第366章 草原の刃――ケンタウロス
若いドワーフの一人が、小声で口を開いた。
「父上……どうやら敵は追い詰められ、賭けに出たようです。
我らの占領区後方へ、あれほどの孤軍を深く侵入させるとは……。
ここは大軍を呼び戻し、まずあの部隊を殲滅すべきかと。
その後、戦力を集中して反撃に転じるのが得策でしょう。」
幕舎の空気がわずかに揺れる。
ドワーフ王は無表情のまま頷き、ゆっくりと視線を赤毛の老ドワーフ――先ほども鋭い意見を述べていた長老へ向けた。
視線を受け、老者は即座に応じる。
「我が王。大王子のご意見は道理に適っております。
この地に根を張る以上、後方を乱す敵孤軍は必ず殲滅せねばなりません。
あの人間王――フィルードが放った破局の一手。
大胆な賭けです。孤軍で深く入り込めば、殲滅される可能性も高い。
しかし同時に、我らの後方は大きく掻き乱され、損害も甚大。」
老者は一拍置く。
「問題は、騎兵の存在。
我らが密かに接近することは困難。最終的にどのような戦いになるか予測しづらい。
さらに――全軍を北へ移せば、ここで築いた全てが水泡に帰す。
建設中の城壁や堡塁は突破されるでしょう。
ゆえに大量の守備兵を残し、敵の北上を阻止せねばなりません。
放置すれば、南からフィルード軍、北から劫掠隊。
二正面作戦となれば、勝敗は読めません。
真に勝利を望むなら、王国本土より増援を。
最低五万、理想は十万。
我らからは一、二万が限度。それ以上は動かすべきではありません。」
ドワーフ王は何度も頷いた。
老者の言葉は、自らの懸念と完全に一致している。
だが――
迷いは消えない。
王は幕舎内を往復する。
フィルードのこの一手。
完全に予想外だった。
これほどの孤軍を後方に突っ込ませるなど、どう考えても自滅覚悟の策。
敵を千殺して八百失う類いの賭け。
これまで相手は一度も歩兵を北へ回さなかった。
だからこそ油断があった。
戦の初めから両者は探り合い。
前数日の運糧隊強行も、交渉で優位に立つための威圧。
フィルードを怯ませ、退かせるための一手だった。
今や状況は――
麻杆で蛇を打つ、両頭とも恐れる。
どちらが先に悲鳴を上げるか。
フィルード国内は不安定。
ドワーフ国内にはケンタウロスの脅威。
互いに片足を引きずりながらの相撲。
……まさか、あの男がここまでオールインするとは。
実のところ。
上位魔法弓弩の製作は、一度保留させていた。
特化しすぎている。
発射コストが高い。
フィルードの大鳥専用対策。
汎用性がない。
だから止めた。
だが――
沈黙ののち、王は決断する。
「伝令。」
傍らの兵が膝をつく。
「直ちに王都へ戻れ。
匠神の師へ密命を伝えよ――上位弓弩の製作を即刻再開せよ。
そして二皇子に命ずる。
五万のドワーフ兵を緊急増援させよ。必ずあの孤軍を止めるのだ。」
さらに、長男へ向き直る。
「お前は二万を率い、東から迂回せよ。
運糧隊と合流し、全て一時停止。
あの大軍を殲滅してから再開する。」
大王子は深く頷き、即座に幕舎を出た。
盤面は大きく動き始める。
――場面はエレナ。
幾多の困難を越え、ついにケンタウロス王庭へ到達した。
道中、数多の部族を訪ね歩いた。
鳥に乗るエレナを見て、彼らは驚愕し、時に敵意を剥き出しにした。
そのたびに、彼女は己の境界をわずかに示す。
力を見せれば、沈黙する。
力こそ、ここでの言語。
ようやく辿り着いた王庭。
広大なテント群。
設計はほとんど馬小屋。
だが住むのは草食馬ではない。
ケンタウロスは雑食。
特に生肉を好む。
道具の多くは骨製。
鉄器は稀少。
文明水準は極めて低い。
だが――
戦闘力は別格。
草原北域のゴブリンと文明レベルは大差ない。
しかし、戦闘力は遥かに凌駕する。
原始的武器で知性種族を圧倒できる存在。
もし精良な装備を与えたら?
想像するだけで、ぞっとする。
エレナは幾度か通達を受け、金色に飾られた巨大テントの前へ。
ここが獣皇の居所。
中へ入る。
そこにいたのは、二メートルを超える巨躯。
四肢は丸太のように太く、筋肉は木の根のように隆起。
中年のケンタウロス。
座席は特殊構造。
腹部を貫通する椅子のようなものに、盤座する形。
(……あれで苦しくないのかしら。)
一瞬そんな疑問が浮かぶ。
だがすぐに思考を切り替える。
目の前の獣皇は、血まみれの生羊脚を貪っていた。
茹毛飲血。
これほど体現する姿は初めて見る。
血の匂いが充満。
獣皇は鋭い眼でエレナを睨む。
エレナは恭しく礼をした。
言語は通じない。
知能も決して高くはない。
彼女は根気よく身振りを繰り返す。
時間をかけ、ようやく大意が伝わる。
獣皇は口元の血を拭い、低く笑う。
そして手を差し出す。
エレナは一瞬戸惑う。
隣の年配ケンタウロスが、知性ある目で説明の身振り。
ようやく理解。
――両方から利益を得る気だ。
両頭を喰う算段。
エレナは内心で苦笑する。
(強欲。でも、悪くない。)
自国の状況を思い浮かべる。
食糧は余裕がない。
即時援助は不可能。
彼女は身振りで示す。
「今は出せない。
だが出兵してくれれば、秋に根菜を供給する。」
芋類。
保存が効き、量も確保しやすい。
獣皇は理解し、頷く。
そして隣の獣皮籠を指差す。
十本の指を立て、大きく円を描く。
何度も。
――大量に。もっと大量に。
要求は明確。
エレナは静かに目を細めた。
(欲張りね。)
だが。
草原の刃をこちらへ向けさせることができれば――
戦局は大きく傾く。
フィルードの賭けは、まだ終わっていない。
むしろ。
ここからが、本当の勝負だ。




