調べ直せ」
「はい」
ユノは筆を取った。
依頼書に書かれた「灰色狼」の文字に、二本の線を引いた。
その下に新しい文字を書き加える。
擬声獣の疑い。見習い冒険者の派遣を禁止する。
日付を入れ、署名した。
カイはそれを確かめた。
「最初からそうすればよかったんだ」
「そうかもしれません」
ユノは筆を置いた。
「ただ、十年前の記録には、その訂正を加えることができません」
カイは依頼書から顔を上げた。
「何でだ」
「確かめられないことが、まだありますから」
「もう十分だろう」
ユノは記録の表紙に手を置いた。
リセが三つ目の燭台を見た。
そこには、まだ火がなかった。
「……ねえ」
ユノが顔を上げた。
「あなたは、何を確かめたいの?」
「一つだけ、まだ聞いていないことがあります」
「誰に?」
ユノは答えなかった。
リセは三つ目の椅子を見た。
それから、ユノを見た。
「あなた、どうして最初に誓いを立てなかったの?」
ユノの表情が変わった。
第四場 三人目
ユノは閉じた記録に手を置いたまま、動かなかった。
「聞こえなかった?」
「いいえ」
「なら、答えて」
ユノは三つ目の燭台を見た。
銀の皿には、まだ何の光もない。
「必要なかったからです」
「そんなはずないわ」
リセは椅子から立ち上がった。
「誓問官は、最初に中立を誓う。それが決まりでしょう」
「はい」
「あなた、それを飛ばしたのよ」
「承知しています」
「だったら、どうして」
ユノは目を伏せた。
カイが椅子の背にもたれた。
「何の話だ」
「誓問官は、自分がこの件に利害を持たないと誓うの。それで三つ目の灯をつける」
「じゃあ、誓えばいいだろう」
「それができるなら、とっくにしているはずよ」
リセはユノを見た。
「そうでしょう?」
ユノはゆっくり立ち上がった。
三つ目の燭台に手をかざす。
「誓問官は、この件に利害を持つか」
自分に向けた問いだった。
「私は、この件に……」
声が途切れた。
カイが顔を上げた。
ユノは一度、唾を飲み込んだ。
「私は……」
持たない、と唇は動いていた。
声には、ならなかった。
リセが一歩、前に出た。
「ユノ」
燭台に光は生まれない。
「……やめなさい」
それでもユノは、手を下ろさなかった。
石の部屋に、誰の声もしなかった。
やがて、ユノは手を下ろした。
「私は、中立ではありません」
リセの表情が変わった。
「何を知っているの?」
ユノは机の上の地図を広げ直した。
三枚の銀貨が、まだそこにあった。
*
「十年前、洞窟では三人が別々の方向に進みました」
ユノは言った。
「カイさんは左の奥へ。リセさんは入口へ戻り、ミアさんは右の奥へ」
「それはもう聞いた」
「ですが、そこにはもう一人いました」
ユノは四枚目の銀貨を取り出した。
小さな銀貨だった。
それを、ミアの銀貨のすぐ隣に置いた。
「何だ、それは」
「子どもです」
リセが息を止めた。
「子ども?」
「当時、村から行方不明になっていた十歳の少年です」
カイは地図を見た。
「そんな話は聞いていない」
「記録にもなかった」
「正式な帰還記録には、ありません」
「なぜだ」
ユノは袖を少しまくった。
手首に、古い傷があった。
白く細い線が、手の甲の近くまで延びていた。
ユノは指先で、その傷を一度なぞった。
「抜け道は、ここにあります」
ユノは地図の右端を指した。
「記録では行き止まりになっていますが、岩の下に、子どもが一人通れる隙間がありました」
リセは銀貨を見た。
記録より指一本ぶん奥に置かれた、ミアの銀貨。
「だから……」
ユノは顔を上げなかった。
「私は、そこを通りました」
沈黙が落ちた。
カイが低い声で尋ねた。
「お前が、その子どもなのか」
「はい」
ユノは袖を戻した。
「私です」
誰もすぐには口を開かなかった。地図の上には、四枚の銀貨が並んでいる。左の奥に一枚、入口の近くに一枚、右の奥には、大きいものと小さいものが寄り添うように二枚。記録にも、二人の記憶にも、そこには一枚しかなかった。二つの燭台の白い炎は、さっきと少しも変わらない高さで燃えていた。
*
リセは椅子に座り直した。
「どうして、黙っていたの」
ユノは地図の端を指でなぞった。
「何年も、ここで働いていたのに。私と何度も顔を合わせたでしょう」
「知っていたの? 私が誰なのか」
「知っていました」
リセは口を閉じた。
カイは立ったままだった。
「お前は、ミアが死んだとき、そこにいたんだな」
「はい」
「何を見た」
「ミアさんが、私を抜け道へ押し込みました。背中を押す手が、冷たかったのを覚えています」
「そのあとだ」
ユノは、袖の上から手首に触れた。
「……ミアさんの声で、『振り返らないで』と聞こえました」
カイが眉を寄せた。
「だから、振り返らなかった」
リセは図鑑に目を落とした。
「……それも、三度目の地鳴りのあと?」
ユノは、答えなかった。
カイが言った。
「ミアは」
「見ていません」
「見ていない?」
「振り返らなかったので」
カイは何か言おうとして、やめた。
拳が、机の縁で止まっていた。
*
リセが静かに尋ねた。
「あなた、私たちを責めていたの?」
ユノは三枚の銀貨を見ていた。
「ミアを置いて逃げたから?」
「そう思ったことはあります」
「今も?」
「お二人が互いを責めていると知ったとき、私は少し安心しました」
カイが顔を上げた。
「安心?」
「はい」
「何でだ」
ユノは口を開いた。
しかし、言葉が続かなかった。
リセは銀貨を見つめていた。
「……私たちが、あなたを責めないから?」
ユノは黙っていた。
その沈黙を、カイが遮った。
「お前を責める理由なんかないだろう」
ユノの指が動いた。
「お前は子どもだったんだ。ミアが助けた。それだけだ」
ユノは顔を上げた。
「そう、でしょうか」
「当たり前だ」
カイは言った。
「子どもを助けるのは、冒険者の仕事だ」
ユノはしばらくカイを見ていた。
やがて、記録に目を落とした。
「……そうですね」
カイはそれ以上、何も言わなかった。
*
「一つ、聞いてもいい?」
リセが言った。
「魔獣のことは、もう分かったわ。見習いの派遣も止めた。なのに、どうしてまだ審問を続けるの」
ユノは三つ目の燭台を見た。
「お二人が互いを責めていることは、知っていました」
「ええ」
「ですが、お二人が何を思っていたのか、直接聞いたことはありませんでした」
カイが言った。
「それで今日、呼んだのか」
「はい」
「俺たちに、自分たちが悪かったと言わせたかったのか」
ユノは筆を指先で転がした。
リセが言った。
「それとも、私たちに言ってほしかったの?」
「何をでしょう」
「あなたのせいじゃない、って」
ユノは顔を伏せた。
長い沈黙のあと、彼は言った。
「そう言っていただけたら、何かが変わると思っていました」
カイは眉を寄せた。
「変わらなかったのか」
ユノは机の上の依頼書を見た。
派遣を禁止する、と書いた自分の文字がそこにあった。
「見習いの三人は、洞窟へ行かずに済みます」
「そうだな」
「それは、よかったと思っています」
「じゃあ、もういいだろう」
ユノは返事をしなかった。
*
「三つ目の灯がなければ、ここから出られないのでしょう」
リセが言った。
「誓いは立てられない。だったら、どうするの」
ユノは燭台に目を向けた。
「中立の誓いは、ギルドの慣わしです」
リセがユノを見た。
「それ以外の答えでも、灯はつくのね」
「はい」
「だったら、あなたは最初から……」
リセは言葉を止めた。
ユノは三つ目の燭台を見ていた。
カイが、扉とユノを見比べた。
カイが腕を組んだ。
「誰が問うんだ。お前が座ったら、問う人間がいない」
「灯は、手をかざした者の問いに応えます。誰が問うかを決めたのは、人間です」
リセがユノを見た。
「自分に、問うの?」
ユノは答えず、誓問官の机を離れた。
三つ目の燭台の前に立つ。
それから、ゆっくり腰を下ろした。
今まで誰も座っていなかった椅子だった。
リセはその様子を黙って見ていた。
ユノは燭台に手をかざした。
「最後に、一つだけ」
カイが顔を上げた。
ユノは二人ではなく、自分の前の銀の皿を見ていた。
「私自身に、確かめたいことがあります」
第五場 分からない
銀の皿は、冷たいままだった。
「何を聞くつもりだ」
カイが尋ねた。
ユノは自分の手を見ていた。
「あの声がヨビゴエだったなら」
カイが続きを待った。
「私は、逃げたかっただけなのかもしれません」
「お前は十歳だったんだぞ」
「はい」
「怖くて当たり前だ」
「そうですね」
ユノは小さく頷いた。
その返事を聞いて、カイは顔をしかめた。
「何だよ」
「何がでしょう」
「さっきから、そうですね、ばかりだ」
ユノは目を伏せた。
「申し訳ありません」
「謝れなんて言ってない」
カイは椅子の背にもたれた。
「俺に何を言ってほしいんだ」
ユノは答えなかった。
*
リセが、机の上の依頼書を引き寄せた。
灰色狼の文字には、二本の線が引かれている。
その下には、見習いの派遣を禁止する旨が記されていた。
「これで、あの子たちは行かずに済むのね」
「はい」
「よかった」
ユノは頷いた。
リセは書類を戻した。
「でも、ミアは帰ってこない」
ユノは頷いた。
リセは三つ目の燭台を見た。
それきり、何も言わなかった。
長い沈黙があった。
やがて、ユノはもう一度、手をかざした。
「ミアさんは」
そこで声が止まった。
少しして、最初から言い直した。
「ミアさんは、私を助けたことを後悔したでしょうか」
銀の皿に、変化はなかった。
カイが口を開いた。
「そんなわけないだろう」
ユノはカイを見た。
「どうしてですか」
「どうしてって……」
カイは言葉を探すように天井を見た。
「助けたかったから、助けたんだろう」
「そうかもしれません」
「そうに決まってる」
ユノは黙っていた。
カイは二つの燭台を見比べた。
「俺が答えてやろうか」
「いいえ」
ユノは首を横に振った。
「これは、私への問いです」
カイは口を閉じた。
*
ユノは自分の前の銀の皿を見ていた。
二つの燭台では、白い炎が燃えている。
誰も口を開かなかった。
ユノは手をかざしたまま、静かに答えた。
「分かりません」
小さな光が生まれた。
それは銀の皿の中央で一度揺れ、細く伸びた。
白い炎だった。
カイが息を呑んだ。
リセは炎を見つめていた。
「……ついた」
ユノは何も言わなかった。
三つの燭台に、同じ白い炎が燃えている。
しばらくして、扉の方から小さな音がした。
金具が外れる音だった。
誰も動かなかった。
*
「こんなことで、開くのか」
カイが言った。
ユノは燭台を見たままだった。
「はい」
「分からないって言っただけだぞ」
「はい」
「だったら、俺たちだって最初からそう言えばよかったじゃないか」
リセがカイを見た。
「あなた、言えた?」
「何を」
「分からない、って」
カイは答えなかった。
リセも、それ以上は尋ねなかった。
しばらくして、カイは立ち上がった。
腰の剣が椅子に当たり、小さな音を立てた。
「俺は」
カイはそこで言葉を切った。
続きは、なかった。
リセは何も言わなかった。
ユノも、顔を上げなかった。
カイは扉へ向かった。
取っ手に手をかける。
今度は、簡単に動いた。
扉が開くと、廊下の明かりが細く差し込んだ。
カイは振り返った。
「……行かないのか」
リセは椅子に座ったままだった。
ユノも動かなかった。
「先に行って」
リセが言った。
カイは何か言いかけた。
しかし、そのまま扉を押し開けた。
廊下から、人の話し声が聞こえてきた。どこかで誰かが笑っている。依頼書の束を抱えた職員が、足早に通り過ぎていく。誰かが今日の稼ぎを数え、誰かが明日の依頼を選んでいる。いつもと変わらない、ギルドの夕方だった。
カイはもう一度、部屋を振り返った。
三つの燭台には、白い炎が灯っている。
それから、廊下へ出た。
扉は、開いたままだった。
(了)




