第7章 初陣、血の代償と勝利の実感
フィルードは相手を睨み据えたまま、槍の穂先が盾から五寸(約十五センチ)も離れていない距離で、素早く腰を捻った。
(来る。真正面で受けたら、俺の骨が先に折れる)
長槍が盾の縁をかすめて空を切る。紙一重――だが、その“紙一重”を作るのが戦いだ。
フィルードはその流れのまま、手にした盾を青年の肩へ叩きつけた。
鈍い衝撃が手首から肘へ突き抜ける。
同時に、匕首を短く、速く、容赦なく突き出す。
狙いは腹。装甲の薄い、呼吸と血が集まる場所。
ズブリ、と嫌な感触が指まで伝わった。すぐに引き抜く。
青年は悲鳴を上げ、木槍を投げ捨て、両手で盾を掴んで必死に引き剥がそうとした。
(やめろ。これを剥がされたら、次は俺が刺される)
フィルードは歯を食いしばり、盾を引っ張った。右手の匕首が、狂ったように上下する。
刺す。引く。刺す。引く。
この単純な反復が、命の差を作る。
青年も発狂していた。掴む力が異常だ。盾が滑り、指が千切れそうになる。
腕が、痛みで引き裂かれる感覚がした。
(痛い? 当たり前だ。
だがここで手を離す奴から死ぬ)
激痛を堪えながら刺突を繰り返す。盾の表面が赤く染まっていく。
何度刺したか、もう覚えていない。
ただ“止めたら終わり”という一点だけが頭の奥で鳴り続けていた。
やがて――青年の抵抗がふっと途切れた。
体が重く地面へ倒れ込み、口から荒い息が漏れる。血が絶えず流れ出て、土を黒く濡らす。
目だけがまだ生きていた。怨恨に満ちてフィルードを睨み続ける。
その視線を受けて、フィルードの全身が震えた。
脱力感が押し寄せ、膝が笑いそうになる。
(……生きた。
いや、“生き残った”だけだ)
血走った目で、青年の腹に開いた穴を見た瞬間、頭皮が痺れた。
露出した内臓が見えた。胃が裏返りそうな吐き気が込み上げる。
吐きたい。
だが――フィルードは無理やり飲み込んだ。
(今は吐くな。
食料を吐き捨てる資格なんて、俺にはない)
しばらく、長い時間をかけて呼吸を整えた。
ようやく落ち着きを取り戻し、フィルードは再び青年を見下ろした。
息は浅い。出る息ばかりが多く、入る息が少ない。間もなく死ぬ。
フィルードはため息をつき、低く言った。
「お前も俺も苦労人だ。お前はあの傭兵団で、その体格を活かせば……戦争が終わるまで生き延びられたはずだ」
言葉を選んでいるつもりはなかった。
ただ、目の前の現実に“意味”を付けないと、自分の手が震え続ける気がした。
「なのに欲をかいた。お前を殺したのは俺じゃない。お前の貪欲が招いた結果だ。来世では教訓を活かせ。貪欲な人間になるなよ」
もちろん――それで溝が埋まるわけがない。
青年は最期の瞬間まで、フィルードを睨み続けた。
フィルードは青年が完全に息絶えるのを待ち、近づいて身体検査を始めた。
結局、銅フィニ五枚を見つけた。
(……意外と持ってる)
服も比較的新しい。少し迷った末、彼を丸裸にした。
だが青年は下着すら着けていなかった。
フィルードは一瞬、気まずさに眉をひそめた。
死者にできる敬意はわずかだが――土をかけ、隠部を覆って最後の体面を保ってやる。
(俺は聖人じゃない。
だが、無意味な侮辱は“敵”を増やすだけだ)
そこまで終えた頃、自軍の農兵は敵農兵を完全に撃破していた。
残り四名は逃走を始めている。こちらも二名が倒れ、残る八名は追撃せず、槍を逆転してウォーカー騎士側へ援護に向かった。
この時、貴族同士の馬上対決も終盤だ。
ウォーカー騎士は菜も抉るほど弱く、フェインに押さえつけられるように叩きのめされていた。配下の従騎士一名はすでに落馬。
小規模な騎兵戦は残酷だ。一人欠けた不利が、あっという間に雪だるまになる。
ウォーカー騎士が崩れかけたその時、視界の端に自軍農兵の狂奔が映った。
農兵側の勝負はついた――その事実が一瞬で分かる。
ウォーカー騎士の目に、再び火が灯った。
瞬き数回の間に、八名の農兵が駆けつけ、槍を構えて敵従騎士へ猛刺した。
従騎士は魂が抜けたように驚き、馬を旋回させて回避する。
だがウォーカー騎士と残りの従騎士は逃がす気などない。後ろから死にもの狂いで食らいつく。
フェイン騎士は配下が囲まれたのを見て焦燥に駆られた。
――だが、前に出る勇気がない。
(重甲は強い。だが馬は無防備だ。
槍陣を馬が嫌がる。突破できない)
しかもウォーカー騎士が横で虎視眈々と狙っている。
囲まれた従騎士は混乱して手元が狂い、農兵の一人が隙を突いて腕を刺した。落馬。
その後は、拳打脚踢。
豚頭みたいに腫れ上がるまで、容赦がなかった。
ウォーカー騎士は勢いに乗ってフェイン騎士を追撃する。
フェイン騎士の内心は絶望で満ちていた。
傭兵軍団の方を見上げる――そこも劣勢。逆転はほぼ不可能。
悔しそうに大声で吼え、馬を旋回させて逃げ始めた。
ウォーカー騎士は逃がす気がない。死にもの狂いで追う。
――それが、八名の農兵を苦境に陥れた。
二本脚で四本脚を追えるはずがない。すぐ遠くへ置き去りにされる。
その光景を見て、フィルードは心の中で首を振った。
(猪突猛進……。
勝ってる時ほど、余計な事故で死ぬ)
峡谷で学んだのは、戦いで最も忌むべきは“血が上る”こと。
特に主力がそれをやれば、全体が崩れる。
だがフィルードは口を挟めない。
あの巨漢を殺して以降、傭兵の大半は震懾され、半日誰も絡んでこなかった。
慎重なフィルードは盾すら持たず、その場に座って静かに観戦していた。
この時点で双方の傭兵の多くは規律を失っていた。
村口の悪党の喧嘩みたいに、武器を投げ捨てて殴り合い。
首を押さえて地面で転がり、押し合いへし合いで摔跤する。
経験豊富な古株が短棍を振り回す以外、戦場としての観賞性は皆無だった。
遠くまで走った八名の農兵は、自軍騎士を追えないと分かると引き返した。
そのまま傭兵戦場へ、包囲するようにじりじり近づく。
敵傭兵たちはそれを見て、一気に慌てた。
年長の敵傭兵が互いに視線を交わし、ほぼ同時に叫ぶ。
「兄弟たち、フェイン騎士が逃げた! 我々も早く逃げろ!」
この叫びは、油鍋に冷水を注いだようなものだった。
敵傭兵は即座に崩壊し、一斉に相手を放り出して四散する。逃げ足だけは異様に速い。
だが不運にも、相手に絡まれて逃げられない者もいた。
そういう連中はひどい目に遭った。
追えない傭兵たちは振り返って拳脚を浴びせる。
フィルードは、体格の良い敵傭兵が十数人に囲まれて殴られ、蹴りを入れようとしても割り込めないほどの惨状を目にした。
そして――
経験豊富な古株傭兵は個人的な恨みなど混ぜない。
静かに人群から離れ、法外の狂人となって村への正式な略奪を開始した。
(勝った。
だが、ここからが本当の地獄だ。
戦いの後に残るのは、秩序じゃない。“飢え”と“欲”だ)
フィルードは息を吐き、血の匂いの中で、次に起きるものを冷静に見据えた。




