第275章契約という名の鎖 ― シウス伯国を内側から支配する
シウスは、フィルードの言葉を最後まで聞き終えると、しばらく黙り込み、やがて深く息を吐いてから、ゆっくりと頷いた。
……ようやく腹を括ったか。
その瞬間、フィルードは確信した。
この男は、もはや選択肢を失っている。
こうして両者の間に合意が成立した。
フィルードはライドンに命じてシウスを同行させ、自身は超凡者小隊を率いて護送についた。一行はそのままドヴァ城へと向かう。
出発前、フィルードはブルースを現地に残し、捕虜への私刑や食糧の横領を厳禁するよう、重ねて命じた。
――ここで無駄な恨みを買う必要はない。
使える駒は、最後まで使い切る。
ドヴァ城に到着すると、シウスは腹心の一人を城内へ走らせ、自らの末子――ポールを呼び出し、家に伝わる契約巻軸を持参させた。
フィルードはその少年を一目見て、内心で小さく息を呑んだ。
十四、五歳。
だが境界はすでに恐怖の中階学徒。
……悪くない。
いや、むしろ良すぎるくらいだ。
シウスは事の経緯を息子に説明した。
ポールは話を聞き終えると、怒りを抑えきれない様子で拳を握り締めたが、父の説得と現実的な分析によって、どうにか冷静さを取り戻した。
それでも、少年の視線は終始フィルードに突き刺さるように向けられていた。
フィルードは低く、静かな声で告げた。
「恥じるな、小僧。
数年後、お前は今日の決断を“幸運”だったと思う日が来る」
少年の肩がわずかに揺れる。
「お前たちに残されていた道は二つしかなかった。
滅びるか、ネズミのように生き延びるかだ」
フィルードは一歩踏み出し、少年を真正面から見据えた。
「だが、今は違う。
俺の配下になるだけで、すべてが守られる。
それのどこが悪い?」
一拍置いて、淡々と続ける。
「お前の父を疑うな。
あの男は、お前が食った飯より、遥かに多くの塩を食ってきた」
……選択肢を“理解”させる。
感情ではなく、理屈でだ。
「異論がなければ、正式に契約を結ぶ」
ポールは歯を食いしばり、屈辱を飲み込むようにして頷いた。
「……お前の望む通りだ」
そう言って、少年は懐から一枚の巻軸を取り出した。
その瞬間、フィルードの背筋に奇妙な感覚が走る。
……魂の匂いだ。
巻軸からは、魔力だけでなく、彼自身の魂力に酷似した、異質な気配が漂っていた。
――魂契約か。
過去に宝庫で読んだ典籍が脳裏をよぎる。
この種の契約は、血を媒介にしなければ成立しない。
フィルードは迷いなく短剣を抜き、指先を切った。
ポールも同じように指を傷つける。
雁の羽ペンに血を含ませ、契約文を書き記す。
内容は単純明快だった。
――今日よりフィルードを主とし、永遠に背かぬこと。
――違反した場合、魂は焼かれ、死に至る。
続いて、フィルード自身も署名する。
――シウス家に命令権を持つが、一族を滅ぼすことはしない。
――違反すれば、同様に反噬を受ける。
署名が完了した瞬間、巻軸が炎を上げて燃え上がった。
空気が歪み、目に見えぬ力が二人を包み込む。
……これが、契約の力か。
すべてが終わると、シウスは震える手で詔書を書き始めた。
――自身は重傷を負い、伯位を息子ポールに譲る。
――伯国の全権を、正式に継承させる。
書き終えると、ポールは城へ戻され、腹心たちは各所へ走った。
この瞬間、
“シウス伯爵”という存在は、政治的に死んだ。
フィルードは満足げに頷き、シウスを連れて軍へ戻った。
その夜、彼は意図的に警備の隙を作り、シウス派の腹心と捕虜騎兵を逃がした。
――必要な逃走だ。
彼らは飢えておらず、百戦錬磨の精兵。
半夜を走り続け、ドヴァ城下へ帰還した。
その帰還は、城の防衛力を大きく底上げする。
同時にフィルードはローセイへ伝令を送り、行動停止を命じた。
――獣人大軍を集結。
――ドヴァ城外、山脈縁辺に布陣。
――目立つ位置で、周囲に“見せつけろ”。
その後、シウスを通じて息子に命じ、潰走兵の収容を開始させた。
最終的に八千を超える兵が戻り、その全てが鍛え直せる素材だった。
フィルードはブルースに軍を峡谷へ撤退させ、全兵に騎馬訓練を命じる。
――ここからが、本番だ。
三日後。
ウェリアムは七万の大軍を率いて現れた。
勝利の余韻に包まれた軍勢の先頭で、彼は意気揚々と馬上に立つ。
「フィルード団長、祝賀宴にも出ずに急いで戻った理由は?」
フィルードは即座に頭を下げた。
「北辺に獣人の動きがあり、念のため戻っただけです。幸い、杞憂でした」
ウェリアムは一瞬だけ疑わしげに見たが、すぐに笑い飛ばした。
「よし。
このまま進めば、草原伯国は終わりだ。
お前も伯爵位だな。羨ましい限りだ」
その時――
伝令兵が駆け込んできた。
「前方山脈に、獣人大軍。
規模は四、五万以上!」
ウェリアムは即座に立ち上がった。
「なぜ獣人がここに……くそ、邪魔をしおって!」
視線がフィルードに向く。
「どう思う?」
フィルードは困惑した表情を作り、ゆっくりと答えた。
「……北から来たのでしょう。
草原伯国を救援するためかと」
内心では、静かに笑う。
――踊れ。
盤面は、もう俺のものだ。




