第276章計算された撤退 ― アモン王国軍、剣を収める
ウェリアムは報告を聞き終えると、幕舎の中を何度も行き来した。
鎧の金具がかすかに鳴るほど、落ち着きを失っている。
やがて足を止め、困惑を隠さずに口を開いた。
「……もし本当にシウスあの老賊を救援しに来たのなら、
なぜドヴァ城内に駐屯しない?
どうして、こんな辺鄙な山中に陣を張っている?」
――鋭いな。
フィルードの胸が一瞬だけ跳ねた。
この男は、決して“都合のいい将軍”ではない。
フィルードもまた眉を寄せ、慎重に言葉を選ぶ。
「おそらく、混乱を避けるためでしょう。
人間と獣人の間には、どうしても生まれつきの隔たりがあります。
城内に入れば、援軍どころか、恐慌を招く可能性があります」
理屈としては、通る。
ウェリアムはしばらく考え込み、やがて渋々と頷いた。
「……確かにな」
だが次の瞬間、顔を曇らせた。
「問題はそこだ。
これほどの獣人が側面で策応している以上、
無闇に攻城すれば、背後を突かれる」
ウェリアムは低く唸る。
「しかも、キプチャク汗国の援軍がいつ現れてもおかしくない。
フィルード団長、何か打開策はあるか?」
――来たな。
フィルードは即答を避けた。
ここで“知っている”顔をしてはならない。
「侯爵閣下。
私は、あの獣人の駐屯地を詳細には把握しておりません。
一度、実地を確認してから判断すべきかと」
ウェリアムは即座に決断した。
「ならば行こう。
私も同行する」
二人は騎乗し、ローセイ率いる獣人軍が駐屯する山脈へ向かった。
――完璧だ。
フィルードは内心で静かに満足した。
守りやすく、攻め難い。
自分が指揮官でも、同じ場所を選ぶ。
だが表情は引き締め、厳しく告げる。
「……厄介ですな、侯爵閣下。
この位置では、強攻はほぼ不可能です」
ウェリアムが息を呑む。
「我々が攻城に集中すれば、
彼らはいつでも側面、あるいは背後から奇襲できる」
フィルードは一拍置いて、決定打を放った。
「仮にキプチャク汗国の援兵が来れば、
三方向からの挟撃になります。
最悪――全軍壊滅もあり得る」
「全軍壊滅」
その四文字に、ウェリアムの背筋が凍りついた。
「……本当に、そこまでか?」
縋るような視線。
「攻城速度を上げればどうだ?
一気にドヴァ城を落とせば、
中の糧食で持久できるはずだ」
フィルードは、迷いなく首を振った。
「獣人が“待っている”以上、
そう簡単には許されません」
淡々と続ける。
「適切な瞬間を見計らって、必ず仕掛けてきます。
その時、城内守軍が呼応すれば、完全な挟撃です」
さらに冷静に数字を積み上げる。
「山上の獣人は、少なく見積もっても四、五万。
城内には、潰走兵を含めて二万前後。
合計六万以上」
――地利も、向こうにある。
「我々は、決して優位ではありません」
ウェリアムは、まるで冷水を浴びせられたかのように呆然と立ち尽くした。
握った拳が、かすかに震える。
大当たりした宝くじが、突然偽物だと告げられた――
そんな顔だった。
次の瞬間、怒号が幕舎を揺らす。
「くそったれの獣人ども!
毎回、毎回、俺の邪魔をしおって……!」
怒りを吐き出した後、ようやく理性が戻る。
「……つまり、撤兵か?」
フィルードは無力そうに両手を広げた。
「現状では、それが最善です。
体面を保ちつつ、
キプチャク汗国の援軍を空振りさせられる」
そして、付け加える。
「ただし、即時撤退はお勧めしません。
まずはカールトン領に集結し、様子を見るべきです」
――敵が引けば、こちらも引く。
――出てくれば、準備時間を省ける。
その理路整然とした説明に、
ウェリアムは力なく頷いた。
「……お前の言う通りにしよう」
撤退命令が下された瞬間、軍中は騒然となった。
勝利の余韻に浸っていた兵士たちにとって、
この命令は理解不能だった。
だが、山麓に貴族たちを連れて行き、
周囲にひしめく獣人の大軍を見せると、
誰もが沈黙した。
三日後、アモン王国軍はカールトン領へ戻り、
十数日間、動かずに駐屯した。
敵は、動かなかった。
だがある日、辺境斥候が報告をもたらす。
「キプチャク汗国の三万騎兵が、こちらへ接近中!」
――三万。
フィルードは内心で小さく息を吸った。
正規騎兵全体の半数近い規模。
決して侮れない。
やがて、その騎兵はカールトン城下へ到達した。
だが攻撃せず、城壁の周囲を数周回っただけだった。
人海の如き騎兵の威圧感に、
城内の空気が凍りつく。
幸い、収穫前の季節。
でなければ、広範な劫掠が始まっていただろう。
やがて、伝令がウェリアムに書状を渡す。
読み進めるほど、彼の顔色は悪くなり、
最後には怒りに任せて引き裂いた。
「恐喝だ……!
魔石千枚を払えだと!?
ふざけるな!」
フィルードは口を挟まず、静かに聞く。
「払わねば、周辺領地を掻っ攫うだと……!」
怒りに震えるウェリアムに、
フィルードは落ち着いた声で言った。
「侯爵閣下、ご心配なく。
北方の人口は城郭に集中しています。
周辺の騎士村落は老幼が大半で、物資も乏しい」
――奪う価値がない。
「彼らも無意味な殺戮はしないでしょう。
全員騎兵です。
消耗が大きすぎます」
ウェリアムは、ようやく呼吸を整えた。
「……なら、好きにさせておけ。
魔石千枚など、陛下が認めるはずもない」
そう命じ、強硬な返書を送らせた。
激怒したキプチャク軍は周辺を荒らしたが、
得られるものはほとんどなかった。
――すべて、計算通りだ。
フィルードは、遠くで立ち上る薄い煙を眺めながら、
誰にも聞こえぬよう、静かに息を吐いた。




