第96章 傲慢の代償─燃え尽きる貴族の矜持
チェリルは兵士たちを率いて馬小屋へと突入した。
火の手が夜空を赤く染め、馬たちは恐怖に嘶いていた。
彼女が短く号令をかけると、兵士たちは次々と手綱を切り始める。
――いいぞ、暴れろ。お前たちの蹄音が、奴らの悪夢を呼ぶんだ。
自由を得た馬たちは一斉に駆け出した。
わずか百頭足らずの戦馬が、まるで嵐のように陣をかき乱しながら夜闇へ消えていった。
ここまでで任務の半分以上が完了だ。
チェリルは燃え盛る炎を背に、振り向きもせず次の戦場へ向かった。
農奴兵たちはテントの中で震え上がり、まるで巣に隠れる小鳥のようだ。
動こうとするのは、わずかな正規兵のみ。
その怯え切った様子に、チェリルは冷ややかな笑みを浮かべた。
「分隊単位で動け。三人一組、一つのテントを担当。突入して一通り斬りつけたらすぐ撤退だ。――長居は命取りだ、忘れるな。」
言うやいなや、彼女は最初のテントへと飛び込んだ。
闇に閃く大剣。
血の飛沫が灯火に照らされ、赤い花のように散った。
続く兵士たちもそれに倣い、次々とテントへ突入していく。
そして、峡谷には豚を屠るような悲鳴がこだました。
農奴たちはまるで生まれたばかりの子犬のように震え、わずかに刃が触れただけで天地を揺るがすような悲鳴を上げた。
やがて、兵士たちは命令通りすばやく撤退していく。
だが、混乱は止まらなかった。
農奴兵たちはパニックに陥り、陣営を四方八方に逃げ惑う。
その勢いは、まるでダムが決壊したようだ。
彼らの暴走は、皮肉にも味方の正規軍を蹴散らし、混乱の波はさらに拡大していった。
激昂した正規兵が剣を抜いた瞬間――混乱は最高潮に達した。
「敵だ!」「違う、味方だ――ぎゃああっ!」
地獄絵図。
夜光の中、混乱は爆発的に広がっていく。
遠くからその光景を見ていたフィルードは、腕を組みながら呟いた。
「……やはり、狙い通りだな。」
炎に照らされた彼の横顔には、不敵な笑みが浮かんでいる。
敵の陣営は完全に崩壊していた。
「よし、兵を休ませろ。夜明けには次の一手を打つ。」
冷静な声で指示を出すと、彼は城壁の上に篝火を灯させ、奇襲部隊の帰還を導いた。
やがて、闇を切り裂くように奇襲兵が戻ってきた。
出撃103名。帰還91名。
残る12名は――おそらく、もう戻らない。
「よくやった。あとは俺たちの番だ。」
夜はまだ明けきらぬ。
だが敵陣では、まるで永遠に夜が続くかのような混乱が続いていた。
夜明けとともに、ヴァール子爵は焼け焦げた陣営を呆然と見つめていた。
彼の目の前には、瓦礫と灰。
焼けた食糧の山、逃げ散った馬、そして地に転がる無数の死体。
「……なぜだ。なぜ私が、こんな……。」
もはや嘆く気力すら残っていなかった。
農奴兵の三分の二は逃亡、正規兵の半数も行方不明。
軍用物資は散乱し、まるで災厄が通り過ぎた後のようだった。
彼は空を仰ぎ、しわがれた声で呟いた。
「……兵をまとめ、領地へ撤退せよ。」
その言葉が終わるより早く、木柵の門が爆ぜるように開かれた。
「出撃だッ!」
フィルードの声が響く。
先頭には二十名の騎兵――ジャッカルマンの戦士たちが飛び出し、その背後から五百の歩兵が規律正しく進軍してくる。
ヴァール子爵はその光景を見て、顔を引きつらせた。
「……ば、化け物め。」
敵兵たちは一晩中の混乱と疲労で、まるで亡霊のようだった。
それでも子爵の怒号に支えられ、何とか陣を組み直す。
しかし――その気迫の差は、誰の目にも明らかだった。
100メートルの距離で、弓兵同士の矢が交錯する。
矢羽根が風を裂き、幾つもの命を奪っていく。
だが、フィルードは微動だにしなかった。
「矢など怖れるな。盾を上げろ、進め。」
彼の声には、不思議な力があった。
その一言で兵士たちの士気が一気に高まる。
――俺たちは勝てる。いや、勝つしかない。
距離が十数メートルに迫る。
敵は槍や斧を投げつけてきたが、鉄盾がそれを弾き返した。
「止まれ!陣形を整えろ!」
フィルードの命令が飛ぶ。
刀盾兵が前列を固め、槍兵が肩越しに長槍を突き出す。
その背後から投槍が次々と飛び、敵の隊列に突き刺さる。
ヴァール子爵は焦燥の色を隠せなかった。
「鉄甲兵、突撃だ!あいつらを押し潰せ!」
だが、その命令に応じた兵士たちは、すでに疲弊し切っていた。
重い鎧に動きは鈍り、槍を構える手が震えている。
激突の瞬間、勝敗は決した。
わずか数分で敵の陣形は崩壊し、子爵軍の士気は地に落ちた。
フィルードは前線を見つめながら静かに息を吐いた。
「……終わりだ、ヴァール。」
マイク率いる騎兵隊が敵陣の背後を駆け抜け、投槍を雨のように浴びせる。
もはや抵抗の意思を持つ者はいなかった。
残ったのは、ヴァール子爵と三名の親衛。
全員が超凡者――貴族の誇りを捨てきれぬ者たちだ。
フィルードは前に出た。
「ヴァール子爵、もう終わりです。降伏なさい。あなたに貴族らしい最期を与えましょう。」
しかし、ヴァールは狂気の笑みを浮かべていた。
「降伏?この俺が?笑わせるな!殺したければやってみろ!
我ら三人は貴族だぞ。殺せるものなら、殺してみろ!」
フィルードは眉をひそめた。
確かに、ここで無理に突撃すれば被害は避けられない。
一拍置いて、彼は低く言葉を放った。
「あなたと私は、もともと争う理由などなかった。
ただ、あなたの部下――いや、息子かもしれぬが――彼の愚かな貪欲さが、この戦を呼んだのだ。」
ヴァールの目がわずかに揺れた。
「もし、あなたが身代金を払っていれば……こんな結末にはならなかった。
だが、あなたの傲慢さが、それをすべて閉ざした。」
フィルードは馬上で槍を掲げ、冷たく続けた。
「あなたは、あなたが軽蔑した“泥足の田舎者”に敗れた。
だが安心しろ――俺は貴族の矜持を理解している。
あなたを辱めるつもりはない。ただし――代償は払ってもらう。」
彼は手を掲げ、部下に合図した。
「あなたの部下――あの赤ひげの男の指、切り落とされたままだろう?
今すぐ王都に送り、治療を受けさせろ。七日を過ぎれば、もう繋がらん。
その程度の情けを、俺はまだ持っている。」
沈黙。
ヴァールは唇を震わせ、ついに膝を折った。
――傲慢の代償は、あまりにも高くついた。
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