第371章 炎を越えて、盤面を奪え
今、ブルース配下の兵士たちは、もはや限界寸前だった。
腕は震え、脚は鉛のように重い。それでも槍を握り、盾を掲げ続けている。
それなのに――。
ドワーフどもは、狂犬のように食らいついてくる。
……厄介だな。
普通の軍なら、ここまで損害を出せば一度は引く。だが奴らは違う。勝機があると信じた瞬間、命を賭けて踏み込んでくる。
ブルースは歯を食いしばり、即断した。
「火油を撒け! 点火準備!
両側の山崖の弓弩隊に後退を伝えろ!」
この峡谷には、三つの木寨を築いてある。
簡素な構造だが、それでいい。
本来の役目は“防御”ではない。“燃料”だ。
必要とあらば火油を浴びせ、敵の死体ごと焼き払う。
進撃速度を削ぎ、こちらに呼吸を取り戻す時間を作るための――計算済みの犠牲。
号令一下、大量の動物油脂を詰めた火罐が投げ込まれた。
兵士たちはまず、下に積み上がった死体へ油をかける。
血に染まった木壁にも、惜しみなく浴びせる。
そして――点火。
木寨上の兵士たちは、炎が広がる前に素早く飛び降り、後方へ退いた。
次の瞬間、轟と火柱が立ち上る。
重傷で死体の下に埋もれていただけのドワーフ傷兵たちも、まだ息があった。
だが炎が広がった瞬間、運命は決まった。
絶叫。
焼け焦げる肉の匂い。
……胸が痛む。
ブルースは目を逸らさなかった。
本当は、こんなやり方はしたくない。
だが、やらなければ自軍が崩れる。
戦場において、情は兵を殺す。
俺は勝つ側に立つ。
それだけだ。
木材に染み込んだ油、そして下に積まれた死体の脂。
炎は想像以上に長く燃え続けた。
数時間後、夕暮れ近くになってようやく鎮火する。
遠くでそれを見ていたドワーフ将軍は、目を固く閉じた。
今日の戦いは、ここまで。
あと一歩で突破できた。
突破さえすれば、敵を殲滅できたはず――。
だが戦争に「もし」はない。
ブルースもまた、後方で呻く傷兵たちを見つめながら、表情を曇らせていた。
この一日。
床弩と地形の優位を活かしながら、それでも直属軍団は五、六千を失った。
即死二千。
残りは軽重さまざまな負傷。
五、六万の軍で、その十分の一が一日で消えた計算だ。
……痛いな。
だが敵も無傷ではない。
ブルースの推算では、ドワーフは少なくとも一万以上を失っている。
しかもその多くは実質的な戦死。
傷兵は回収できず、補刀されるか、炎に呑まれた。
この一戦は、敵の士気を確実に削った。
そして同時に、味方の兵たちに「耐えれば勝てる」という確信を与えた。
攻城戦は最初が最も難しい。
時間が経てば、攻める側の鋭気は鈍る。
どうせ落ちないと分かれば、無駄死にを望む者はいない。
……焦らず、削る。
それが俺たちの勝ち筋だ。
場面は、フィルード側。
数日間の狂気じみた砲撃の末、城壁の一角に巨大な亀裂が走った。
崩壊は時間の問題。
フィルードは三台の魔鉄砲を前線へ押し上げさせた。
数発の試射。
そして夜明けが空を染め始めた瞬間――
「ドーン!」
轟音とともに、城壁が崩れ落ちた。
フィルードはやや後方に立ち、片手剣を抜く。
迷いはない。
「突撃!」
十数万の守備軍団が、一斉に動いた。
梯子を担ぎ、四方から殺到する。
崩れた箇所には、数万のミノタウロス重装歩兵。
ゆっくり、確実に前進。
フィルードは親衛に命じ、大砲もじわじわと前へ出す。
城内のドワーフ兵は即座に動いた。
土嚢を運び、缺口を塞ぐ。
重盾兵が壁となり、死守。
距離が数十メートルまで縮まると、大型弩が一斉射撃を開始。
缺口と城壁上から、弩矢が雨のように降る。
三台の魔鉄砲が射程内へ。
導火線に火が灯る。
三発の轟音。
砲弾は雷光のように缺口へ突き刺さった。
至近距離の魔鉄砲は、圧倒的だった。
まるで豆腐を貫くかのように、隊列を三本の溝に抉る。
肉と鎧が粉砕される。
わずか三斉射で、缺口前のドワーフは耐えきれなくなった。
城壁上のドワーフ将軍は即断する。
このままでは消耗戦で負ける。
伏兵を両側に配置。
敵が突入した瞬間、白兵戦へ持ち込む。
大砲を沈黙させるための策。
……読めている。
フィルードは当然それを理解していた。
それでも、正面突破を選ぶ。
なぜなら――押し切れると確信しているからだ。
「ミノタウロス重装歩兵、突撃!
突破せよ! 此戦の後、一般兵にも領主資格を与える!」
報酬の提示は強烈だった。
ミノタウロスたちが咆哮する。
盾を掲げ、ゆっくりと、だが止まらず前進。
城壁上の弓弩は凄まじい密度だった。
ドワーフ王はこの局面を予測していたのだろう。
弩矢が蝗の群れのように降り注ぐ。
守備軍団の兵が次々と倒れる。
ミノタウロスも圧を感じる。
特に缺口両側の大型床弩。
肩や脚を射抜かれ、巨体が崩れる。
……それでも前へ。
長い苦闘の末、ついに缺口へ突入。
その瞬間、ドワーフ重装歩兵が迎撃。
ミノタウロスは即座に円陣を組む。
盾を広げ、両手剣を振るう。
フィルードが改良を重ねた装備。
その両手剣は切れ味よりも打撃特化。
ドワーフに対しては、最適解だ。
斬るのではない。
叩き潰す。
鎧は砕けずとも、大きく凹む。
打たれたドワーフは血を吐き、内臓を損傷する。
ドワーフ将軍も次の手を打つ。
太い丸太を大量に持たせ、後方から突進。
「ドン!」
衝撃でミノタウロスが吹き飛ぶ。
陣形に隙。
そこへドワーフ重装が突入。
……だが甘い。
ミノタウロスは即座に武器を捨て、丸太を抱え込む。
奪い取り、逆に振るう。
力比べなら、こちらが上だ。
戦場は再び混沌へ沈む。
だが――。
盤面は崩れていない。
一手一手、確実に詰めている。
勝つのは、計算を最後まで崩さなかった側だ。
そして俺たちは、まだ冷静だ。




