第236章 利用――王権の手綱
フィルードは、その言葉を聞いても、あえて口を開かなかった。
すぐに反論する必要はない。
――相手が語りたがっている時は、黙って聞くに限る。
しばしの沈黙の後、ウェインが重々しく口を開いた。
「あの日、我々は一つの伯爵領を包囲していた。
その最中だ……突然、一軍が正面から殺到してきた」
ウェインは苦い表情で続ける。
「数は大したことがなかった。二万人にも満たなかったからな。
我々は即座に全軍を率いて追撃した」
フィルードは黙って聞いていた。
――罠だ。
話の流れだけで、それが分かる。
「だが……峡谷に六万人を伏せていた。
挟撃された瞬間、我々の軍は一気に崩壊した」
ウェインは深く息を吐いた。
「二つの王国が援軍に来たとはいえ、合わせて四万人に満たなかった。
本来なら……勝機は十分にあった」
悔恨が滲む。
「だが今となっては、すべて水の泡だ。
敗戦の上に、これほどの賠償まで背負う羽目になった」
一拍置き、視線をフィルードに向けた。
「……まあ、それはいい。
お前は辺境の伯爵領を相当に荒らしたそうだな。
伯爵本人まで捕らえ、しかも高額の身代金を取ったとか」
口調が少しだけ軽くなる。
「見事だ。
陛下も大いに喜んでおられる。
今回のタロン王国侵攻で、最大の戦果を挙げたのは間違いなくお前の軍だ」
フィルードは即座に手を振った。
「侯爵閣下、過分なお言葉です」
声は低く、慎重だった。
「私はただ運が良かっただけです。
それに相手の伯爵が……正直に言えば、かなり軟弱でした」
少しだけ間を取る。
「包囲された途端に降伏しましたので、消耗も最小限で済んだのです。
もし彼が大軍敗北の報を知っていれば、私も持久戦には耐えられなかったでしょう」
これは謙遜であり、同時に事実だった。
「本来は城を落とすつもりでしたが、
王国軍大敗の知らせを受け、急ぎ手を打った次第です」
ウェインは静かに頷いた。
「……すべて、巡り合わせというものだな」
そして、声の調子を改める。
「ただし、現実は厳しい。
今回の敗戦で、王国は大量の青壮年を失った」
フィルードは、次に来る言葉を予測していた。
「陛下がお前に約束した人口は、
おそらく当初の通りには履行されまい」
やはり、だ。
「それに……今回お前がこれほどの収穫を得た以上、
なおさら減ると考えておけ」
だが、完全に反故にはしない、と続く。
「ただし、領地の青壮年を一部補充するという約束は果たされる。
戦争前の約定だからな」
ウェインは立ち上がった。
「朝会まで待て。
陛下は必ず諸侯を召集し、今後の方針を協議する」
そう言って、軽く手を示す。
「まずは我が屋敷へ来い」
フィルードとエレナは、ウェインに従って邸宅へ戻った。
――三日後。
アモン王国の国王エドモンは、帰還後すぐに床に伏したという。
打撃は、それほど深かった。
丸三日を経て、ようやく国王は諸侯を召集した。
広間に集まった貴族たちの顔色は重い。
フィルードは子爵として、最後列に控えていた。
エドモンは疲れ切った表情で一同を見渡し、かすれた声で語り始める。
「……今回の大敗は、王国の根幹を揺るがした」
一息。
「敵がこれほど卑劣な策を弄するとは、想定外だった。
だが、不意打ちは戦争につきものだ。
他を恨んでも、意味はない」
視線が北を向く。
「我々が次に注力すべきは、北の獣人だ。
他国については、さほど憂慮する必要はない」
断言だった。
「彼らは、我が王国が滅びるのを黙って見てはいない。
今日お前たちを集めたのは、北辺防務の再建についてである」
ざわめきが広がる。
エドモンは続けた。
「北辺は長年獣人と戦い続け、青壮年の損耗は深刻だ。
よって、私は決断した」
重い言葉。
「南方の子爵は千人。
男爵は二千人。
伯爵は三千人を出せ」
間髪入れずに、強く言い切る。
「強制だ」
広間が凍りついた。
「北方治安団団長であるフィルード子爵ですら、
獣人士兵を用いている。
それほど人手が不足しているのだ」
不満が噴き出しかける空気を、エドモンは力で押さえ込んだ。
「泣き言を並べるな!」
苛立ちが滲む。
「南方は何年、戦争を知らぬ?
北が獣人を防いでくれなければ、
お前たちが今の安穏を享受できると思うか?」
視線が鋭くなる。
「私兵として隠し持つ人口がどれほどか、
私が知らぬと思っているのか?」
そして、切り札を切った。
「北域へ農奴を派遣した貴族には、
三年間の免税を認める」
一瞬で、空気が変わった。
三年免税――それは莫大な額だ。
王室にとっては、文字通りの大出血である。
だが、エドモンは退かなかった。
――彼は理解している。
獣人という盾を失えば、王国は価値を失う。
やがて、割り当てが発表された。
フィルードに与えられた人数は――一万人。
内訳は明確だった。
六千は事前の約束。
四千は封地人口の補充分。
――近万を失い、四千を得る。
帳簿上は、完全な黒字だ。
フィルードが内心で計算を終えた、その瞬間だった。
エドモンは、話題を変えた。
「次に、北域防衛線の再配置を行う」
指名が飛ぶ。
「ウェリアム。
二万の農奴と、一万の正規兵を率い、モニーク城へ向かえ」
次々と命令が下される。
「ダービー城には文官を派遣し、統治させる。
軍事については、別途将を置く」
そして――本題。
「残る子爵領・男爵領は、すべてフィルード団長の管轄とする」
一瞬、広間がざわついた。
「フィルード団長は、今回の戦で幾度も戦功を立てた。
よって、階位を昇進させる」
淡々と、だが決定的な言葉。
「今後、フィルードは王国西部地区の軍事統帥とする。
ダービー城を除く、すべての兵馬を掌れ」
条件が重ねられる。
「草原伯国にも備えよ。
軍団規模は一万人に引き上げる」
そして、餌。
「王国は毎年、ダービー城より
フィルード軍団長へ一万人分の兵糧を支給する」
問いかける。
「異存はないな?」
――その瞬間、フィルードの脳裏を、一万匹の草泥馬が駆け抜けた。
(……なるほど)
これは、典型的な構図だ。
馬を走らせたいが、手綱は離さない。
ダービー城という穀倉を王室が握り、
自分には肩書と責任だけを与える。
農奴は一万人。
軍団規模も一万人。
――つまり、畑に回す余地はない。
自分は将軍として固定される。
領地を発展させる余白は、一切与えられていない。
ウェインも、同じ考えだろう。
自分の軍事能力。
そして、あの“製造能力”。
それらは、すでに警戒対象なのだ。
フィルードは、表情を崩さなかった。
むしろ、心から歓喜しているかのように振る舞った。
「陛下のご厚恩、ありがたく存じます!」
深々と頭を下げる。
「必ずや粉骨砕身、
陛下の知遇の恩に報いましょう!」
その言葉の裏で、冷静な声が囁いていた。
――なるほど。
――利用するつもりか。
ならば、こちらも――利用するだけだ。




