●第九話 フィーナ
こちらを見た彼女は驚いて目を見開き、とっさに俺たちから距離を取ろうとした。しかし、動いて腹の傷が痛んだようで、彼女は腹を押さえて小さく悲鳴を上げた。
「動かないでくれ。怪我に響く」
「大丈夫、私たちは危害を加えたりしないわ」
俺とクローディアで、ジェスチャを交えつつ、なんとか落ち着かせる。
彼女は警戒しているものの、素早く左右に目を走らせ、そして自分の腹の状態を見て、「エッ!?」と驚いた。
「イールシャ、ルルエ?」
かすれた声でそう言った。
意味は皆目わからない。ただ、その声には敵意がなく、むしろ混乱と疑問が入り混じっていた。
俺は水筒を手に取り、焚き火越しにそっと差し出した。
警戒の色を浮かべながらも、彼女は視線を彷徨わせたあとにゆっくりと受け取ると、やがて口をつける。
飲み終えると、かすかに「……リオ―シ……」と呟いた。
礼なのか、別の意味かはわからない。ただ、微かに笑ったようにも見えた。
その一瞬で、張りつめていた空気が少しだけ柔らかくなる。
「クロ、どうだ?」
「解析率はまだ三パーセント。遺伝子はそっくりだけど、さすがに銀河同盟の言語体系とは全然違うもの。ただし、ゴブリンと違って、交渉が可能な確率は九十八パーセントだよ!」
「そんなの俺だって見ればわかるぞ」
「ムー」
「ストック!? ニーシズ ストック!」
おっと、さすがに猫が喋るとまずかったか。
「ニー、ニー」
今更だが、クロが猫のフリをして自分の手を舐める。
「ネイ! イッヒラングニーシズストックパルフェット!」
彼女がクロを指さしてムッとしながら言う。
「仕方ない、クロ、普通に喋って良いぞ。『今、絶対に私は喋ったの見た!』って言ってる感じだし、そのほうが言語解析も早いだろう」
「ちょ、ちょっと、何言ってるのよ。大航海以前の技術なら、ロボットなんてあり得ないでしょ」
「でも、もう見られたし。ここには学習装置もないから記憶も変えようがない。秘密にしておいてくれるよね?」
目配せしながら問うと、俺とクローディアを見比べて少し考えた彼女は、ニッコリ笑って優雅にうなずいた。
「エントリューン!」
それから、クロを通訳に挟んで、彼女と話をした。
「イッヒ、ナーメ、セラ――ネイ、フィーナ。イッヒ、ナーメ、フィーナ」
彼女が姿勢を正し、自分の胸に手を当てて真面目な顔で何度も繰り返す。おそらくそれが彼女自身の名前だろう。
「ええと……ナーメ・フィーナさん?」
「いいえ、フィーナ。フィーナだけで結構です。それと、アーガイル、この水筒の持ち主は見ル違イマスがどこに?」
「それが、彼はおそらくクマにやられて……」
「死んだわ」
「ソ、ソーズエスト。ううっ」
やはり、近くで死亡していた騎士は彼女の連れだったようで、その事実を知った彼女は涙を流して辛そうにしていた。
泣きじゃくる声だけが、洞窟の石壁に静かに反響する。
俺たちはただ、火の粉が舞うのを見つめるしかない。
――やがて、彼女は顔を上げた。
「あなたは、私をフォンデム忌まわしきものから、助けた」
俺たちはうなずき、ここまでの経緯をジェスチャを交えながら説明した。
「そうでしたか……。本当に助けて頂いて、アロースの言葉もありません。このご恩は必ずツーリッペン」
まだところどころ翻訳が失敗するが、フィーナの表情や仕草と声のトーンからだいたいの意味は推測できた。敬語でないほうが伝わりやすいかな。
「気にしないでくれ。当たり前のことをしただけだよ。それにしても、クロ、お前、そこまで高性能だったんだな」
「ええ? 今頃気づいたの? ハルト。でも、やっぱり同じ人間だからか、ジェスチャや表情の非言語情報のシンクロ率が高くて助かったよ。ゴブリンとは大違いだ」
「ハルトさんの使い魔、クロさんも、とても優秀なのですね。しかもなんて愛らしい。ナデナデしてもいいですか?」
「どうぞ」
クロも自分からフィーナにすり寄り、友好関係を築こうとあざとく振る舞っている。クローディアは複雑な表情でそれを見ていたが、制止はしなかった。
「んん? まさか。ハーティが無い?」
途中、怪訝な顔をしたフィーナがクロをなでるのをピタリとやめた。ああ、そういえば、クロには体温機能は付けているが、心音機能はなかったな。うーん、どう説明したものか。
「あのぅ、つかぬことをお伺いしますが、ハルトさんは、死霊魔術師なのですか……?」
おそるおそる尋ねてくるので、俺は笑顔で否定する。
「いいや、あえて言えば、人形術師かな。死人は生き返らせることはできない」
「ああ、なるほど。良かった」
ほっとしたような彼女の反応は、自分がゾンビにされているのではと疑ったか、それともこの世界の宗教的タブーだったか。とはいえ、死人を生き返らせる術などあるはずもないか。




