●第七話 帰還不能点(ノーリターン・ポイント)
夜の風が静かに焚き火の炎を揺らした。
クローディアは先ほどからずっと黙って炎を見つめている。炎はそんな彼女の頬を淡く照らしていた。
少し離れた場所には、昼間助けた少女のテントが微かに光っている。
このテントは少女の同行者だったと思われる騎士が背負っていた持ち物だ。ただ、その騎士は発見したときにはすでに死亡していた。少女の体温維持のためやむを得ず拝借したことを伝えなければならないのだが……今から気が重い。銀河同盟軍の戦闘スーツは生体ID認証が組み込まれているため、他人に貸し与えたくてもできないのだ。
少女達の文明には、金属器も羅針盤もある。だが、望遠鏡も、蒸気も、電信もなかった。
「……つまり、この星は、宇宙どころか、まだ海の向こうを知らない」
俺は重い事実を口にした。
「そうね。星間通信も、衛星軌道も存在しない。重力場観測の痕跡すらないわ。――帰還手段は無い」
クローディアの声は淡々としていたが、その手の震えは隠せていなかった。
しばらく沈黙が続いた。
火のはぜる音だけが響く。
「……それでも、何か方法を探さなければならないわ」
「方法って、どんな?」
「残骸のスラスターを改造して、重力波を発信するの。量子同期は無理でも、エネルギーパターンで救難信号を、ランドール・サンドラム・モデルに乗せられれば――」
とても上手く行くようには思えなかった。
「成功率は?」
「十五パーセント……いえ、もっと低いかもしれないわ」
「じゃあ現実的じゃない。危険もある」
俺は焚き火の枝をひとつ投げ込んだ。火の粉が弾ける。
「俺たちはもう、戦線にいない。ここは辺境の、地図にもない星だ。俺たちが生き延びて、現地と共存できる道を探すほうが――」
「それは任務放棄よ」
クローディアが途中で鋭く遮った。
「軍人として、脱出と報告を最優先するのが原則でしょう。私たちはこの星を観光に来たわけじゃないの」
「それはわかってる。でも、現実を見ようよ。船も壊れ通信も尽きた。条約だけを律儀に守って生きていくのが、軍人の誇りなのか? 俺たちはアーシアの人々を誰一人守れてはいないのに」
何のための軍人か?
俺はそう問わずにはいられなかった。
「……っ」
クローディアは唇を噛み、目を伏せた。
その沈黙は、同意に近かった。
焚き火がぱちぱちと鳴る。
風が二人の間を抜けていく。
やがてクローディアが静かに言った。
「アーシアに貢献するというのなら、この星の文明を観察する価値はあるわ」
「大航海以前の文明を?」
「ええ。彼らの文化、社会構造、技術水準。記録を残せば、いつか誰かが見つけるかもしれない。そうすれば――私たちは、“ここで軍人として生きた証拠”になる」
「それは、報告じゃなくて遺言だな」
「ええ。でも、放棄よりはまし」
俺は少し笑った。別に馬鹿にしたわけではない。クローディアが彼女なりに筋を通そうと努力する姿勢にある種の心強い感銘を受けたのだ。
「じゃあ、任務名をつけよう。ここでの生存と観察、そして生の記録を残す――『アーシア観測隊、観察任務』だ。」
「皮肉ね。『母なる地球』の名を、こんな星で使うなんて」
「でも、いい名前だと思う」
クローディアは少し考えてから、頷いた。
「……分かったわ。明日から、拠点を構築しましょう。記録用データベースを作って、観測と調査を並行して進める。現地との接触は最小限に」
「了解、司令官殿」
俺が敬礼の真似をすると、クローディアはため息をついた。
「あなた、本当に軽いのね」
「そうでもしないと、心が持ちそうになくてさ」
その言葉に、彼女は初めて小さく笑った。
焚き火の光がその笑みを照らし、夜の静けさの中で、
俺たち二人はようやく――生きるための『次の任務』を共有したのだった。




