第274章 伯爵領を呑む牙――驚天の密謀
そう言いながらシウスは大笑いした。
だが次の瞬間、笑みが消え、視線だけが氷のように冷たくなる。
「俺が不忠だと言うのか?」
縛られたままの身体で、シウスは唾を吐くように言った。
「王国が――俺の領地の馬に、どれほど誇張した徴収をしているか知っているか?
うちで生まれた子馬は、生まれた瞬間にタグを付けられる。そして――少なくとも半分は王国に“売らされる”。原価でな」
「原価だぞ? しかも王都基準で計算される。
こっちの豆の値がどれだけ高いか……お前も知らないわけじゃないだろう」
「馬だけじゃない。牛羊も同じだ。
そんな王国に忠誠を尽くす必要があると思うか? お前ならどうする? 忠誠を尽くすか?」
フィルードは言葉を失った。
理屈だけを並べれば、シウスの怒りは理解できる。
だが――理解と許容は別だ。
しばらく沈黙し、フィルードはようやく息を整えた。
「……シウス伯爵。お前の境遇には同情する。だが、それはお前と王国の恩怨だ。俺とは関係が薄い」
視線を落とし、淡々と突きつける。
「今日、お前が俺の手に落ちた以上……脱出する算段は考えたか?
俺はお前をタダで放せない。王都に連行すれば、俺も褒賞を得られる」
そして、にやりとも取れる笑みで見下ろした。
「お前が俺の立場でも、同じ選択をするだろう?」
その言葉は、石を投げて自分の足を叩いたようだった。
シウスの口元が歪み――次に、目が光った。
(……こいつ、取引の余地があると思ったか)
シウスの脳裏に、ひと筋の希望が差したのだろう。
“フィルードも王国に純粋ではない”。
“私的な取引を望んでいる”。
だが、同時に現実が刺さる。
いまの自分に、握れるカードは残っているのか。
シウスは顔色を曇らせ、それでも言った。
「……大量の物資と魔法材料を提供できる。ドヴァ城さえ、お前に譲渡できる」
「だが――俺と家族を外へ送り出せ。少なくともアモン王国の勢力圏外まで護送しろ」
フィルードは、まず呆然とした。
(逃げる? 今さら?)
(……いや、資本が残っていないなら当然か。兵も集められん)
だが次の瞬間、冷たく首を振った。
「無理だ。城内の基礎物資は持ち出せない。すぐに大軍が伯爵城を包囲する」
「お前が残した兵では守れない。連合軍が攻め入って“物資がない”と分かった瞬間、徹底的に調べる。
俺が欲しいのは――超凡物資だけだ。それで放してやる」
「護送など考えるな」
シウスは長く黙った。
歯を食いしばり、最後に重く頷く。
「……お前の望む通りだ。家族を放すなら、何でもいい」
そして、ここでシウスは“縛り”を差し出してきた。
「ただ、まず魔法契約を結ぼう。
上位中級の契約巻軸がある。家の祖伝だ」
「署名すれば、上位高級超凡者を超えない限り違反できない。違反すれば――魂が滅びる」
フィルードは、その場で固まった。
(……マジか)
(こんな老いぼれが、そんなものを?)
そして――頭の中で歯車が一気に回り始める。
欲が、野心が、冷静な計算に形を変えていく。
フィルードは一度言葉を飲み込み、整えてから静かに言った。
「シウス伯爵。実は……お前にはもっと“良い道”がある」
「持ち出せない基礎物資、俺に渡す超凡物資、あとは産業と金貨を隠すくらいだろう」
「その先、お前と家族は闇の中で生きる。毎日怯え、王国の清算を待つ。
……そんな生活を望むか?」
シウスは笑う力すらなく、頽廃した顔で吐き捨てた。
「望むも何も……選択肢があるか?
この地域に俺の居場所が残っているか? 今、俺はお前の手に落ちている。値切る余地などない」
フィルードは、そこで“神秘的”に微笑んだ。
「あると言えばある。俺が“ある”と言えばある」
「一つ提案する。……参考にしろ」
フィルードは、指を折るように条件を並べていく。
「ドヴァ城は、今まで通りお前が支配する。
ただし――お前はもう“ドヴァ城の主”であってはならない」
「爵位を息子に譲れ。
その子は若すぎてはダメだ。必ず超凡者の資質がある者」
「その後、俺はその子と契約を結ぶ。
お前が俺に二心を持たない限り、俺は――お前の領地と家族を守る方法を考える」
シウスは呆然とした。
長い沈黙の後、ようやく言葉を絞り出す。
「……つまり俺を、お前の附庸……いや、傀儡にしろと言うのか?」
フィルードは手を振った。
「そんな言い方はやめろ。Win-Winの協力だ」
「お前が地位を離れたら、喪家の犬になる。いつ清算されるか分からない。
――今、一番マシな道がこれだ」
「そして、上位中級の契約巻軸があるからこそ……俺は“信じられる”」
シウスは長い間黙り、最後に冷笑した。
「小僧……お前の胃袋の大きさには感嘆する。
小さな子爵が伯爵領を丸呑みしようとはな」
だがすぐに、現実を突きつけるように言葉を続ける。
「だが今のアモン王国は、俺を完全に憎んでいる。
貴族連合軍は刀を研ぎ、俺を分食する準備をしている」
「お前に、俺の領地を守る方法があるのか?
今俺の手元に兵力はほとんどない。一万人すら集められない」
「キプチャク国に援軍を求めることはできるが、前後で半月。
……連合軍はそんな機会を与えない」
フィルードは、そこであっさりと言った。
「俺がそう言う以上、当然方法はある」
「今お前の領地を襲っている獣人は――俺が送ったものだ。
いつでも停止を命じられる。代わりに“大部分を残して”城を守らせる」
「半月は守れる。その間にキプチャク国へ援軍を要請しろ。
援軍が到着すれば、アモン王国側は耐えきれない。危機は――ある意味で解決する」
シウスの顔が、歪んだ。
屈辱と、怒りと、納得が混ざった表情。
長い沈黙の末、重く言う。
「……一晩考えさせてくれ。明日の朝に返事する」
フィルードは頷いた。
追い込むのは簡単だ。だが、追い込んだ獣は噛みつく。
「……分かった」
「見張りを厚くしろ。逃がすな。だが余計な刺激はするな」
その場で野営となった。
翌朝早く、フィルードは再びシウスを訪ねた。
シウスの目は血走っていた。
一晩眠っていないのが明らかだ。
「……ふう……」
フィルードを見るなり、シウスは先に口を開いた。
「フィルード団長。昨日の条件は受け入れる」
「今後、我が家族全員、お前の馬首を瞻む。……俺は他に何も望まない。家族が生き延びられるなら、それでいい」
そこまで言い、声を落とす。
「ただ――いくつか条件がある」
「家族の子弟の一部を外地に派遣して安家させたい。これは阻むな。
それと……帰順にも期限を設けろ。永遠はあり得ないだろう?」
フィルードは即答した。
「永遠に続くわけがない。お前の息子も、俺も、永遠に生きるわけじゃない」
「俺が老いた時に――この協議を解除する。どうだ?」
そして、少しだけ視線を和らげる。
「子弟を外地へ送るのも同意する。お前は後路を残したいだけだ。
俺がそれを拒めば……少し不人情すぎる」
フィルードは心の中で、静かに線を引いた。
(よし……ここからは契約の形を作るだけだ)
(だが――本当の戦いは、紙の上じゃない。人の腹の中だ)
そして彼は、もう一度だけ確かめるように言った。
「……シウス。
お前が“二心”を持てば――契約はお前の魂を焼く。忘れるな」
伯爵は、笑わなかった。
ただ、目を伏せて頷いた。
その沈黙が、密謀の深さを物語っていた。




