第98章 封印された伝承庫 ―黒牛の群れと失われた魔法文明―
牛の群れは非常に速く走り、あっという間に数十メートルの距離まで突進してきた。
だが、ここはまるで天然の要害のようだった。牛たちが蹄で土を掘り返しても、崖を登ることはできない。
もがき、吠え、暴れ回る彼らの姿を見下ろしながら、フィルードは静かに息を吐いた。
(ここまで追い詰められたのは久しぶりだ……。だが、これで終わりだ。俺たちの勝ち筋は、最初からこの峡谷にあった)
やがて、牛たちの動きが鈍り始めた。体力のほとんどを消耗している。
時機が熟したと見るや、フィルードは大きく手を振り上げ、鋭く命令を下す。
「――あの最大の黒牛を狙え! 放てッ!」
その声が谷に響き渡ると同時に、兵士たちは一斉に長剣を振り下ろし、固定ロープを断ち切った。
耳をつんざくような音が響く。
親指ほどの太さを持つ特大の矢が五十本、稲妻のような速度で放たれ、最前方に立つ巨大な黒牛へと一直線に飛んでいく。
巨大な黒牛は全身に青い光をまとう。筋肉が波打ち、まるで魔獣そのもののように膨れ上がった。
矢がその体に当たると、「キイイイッ!」と金属を裂くような音が響いた。
だが――防げたのはわずか九本。残りの矢は容赦なくその体内に深く突き刺さる。
「これが……“超凡級”の魔獣か。だが、俺の策を侮るなよ」
激痛に黒牛は咆哮を上げた。その声は空気を震わせ、鼓膜を突き破りそうなほどだった。
フィルードは目を細め、冷静に命中数を数える。
(命中三十本以上……いい命中率だ。あの首の動脈を貫いた数本――あれが致命傷になる)
黒牛の首から噴水のように血が吹き上がる。
訓練された兵士たちはすぐに次の動作へと移り、巻き上げ機を回して弦を再装填した。
まるで一糸乱れぬ機械のような動きだ。
牛の群れは、リーダーが血を噴きながら苦しむ姿を見て、さらに狂暴化する。
しかし、すでにその行動は予測済みだった。
「次だ、装填完了次第、全弩車一斉射!」
フィルードの手が再び振り下ろされる。
五十本の巨大な矢が再び空を裂き、残る数頭の超凡な黒牛へと襲いかかる。
その瞬間――黒牛たちの身体が弾けるように崩れ落ちた。
耐えきれる者は、一頭もいなかった。
(やはり、訓練の成果は確実に出ている。俺たちは、もはや“ただの傭兵”ではない)
大量の普通の黒牛が恐慌状態に陥り、哀れな鳴き声を上げながら逃げ散った。
フィルードは冷静に手を上げ、兵士たちに前進を命じる。
「……全員、慎重に進め。残敵を確認しろ」
近づいて確認すると、超凡な黒牛たちはほとんど動かなくなっていた。
全身が矢で覆われ、ハリネズミのような姿だ。だが、その皮膚は驚くほど厚い。
徹甲矢じりでも貫通しきれず、肉の奥深くまでは届いていなかった。
最大の黒牛は両脇の皮がまるで鉄板のようで、首を貫いた数本の矢だけが致命傷になっていた。
「……これが、異界の“魔牛”か。これほどの防御力、人の軍勢なら一瞬で壊滅だな」
フィルードは兵士たちに血液の採取を命じた。
地面にこぼれた血すら泥とともに掬い取る。
それは金よりも価値のある素材になるからだ。
数十人の兵士をその場に残して見張りに当て、フィルードは残りを率いて群れの逃げた方向へと追撃を開始した。
兵士たちは弩車を担ぎ、弦を再装填して走る。
地形が平坦になると、一行はさらに速度を上げた。
ついに――峡谷の奥へとたどり着いた。
だが、その瞬間。フィルードの眉がわずかに動いた。
(……魔力だ? この大地に、まだ“魔力”が残っている?)
外界ではほとんど感知できないはずの魔力が、確かにここに流れていた。
谷の入口を塞ぐように立つ数十頭の黒牛たち。
フィルードはすぐに命令を飛ばす。
「弩車、前へ! 一斉射!」
数度の射撃で、成体の黒牛はほぼ全滅した。
彼はブルースとマイクを伴い、さらに奥へと進む。
進むほどに魔力は濃くなり、地面には青白く光る魔植が現れ始めた。
その葉には噛み跡が――あの黒牛たちの仕業だ。
さらに数十メートル進むと、突然、体が何かに押し返されるような感覚に襲われた。
「……結界か?」
空気が歪む。
全員が息を呑む中、フィルードは壁のような“見えない障壁”に手を当て、集中した。
(これはただの防御結界じゃない。……何かが“中に閉じ込められている”)
彼は座り込み、魂力を巡らせて感知を深める。
すぐに、わずかな“ひび”のような歪みを見つけた。そこが魔力の最も濃い一点だった。
(ここだ。……まるで俺を招いているようだな)
歯を食いしばり、手をひび割れに押し当てる。
瞬間、光が走った。
フィルードの手が――障壁をすり抜けたのだ。
「……入れる。ここは、俺を拒んでいない」
彼は振り返り、仲間に短く告げる。
「二人はここで待て。安全を確認したら呼ぶ」
そして反応を待たずに、彼は結界の中へ身を滑り込ませた。
全身が圧迫されるような重力に包まれる。
咄嗟に魔力を全身に巡らせ、体を守る。
「ぐっ……! この圧……だが、まだいける!」
ようやく中に入り込むと、鼻を突くカビ臭が襲ってきた。
思わず咳き込みながら、フィルードは周囲を見渡す。
そこには――巨大な石室が広がっていた。
(……これは、遺跡か? いや、違う……これは“造られた知識の庫”だ)
積み上げられた書物の山。中央には淡く輝く水晶。
魔力濃度は異常なほど高く、まるで魔石の中心にいるかのようだった。
フィルードは慎重に一冊の本を手に取り、ページを開いた。
そこに記されていたのは、千年を超える時を越えて語りかける“声”だった。
『後世の魔法使いよ、こんにちは。お前は漏れ出た魔力に引き寄せられてきたのか?
それとも、この場所から噴き出した光の柱に導かれてきたのか?』
(……まさか、これが“伝承庫”――最後の魔法学院の遺産?)




