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死に戻り七回目のわたしは、同じく七回目の公爵令息と犯人を待ち伏せしました

作者: みぎみみ
掲載日:2026/10/28



 鳥籠のカナリアが、三回鳴いた。


 ヘンリエッタ・ヴァレリーは、天蓋つきの寝台の上で目を開けた。


 薄い亜麻のカーテンの向こうから、春の朝の光が差しこんでいる。窓辺の鳥籠の中で、黄色いカナリアが首をかしげて、もう一度、短く鳴いた。暖炉の上の置き時計は七時を指していた。部屋の空気に、侍女が焚いたばかりの、ラベンダーの香が残っている。


 ヘンリエッタはゆっくりと、自分の喉に手を当てた。


 傷はない。血も出ていない。脈がとくとくと指先に伝わってくる。


 ――また、戻ってきた。


 七回目だった。


 寝台の上で体を起こすと、指先が細かく震えはじめた。止めようとしてぎゅっと拳を握った。爪が手のひらに食いこむ。それでも、震えは止まらなかった。


 一回目は十九歳の春だった。結婚式の前の夜、伯爵家の自分の部屋で胸に冷たいものが刺さった。暗闇の中で、目の前にいたのは、婚約者のオリヴァー・アークライトだった。彼の手は血で濡れていた。


 気がつくと、ちょうど一年前の、この朝に戻っていた。


 二回目はもっと気をつけた。夜は侍女を部屋に泊めた。それでも、結婚式の前の夜に、喉が焼けるように熱くなって息ができなくなった。床に倒れたヘンリエッタを抱き起こしたのはオリヴァーだった。彼の腕の中で目の前が暗くなった。


 三回目は階段から落ちた。四回目は馬車が崖から転げ落ちた。五回目、六回目。


 死に方は毎回違った。


 でも、最後に見るものはいつも同じだった。


 オリヴァーの顔。銀色の髪。灰色の目。血に濡れた手。何かを叫んでいる口。声は聞こえない。


 六回とも彼がそこにいた。


 ヘンリエッタは寝台の上で膝を抱えた。


 ――今日は婚約発表の日。


 ヴァレリー伯爵家と、アークライト公爵家。二つの家の婚約が、今夜の夜会で正式に発表される。六回とも、ヘンリエッタはそれを受け入れた。オリヴァーの腕を取って、大広間の人々の前で微笑んだ。


 そして、一年後に死んだ。


「……今度こそ」


 声に出すと、喉がかすれた。


「今度こそ、あの人から、離れる」


 窓辺で、カナリアが、ちちっと鳴いた。




「お嬢様、本日の夜会のドレスですが」


 侍女のミルテが衣装部屋から淡い青のドレスを抱えてきた。六回とも、ヘンリエッタはこのドレスを着た。オリヴァーの目の色に合わせて母が仕立てたものだ。


「別のにして」


「え?」


「灰色のにして。いちばん地味なの」


 ミルテは目をまるくした。


「で、ですが、今夜は婚約のお披露目で」


「だからよ」


 ヘンリエッタは鏡の前に座ったまま、自分の顔を見た。淡い金の髪。緑の目。十八歳の、まだ何も知らない顔。


 ――知らないふりをしなきゃ。


 死に戻っていることは誰にも言えない。言っても、信じてもらえない。三回目のとき、父に打ち明けたら、医者を呼ばれた。


 だから、自分で変えるしかない。


 婚約を受けない。それが無理なら、せめて彼に近づかない。嫌われる。避ける。結婚式の前の夜に、同じ屋根の下にいないように。


 夜会の大広間は蜜蝋の灯りでまぶしいほど明るかった。


 楽団の弦の音。グラスの触れ合う音。香水の匂い。六回、同じ光景を見てきた。どの貴族がどこで、誰と笑っているか、ヘンリエッタは全部知っていた。


 灰色のドレスで大広間に入ると、何人かが、ひそひそとささやき合った。今夜の主役が喪服のような色を着てきた、と。


 それでいい、と思った。


「ヘンリエッタ嬢」


 背後から、声がした。


 低くて落ち着いた声。六回、最後に聞いた声。


 ヘンリエッタの背筋が、凍りついた。


 ゆっくりとふり返ると、オリヴァー・アークライトが立っていた。


 銀色の髪を後ろへ流して紺の礼装を着ている。背が高い。灰色の目がまっすぐにヘンリエッタを見下ろしていた。


 手には血はついていない。白い手袋。


 それでも、ヘンリエッタの膝ががくがくと震えはじめた。


「……公爵子息様」


 声がうわずった。


「今夜は、お招きいただき、ありがとう存じます」


 六回とも、ヘンリエッタは彼を「オリヴァー様」と呼んだ。今夜は呼ばない。


 オリヴァーの灰色の目が、ほんの一瞬だけ、揺れた。


 それから、彼は、ヘンリエッタの灰色のドレスを見た。上から下までゆっくりと。


「……よく、似合っている」


 ヘンリエッタは息をのんだ。


 六回とも、彼は青いドレスを褒めた。「僕の目の色だね」と、少し照れくさそうに笑って。


 今夜は灰色を褒めた。


「お気遣い、恐れ入ります。ですがわたくし、今夜は少し気分が優れなくて。婚約のお話はまた日を改めて――」


「分かった」


 オリヴァーがあっさりと言った。


 ヘンリエッタはまばたきをした。


「え……」


「無理をしなくていい。今夜の発表は延期しよう。父には僕から話す」


 オリヴァーは手袋をはめた手を胸に当てて深く頭を下げた。


「どうか、ゆっくり休んで。……君が、元気でいてくれるのが、いちばんいい」


 そう言って、彼は、人ごみの中へ戻っていった。


 ヘンリエッタは灰色のドレスの裾を握ったまま、立ち尽くした。


 ――何、今の。


 六回、一度もなかった。婚約発表が延期になることも。オリヴァーがこんなにあっさり引き下がることも。


 大広間の向こうで、オリヴァーが、公爵である父親に何か話していた。公爵が眉を寄せてこちらを見た。それから、仕方なさそうにうなずいた。


 その夜、婚約は発表されなかった。


 屋敷に帰る馬車の中で、ヘンリエッタは、窓の外を流れていく王都の灯りを見ていた。


 ――変わった。


 六回、同じだった夜が、七回目にしてはじめて変わった。灰色のドレスを着て、名前で呼ばずに、具合が悪いと言っただけで。


 うれしいはずだった。死の運命から、一歩、遠ざかったはずだった。


 なのに、胸の奥に、小さな棘が刺さったまま、抜けなかった。


 ――君が、元気でいてくれるのが、いちばんいい。


 あの声。六回、最後に聞いた、何かを叫ぶ声と、同じ声。でも、今夜の声は叫んでいなかった。静かで、少しだけかすれていて、ひどく、やさしかった。


 ヘンリエッタは馬車の窓ガラスに、額を押しつけた。ガラスがひんやりと冷たかった。


 窓の外を、王都の灯りが、ひとつ、またひとつと流れていった。どこかの屋敷から、まだ夜会の音楽が、かすかに聞こえていた。六回とも、あの音楽の中で、わたしは笑っていた。今夜は、笑っていない。それなのに、胸のどこかが、ほんの少しだけ、あたたかかった。




 次の日の朝、ヘンリエッタの部屋に花が届いた。


 白い、小さな花。スズランだった。銀のリボンで結ばれて、カードが一枚、添えてあった。


 ――体の具合はどうだろうか。無理に返事はいらない。 ――オリヴァー


 ヘンリエッタは花束を手にしたまま、動けなくなった。


 スズラン。


 ヘンリエッタがいちばん好きな花。でも、誰にも言ったことがない。母も、父もミルテも知らない。子どものころ、亡くなった祖母が、伯爵領の森で一緒に摘んでくれた花。祖母が死んでから、一度も口にしたことがない。


 六回とも、オリヴァーが贈ってきたのは赤い薔薇だった。


「……どうして」


 スズランの花が手の中でかすかに震えた。


 それから、毎朝、花が届いた。


 スズラン。忘れな草。野の菫。どれも、ヘンリエッタが好きな、目立たない小さな花。カードには、いつも短く、一行だけ。体の具合はどうか。今日は晴れている。庭の菫が咲いた。返事はいらない。


 ヘンリエッタは一度も返事を書かなかった。


 夜会にも、お茶会にも行かなかった。オリヴァーが来ると聞いた集まりは全部断った。父には、体が弱いと言いわけした。


 オリヴァーは一度も、無理に会いに来なかった。


 ただ、毎朝、花が届いた。


 ひと月が過ぎるころ、ヘンリエッタは、窓辺に並んだ小さな花瓶の列を見つめていた。三十個。全部、違う花。


 ――分からない。


 この人は一年後に、わたしを殺す人のはずなのに。


 でも、胸の奥で小さな声がした。


 ――本当に?


 六回とも、最後に見たのは彼の顔だった。血に濡れた手だった。でも、刺したところを見たわけではない。毒を盛るところを見たわけではない。


 ヘンリエッタは首を横にふった。


 だめ。信じたら、また死ぬ。


 その週の終わり、ヘンリエッタは、一度だけ、王都の広場の慈善市に出かけた。


 オリヴァーは来ない、と父から聞いていた。公爵家はその日、領地の視察に出ているはずだった。


 広場には、貴族の令嬢たちが手作りの刺繍や焼き菓子を並べた売り台が、ずらりと並んでいた。孤児院の子どもたちが、売り台のあいだを目を輝かせて走り回っている。焼きたての菓子の甘い匂いと、春の土埃の匂いがまじっていた。


 ヘンリエッタは帽子のつばを深く下ろして広場のすみを歩いた。


 そして、見つけてしまった。


 広場の噴水のそばで、銀色の髪の青年が、しゃがみこんでいた。紺の上着を脱いで、シャツの袖をまくって。目の前に、小さな男の子が一人、泣きじゃくっていた。転んで膝をすりむいたらしい。


 オリヴァーだった。


 視察に出ているはずの人が、噴水の縁に腰かけて、男の子の膝に、自分のハンカチを巻いてやっていた。それから、ポケットから飴玉を一つ出して男の子の手に握らせた。男の子がぐすっと鼻をすすって泣きやんだ。


 オリヴァーは男の子の頭をぽんぽんと撫でた。


 ほんの一瞬、口の端が、やわらかく上がった。


 ヘンリエッタは売り台の陰で動けなくなった。


 ――あんな顔、知らない。


 六回、見てきたのは、血に濡れた手と、何かを叫ぶ口だけだった。こんなふうに、やわらかく笑う人だとは知らなかった。


 オリヴァーがふと、顔を上げた。


 ヘンリエッタはあわてて帽子のつばを引き下ろして人ごみの中へ逃げこんだ。心臓が早鐘のように鳴っていた。


 帰りの馬車の中で、ヘンリエッタは、膝の上で手を握りしめていた。


 怖いのか。それとも別の何かなのか。自分でも分からなかった。




 三か月が過ぎた。


 初夏の昼下がり、ヘンリエッタは、伯爵家の庭の東屋で本を読んでいた。


 足音がした。


 顔を上げると、オリヴァーが、生け垣の向こうに立っていた。


 ヘンリエッタの手から、本が落ちた。


「……ごめん。驚かせた」


 オリヴァーは生け垣の手前で立ち止まった。それ以上、近づいてこなかった。


「伯爵に、用があって来た。帰る前に一言だけ、と思って。……すぐに、帰る」


 ヘンリエッタは東屋のベンチの端まで下がった。背中が柱に当たった。


 心臓がどくどくと鳴っていた。逃げたい。でも足が動かなかった。


 オリヴァーは生け垣の向こうから、ヘンリエッタを見ていた。灰色の目。今日は少しだけ、疲れているように見えた。


「ヘンリエッタ嬢。一つだけ、お願いがある」


「……何でしょう」


「君の叔父上が、毎晩、君に薬湯を運ばせているだろう。体を丈夫にする、と言って」


 ヘンリエッタは息をのんだ。


 叔父。父の弟で、伯爵家の領地の差配を任されている人。ヘンリエッタが「体が弱い」と言い始めてから、毎晩、特別な薬湯を作らせて、部屋に届けてくれるようになった。苦い、とろりとした、緑色の。


 ――体が弱いのだから、毎晩この薬湯を飲みなさい。


 叔父は、そう言って、いつものようににこにこと笑っていた。子どものころ、肩車をしてくれたときと同じ笑顔で。


「どうしてそれを……」


「あれを飲まないでほしい」


 オリヴァーの声は静かだった。でも、手袋をはめた手が、生け垣の枝を強く握りしめていた。枝がみしりと鳴った。


「理由は今は言えない。信じてもらえないと思うから。……でもお願いだ。あれだけは飲まないで」


 ヘンリエッタは何も言えなかった。


 オリヴァーは深く頭を下げた。それから、くるりと背を向けて、生け垣の向こうへ去っていった。


 ヘンリエッタは東屋のベンチに座ったまま、落とした本を拾うこともできなかった。


 ――叔父様の、薬湯。


 二回目の死。喉が焼けるように熱くなって息ができなくなった夜。


 あの夜、最後に口にしたのは。


 ヘンリエッタの指先が、冷たくなっていった。




 その夜、ミルテが、銀の盆に薬湯の杯を載せて運んできた。


「お嬢様、叔父上様からの薬湯です」


「……そこに置いておいて」


 ミルテが下がると、ヘンリエッタは杯を手に取った。緑色の、とろりとした液体。薬草の苦い匂い。その奥に、かすかに、甘い、腐りかけた果物みたいな匂いがした。


 ヘンリエッタは窓辺の鳥籠を見た。


 ――ごめんね。


 小指の先に、薬湯をほんの一滴だけつけた。鳥籠の、水入れの皿の縁にそっと垂らした。


 カナリアは首をかしげて水を飲んだ。


 しばらく、何も起きなかった。


 それから、カナリアが、止まり木の上でふらりと体を傾けた。羽をばたばたと動かした。籠の底に、ぽとりと落ちた。


 ヘンリエッタは口を押さえた。


 カナリアは籠の底で、目を閉じて浅い息をしていた。死んではいない。でも動かない。一滴で。


 毎晩、杯一杯。


 ひと月、ふた月と続けたら。


 ヘンリエッタは杯を窓の外に向けて、中身を植え込みの土に全部こぼした。手ががくがくと震えていた。


 ――叔父様が。


 父の弟。幼いころ、肩車をしてくれた人。誕生日には、いつも珍しい菓子を持ってきてくれた人。


 ヘンリエッタが死ねば、伯爵家に跡継ぎはいない。父は病がちで母はもういない。伯爵家の領地も、財産も、全部、叔父のものになる。


 六回とも。


 六回とも叔父だったのだ。


 それなら、オリヴァーは。


 血に濡れた手で、何かを叫んでいたオリヴァーは。


 ヘンリエッタは鳥籠の前に崩れるように座りこんだ。カナリアの、小さな、浅い息の音を聞きながら。


 夜明け近く、カナリアは止まり木に戻った。弱々しく、一度だけ、ちちっと鳴いた。


 ヘンリエッタは泣いた。声を殺して明け方まで。




 次の日、ヘンリエッタは、アークライト公爵家の王都の屋敷を訪ねた。


 三か月ぶりに、自分から。


 通された書斎で、オリヴァーは、机の前に立って待っていた。ヘンリエッタが入ってくると、彼は、驚いたように目を見開いた。それから、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。


「……飲まなかったんだね」


「カナリアに、一滴だけ」


 ヘンリエッタは扉の前に立ったまま言った。


「一滴で倒れました。朝には戻りましたけど」


 オリヴァーの手が机の端を握った。


「オリヴァー様」


 三か月ぶりに、その名前を呼んだ。オリヴァーの肩がぴくりと揺れた。


「どうして、薬湯のことを知っていたのですか。どうして、わたしの好きな花を知っていたのですか。スズランのことは、誰にも言ったことがないのに」


 声が震えた。


「どうして、わたしが、灰色のドレスを着てくると、知っていたような目をしていたんですか」


 オリヴァーはしばらく黙っていた。


 それから、右手の手袋をゆっくりと外した。


 手の甲に、古い傷があった。何本も。斜めに縦に重なるように。刃物で切った傷。火傷のあと。爪で引っかいたような、細い線。


「……七回目なんだ」


 オリヴァーがぽつりと言った。


「僕も」


 書斎がしんと静まり返った。


 窓の外で、どこかの鐘が、昼を告げていた。


「一回目、君が刺された夜。僕は君の部屋の前で扉を叩こうとしていた。結婚式の前の夜に、どうしても渡したいものがあって。中から、物音がして、扉を開けたら、君が倒れていた。窓から、誰かが逃げていった。……君を抱き起こしたとき、もう、間に合わなかった」


 オリヴァーの声がかすれた。


「気がついたら、一年前の朝に戻っていた。君と同じ日に」


 ヘンリエッタの膝から、力が抜けた。扉に、背中を預けた。


「二回目は毒だった。三回目は階段。四回目は馬車。……毎回、僕は君を守ろうとした。でも、毎回、少しずつ、遅れた。君が倒れるところに、駆けつけることしかできなかった」


 オリヴァーは傷だらけの右手を見下ろした。


「この傷は、全部、そのときのものだ。崖から落ちる馬車に飛びついたとき。燃える離れの扉を素手で開けたとき。……戻っても、なぜか、傷だけは消えない」


「……わたし、ずっと」


 ヘンリエッタの目から、なみだがこぼれた。


「ずっと、あなたが、わたしを殺すんだと思っていました。六回とも、最後に見たのはあなたの顔で。血に濡れた手で」


「……知っている」


 オリヴァーは目を伏せた。


「七回目の朝、君が灰色のドレスを着てきたとき、分かった。君も戻っていると。そして、僕を怖がっていると」


「それなら、どうして、何も言ってくださらなかったんですか」


「言っても、信じてもらえないと思った。君の目には、僕は、六回、君の死体を抱いていた男だ」


 オリヴァーは苦く笑った。


「だから、離れていてほしかった。僕から。……君が、僕から離れて、遠くで生きてくれるなら、それでいいと思った。でも、薬湯のことだけは、黙っていられなかった。今回は叔父上だと、やっと突き止めたから」


 ヘンリエッタは扉から背中を離した。


 一歩ずつ、書斎の中へ歩いた。机の前に立つオリヴァーの前まで。


 傷だらけの右手を両手で取った。


 オリヴァーがびくりと肩を震わせた。


「スズランは」


 ヘンリエッタは傷の一本一本を指先でなぞった。


「スズランのことはどうして」


「……五回目に、君が、教えてくれた」


 オリヴァーの声が少しだけ柔らかくなった。


「馬車が崖から落ちて僕が君を抱えていたとき。君はもう、目が見えていなかった。それで、言ったんだ。おばあさまと摘んだスズランの匂いがする、って。……僕の手が血の匂いしかしないのに」


 ヘンリエッタは覚えていなかった。


 五回目の最期。暗くなっていく世界の中で、誰かの腕の中で何を言ったのか。


「だから、七回目は、毎朝、スズランを送ろうと思った。君が生きているうちに。……その匂いが、僕の手の血の匂いじゃなくて、ちゃんと、花の匂いのうちに」


 ヘンリエッタはオリヴァーの傷だらけの手を自分の頬に押し当てた。


 なみだが彼の手の甲を伝って落ちていった。




「結婚式の前の夜に、叔父は必ず動きます」


 その日の夕方、ヘンリエッタは、オリヴァーの書斎の机に、伯爵家の見取り図を広げていた。


「六回とも、結婚式の前の夜でした。式が終われば、わたしはアークライト公爵家の人間になる。そうなったら、もう手が出せない。だから、その前の夜に」


「……君は怖くないのか」


「怖いです」


 ヘンリエッタは見取り図の上で、自分の部屋の場所を指さした。指がまだ少し、震えていた。


「でももう、逃げたくない。六回、何も知らないまま死にました。今度は知っています。それに」


 ヘンリエッタは顔を上げた。


「今度は一人じゃない」


 オリヴァーの灰色の目が大きく見開かれた。


 それから、彼は、ほんの少しだけ、口の端を上げた。


 七回目の人生で、はじめて見る、彼の笑った顔だった。


 婚約はそれからすぐに正式に発表された。


 青いドレスではなく、ヘンリエッタが自分で選んだ、若草色のドレスで。大広間の人々の前で、ヘンリエッタは、オリヴァーの腕を取った。叔父が人ごみの中で拍手をしていた。にこやかに。


 ヘンリエッタはその笑顔をまっすぐに見返した。


 それから、半年。


 ヘンリエッタは毎晩、叔父の薬湯を受け取ってこっそり捨てた。体の弱い令嬢のふりを続けた。叔父には、少しずつ弱っていくように見せた。


 オリヴァーは毎朝、花を送ってきた。カードの一行は少しずつ長くなった。今日は雨だ。君の窓辺の菫は雨に濡れてもきれいだろうか。昨日、君の笑い声を夢で聞いた。


 ヘンリエッタははじめて返事を書いた。


 ――菫は、雨のあとのほうが、香りが強くなります。今度、一緒に嗅いでください。


 次の雨上がりの午後、オリヴァーは伯爵家の庭に来た。


 二人で濡れた石畳の小道を歩いた。生け垣の根もとに、紫の菫が、小さく群れて咲いていた。花びらに、雨のしずくが、まだ光っていた。


 ヘンリエッタがしゃがみこむと、オリヴァーも、となりにしゃがみこんだ。


「……ほんとだ」


 オリヴァーが目を閉じて息を吸った。


「雨のあとのほうが、強い」


「でしょう」


 ヘンリエッタは菫の花を一輪、そっと摘んだ。それをオリヴァーの上着の胸ポケットに差しこんだ。


 オリヴァーが目を開けた。胸ポケットの菫を見下ろして、それから、ヘンリエッタを見た。


「……七回目ではじめてもらった」


 ヘンリエッタは自分の頬が熱くなるのを感じた。


「花を?」


「君から、何かを」


 オリヴァーの耳の先が、赤くなっていた。


 ヘンリエッタは濡れた菫の匂いの中でくすっと笑った。六回の人生で、この人の前で、こんなふうに笑ったことはなかった気がした。




 結婚式の、前の夜。


 ヘンリエッタは自分の部屋の寝台に横になって目を閉じていた。


 眠ってはいなかった。心臓がどくどくと鳴っていた。毛布の下で両手を握りしめていた。


 六回、この夜に死んだ。


 暖炉の火が小さくはぜた。窓の外で、春の夜風が、木の枝を揺らしていた。鳥籠のカナリアは、布をかけられて眠っている。


 置き時計が真夜中を打った。


 かちり、と、小さな音がした。


 窓の掛け金が外から、細い針金で持ち上げられる音。


 ヘンリエッタは息を止めた。


 窓が音もなく開いた。夜風がカーテンを揺らした。黒い影が窓枠をまたいで、部屋の中に降り立った。


 影は寝台に近づいてきた。月明かりに、手の中の刃が、細く光った。


 ――一回目と、同じ。


 刃が振り上げられた。


「そこまでだ」


 寝台の陰から、低い声がした。


 クローゼットの扉が、勢いよく開いた。オリヴァーが飛び出して影の腕をつかんだ。刃が床に落ちてからんと鳴った。


 同時に、部屋の扉が開いて、灯りを持った公爵家の騎士たちが、なだれこんできた。


 影の顔を覆っていた布が、騎士の手で引きはがされた。


 叔父だった。


 灯りに照らされた叔父の顔は、汗に濡れて青白かった。目がぎょろりと動いて、寝台の上のヘンリエッタを見た。


「ヘ、ヘンリエッタ……おまえ、薬湯を飲んで弱っていたはずでは」


「一滴も飲んでいません」


 ヘンリエッタは寝台から立ち上がった。


 膝が震えていた。でも声は震えなかった。


「叔父様。わたし、小さいころ、叔父様に肩車してもらうのが、大好きでした」


 叔父の顔がひきつった。


「だから、六回も気づけなかった」


「……六回?」


 叔父は意味が分からないという目でヘンリエッタを見た。


 ヘンリエッタは答えなかった。


 騎士たちが叔父を両側から押さえて、部屋の外へ連れ出していった。廊下の向こうから、叔父のわめき声が、だんだん遠ざかっていった。


 部屋に、静けさが戻った。


 ヘンリエッタの膝から、力が抜けた。床に崩れ落ちそうになったところをオリヴァーの腕が、抱きとめた。


 七回目にして、はじめて、生きたまま、彼の腕の中にいた。


「……終わった」


 オリヴァーの声が、ヘンリエッタの髪の上で震えていた。


「終わったよ、ヘンリエッタ」


 ヘンリエッタはオリヴァーの胸に顔をうずめた。紺の上着から、夜風の匂いと、かすかに、スズランの匂いがした。


 ――血の匂いじゃない。


 ヘンリエッタは声を上げて泣いた。七回分。




 その夜、二人は眠らなかった。


 ヘンリエッタの部屋の窓辺に、並んで座っていた。布を外した鳥籠の中で、カナリアが、眠そうに羽をふくらませていた。


「オリヴァー様」


「うん」


「一回目の夜、わたしの部屋の扉を叩こうとしていた、って。渡したいものがあったって」


 オリヴァーは少しだけ黙った。


 それから、上着の内側から、小さな布の包みを取り出した。


 包みを開くと、銀の指輪が一つ、入っていた。細い輪に、小さなスズランの彫刻。花びらの一枚一枚まで丁寧に彫りこんである。


「七回、渡しそびれた」


 オリヴァーの指先が、少しだけ震えていた。


「最初に作らせたときは、ただ、君がスズランを好きだと、どこかで聞いた気がしただけだった。……五回目に、君の口から本当に聞いて。それから、ずっと、持っていた。戻るたびに、なぜか、これも一緒に戻ってきた。傷と同じように」


 ヘンリエッタは指輪を見つめた。


 一回目の夜。扉の前で彼はこれを握っていた。結婚式の前の夜に、どうしても渡したくて。


 中から物音がして扉を開けて。


「……ずっと、持っていてくださったんですね」


「七年分」


 オリヴァーはヘンリエッタの左手を取った。


 傷だらけの指で、銀の指輪をヘンリエッタの薬指にそっとはめた。


「ヘンリエッタ。……明日、僕と、結婚してくれないか」


 ヘンリエッタは指輪を見下ろした。スズランの彫刻が、月明かりに白く光っていた。


 七回、この人の腕の中で死んだ。


 七回、この人は間に合わなかった自分を責めながら、また一年前に戻ってやり直してきた。


 一度もわたしから離れずに。


「はい」


 ヘンリエッタは笑った。なみだの跡が頬に残っていた。


「今度は、ちゃんと、明日の朝を一緒に見たいです」


 オリヴァーがヘンリエッタを抱き寄せた。


 窓の外で、空の端が、少しずつ、白くなりはじめていた。


 七回目にして、はじめて見る、結婚式の朝の空だった。


 鳥籠の中で、カナリアが、三回鳴いた。




(完)


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