第364章 歩兵、盤上に躍る――補給線を断てば戦は半ば終わる
エレナは静かに頷くと、風のようにその場を去っていった。
私――フィルードは、その背中が完全に見えなくなるまで視線を外さない。
そして誰の目も届かなくなった瞬間、表情を一変させた。
……甘い顔は、ここまでだ。
先ほどは軽く言ったが、実際のところ今回はこちらが追い詰められている。
あの高性能の魔法武器が完成すれば、私の大鳥部隊にとって致命的な脅威となる。空の優位が崩れれば、戦局は一気に拮抗する。
こちらは数では勝る。だが、装備の質は明確に劣る。
数だけで押し切れるほど、相手は甘くない。
しかも、私の勢力内部はまだ百廃待興の段階だ。
支配は広がったが、民心は完全に固まっていない。
もし大きな敗北を喫し、連鎖的に不安が広がれば――
内乱は一瞬で燃え上がる。
外敵よりも恐ろしいのは、内部崩壊だ。
正直に言えば――
もし相手がミノタウロス勢力の成立を要求しなかったなら、私は妥協していた可能性もある。
ドワーフ捕虜を手放すことすら、選択肢に入れていた。
だが、あの要求は違う。
あれは私の急所を正確に突く一手だ。
ミノタウロスを独立させれば、私の軍事中枢は崩れる。
妥協?
あり得ない。
これは盤上の勝負だ。
一歩でも引けば、即詰み。
私は賭ける。
食糧さえ確保できれば、大規模な反乱は起きない。
各地から青壮年を前線へ吸い上げ、後方の不穏分子を徹底的に抑え込む。
反乱の芽は、育つ前に刈る。
建国戦争とは、そういうものだ。
血の雨も、狂風も、すべて織り込み済み。
歴史上、穏やかな空気の中で生まれた王国など存在しない。
この戦いは五分。
勝率は半々。
だからこそ、慎重に。
冷静に。
一手ずつ、相手の呼吸を奪う。
さもなくば、本当に峡谷領地まで押し戻される。
それだけは、絶対に許さない。
七日後――
五万の人獣連合軍が、密かに山脈を越え、獣人王庭北部へと侵入した。
完全なる孤軍。
補給は牛の群れに依存。携行食糧は限られている。
長期戦は不可能。
だからこそ、狙うは補給線。
行軍中、伝令兵がガロとブルースのもとへ駆け込んだ。
「両軍団長殿、北方にドワーフの運糧隊を確認。規模三~四万人。うちドワーフ戦士は一万以上。現在、南進中!」
ブルースとガロは一瞬視線を交わす。
迷いはない。
「北方侵入後の初戦だ。必ず撃破する。」
ブルースは続ける。
「マイク軍団長への伝令は?」
「既に連絡済み。二日以内に合流可能。高速で接近中です!」
完璧だ。
ブルースは五万の大軍を前進させ、敵の必経路を塞いだ。
数時間後、敵運糧隊が視界に入る。
先頭のドワーフ将軍は、突然現れた大軍を見て即座に理解した。
――待ち伏せか。
だが彼らは重荷を背負っている。
食糧を捨てなければ、逃げ切れない。
数秒の逡巡。
そして決断。
「全ドワーフおよび犬頭族!荷を捨てろ!全力撤退!
ここでの事態、陛下に報告せよ!」
食糧が次々と地面に投げ捨てられる。
逃走開始。
ブルースはそれを冷静に見ていた。
動揺はない。
「前進。」
捨てられた食糧は膨大。
だが彼は欲張らなかった。
数日分だけ確保し、残りは焼却。
補給を断つ。
それが目的。
逃げる敵は追わない。
マイクが来るまでは追撃しても意味がない。
犬頭族の耐久力は高い。無理に追えば損耗する。
焦りは愚策。
二日後、ついにマイク軍と合流。
戦域は一気に拡大した。
斥候網は方円百里を覆い、小さな動きも見逃さない。
やがて――
もう一つの運糧隊を発見。
規模三万超。
情報が入った瞬間、ブルースは直進。
再び必経路を封鎖。
マイクは騎兵を遠方に配置し、監視と牽制を担当させる。
一日後、両軍遭遇。
敵は再び荷を捨て、逃走を選ぶ。
だが今回は違う。
マイクの騎兵が即座に展開。
間合いを保ちつつ牽制。
弓弩が多いため接近しすぎない。
だが圧をかけ続ける。
犬頭族は隊列内で混乱。
速度は著しく低下。
その間に、ブルース本隊が背後を遮断。
退路、完全封鎖。
指揮官も理解した。
逃げ切れない。
降伏すれば責任は確実。
ならば――戦う。
ドワーフ兵と犬頭族で簡易陣形を構築。
場所は丘の近く。
本来なら高地を取るべきだが、ブルースは隙を与えない。
動けば即座に接近し、矢で威嚇。
完全に主導権はこちら。
戦闘は一触即発。
敵はドワーフ、犬頭族に加え、数千のミノタウロスを含む。
装備は精良。
対するブルース軍にも数千のミノタウロス。
距離が縮む。
百メートル。
――来る。
次の瞬間、矢の雨が滝のように降り注ぐ。
だが。
フィルード配下の兵は一斉に盾を掲げた。
私は全軍に盾を支給している。
背中に常備。
軽量木材に獣皮を重ねた対飛び道具用。
食糧を削ってでも、これは持たせた。
理由は単純。
この世界の医療水準を、私は知っている。
汚れた矢傷。
小さな裂傷。
軽視すれば感染し、後に死ぬ。
戦場で即死しなくとも、数週間後に兵は消える。
それが最も厄介だ。
目に見えない損耗。
だから防ぐ。
盾は、命の保険。
敵のドワーフ戦士は、こちらの盾の多さを見て射撃を止めた。
距離五十メートル。
大型弓弩が発射される。
前列のミノタウロス重装歩兵が重盾で受け止める。
しかし威力は凄まじい。
盾に亀裂。
時に兵ごと吹き飛ばされる。
ブルースは歯を食いしばる。
だが――
隊列は崩れない。
それが救いだ。
精良装備のミノタウロスだからこそ耐えられる。
もしジャッカルマンが前列なら?
盾ごと貫通。
即壊滅。
やはり編成は正しかった。
……盤面は整った。
歩兵同士の正面衝突。
ここからが本番だ。
私の読みが正しいことを、戦場で証明してやる。




