第152章 太陽の下で――迷界を抜けて
フィルードは首を横に振った。
「無理だ。今回の偵察は遠くまで行く必要がある。君がラバを引いていては、私の速度について来られない」
彼の声音には、いつもの皮肉ではなく、淡々とした現実の重みがあった。
エレナは少し躊躇したが、やがて観念したように大黒の背に乗り込む。
(ようやく乗ってくれたか……素直じゃないな)
フィルードは心の中で苦笑しながら、軽く手綱を握り直す。そして自らもその背に跨がり、無言のまま後ろから彼女を支えた。
「離して! 前に来て!」
「私は正真正銘の君子だ。なぜいつも私を小人扱いするんだ?」
フィルードはため息をつくと、わざとらしく前にずれてみせた。
(……もっとも、“君子”がどこまで我慢できるかは、別の話だが)
険しい山道を進む間、彼はしばしば急に手綱を引いて速度を落とした。
エレナが小さく身体を震わせるたびに、彼の口元にかすかな笑みが浮かぶ。
最初のうちは罵声と拳が飛んできたが、やがてエレナも抵抗をやめた。
(慣れというのは恐ろしいものだな……だが、油断は禁物だ)
二人は山脈を縫うように何十里も走り回ったが、獣人の痕跡も人の営みの気配も見当たらなかった。
「このチンピラ!」
エレナが苛立ちを隠さず叫ぶ。「私たち、迷子になってるんじゃないの? 一日中探しても村ひとつ見つからないなんて! こんな山奥で一生暮らしたくないわ!」
「……シャワーの心配をする前に、生き延びる心配をしろ」
「だって臭いんだもの!」
その瞬間、大黒が「モォー」と間の抜けた鳴き声を上げた。
フィルードは苛立ち半分に怒鳴る。
「お前もだ、この大馬鹿牛め! 次鳴いたら、今晩は煮てやる!」
(戦場で一番厄介なのは、敵ではなく“味方の口”だな……)
言い合いで時間を潰しながら進むうち、翌日の正午、二人はようやく広大な平原へと出た。
慎重に丘を下りていくと、そこに狼頭人の小規模な部族がいた。
(運がいい……いや、これは神の皮を被った悪戯か)
一人の狼頭人を捕え、フィルードはかつてローセイと共に過ごした日々で覚えた拙いジャッカル語を使って尋問する。
結果、この地がすでに北の大山脈を越え、獣人の本拠地にあることを知った。
背筋を電流が走るような感覚――まさかと思っていたことが現実になった。
(しまった……偵察のつもりが、敵の懐に入り込んでいたとは)
夜、二人は野営地に忍び込み、大量の干し肉を盗み出すと、月光の下を駆け抜けた。
翌日、一日がかりで大部隊に戻ると、すでに出発から十数日が経っていた。
食料は二日分も残っていない。
ウェイン侯爵はフィルードの姿を見るなり、目を輝かせた。
「偵察はどうだった? なぜそんなに日数がかかった?」
「侯爵様、前方一日の行程内はすでに獣人領です。我々は知らず知らずのうちに入り込んでいました。
今戻れば、半数は餓死します。――ならば、敵地で奪うしかない」
ウェインは眉をひそめた。
「そこは獣人の腹地だ。包囲されたら終わりだぞ」
「だからこそ、局地的に動く。小部族を狙い、痕跡を残さず撤退する。少しの食料が得られれば十分です」
フィルードの声には冷静な計算と覚悟があった。
(勝つよりも、“生き延びる”ことが最優先だ)
最終的に侯爵は頷き、一行は山脈の辺境へ向かった。
いくつかの小部族を奇襲し、食料を奪って撤退を始めたが、その瞬間、遠方から土煙が立ち上るのが見えた。
「……来たな」
大群の騎兵がこちらへ突進してくる。
部隊は恐慌状態に陥り、逃走を開始した。山に近づく頃には、すでに獣人たちの姿が目前に迫っていた。
「侯爵様!」
フィルードは駆け寄り、低声で言う。「私とあなたで後方を防ぎます。部隊を逃がす時間を稼ぎましょう」
ウェインは無言で頷く。
フィルードは大黒を操り、エレナと共に速度を落とした。
放たれる矢の一本一本が、獣人の命を正確に刈り取っていく。
(敵の動きが読める……射程、風、速度、すべてが見えている)
隣ではエレナも弓を引き、的確に敵を射抜いていた。
ウェインが中級魔法を使おうとした瞬間、フィルードが鋭く制止する。
「侯爵様、その魔法はお控えを。獣人の高層部に察知されれば、即座に包囲されます」
「……ふむ」
ウェインは無言で頷き、代わりに炎の球を一つ放つ。
それは一直線に飛び、隊列中央の豚頭族の超凡者を直撃した。炎に包まれたその影が崖を転がり落ちる。
三人の攻撃は、まるで人間砲台のようだった。
わずか十分で数十人を討ち取り、追撃の勢いを断ち切る。
彼らは戦いながら後退し、体力が尽きると大黒に乗って一気に距離を稼いだ。
(敵は疲弊している。あと半日も持たせれば、追撃は止まる)
その読み通り、半日後には獣人たちの姿が見えなくなった。
さらに二日、慎重に南へ進む。
ようやく人族の境界線を越えたが、そこはカールトン領ではなかった。
彼らは山脈を大きく迂回し、丸一日をかけてようやくカールトンの子爵領にたどり着く。
しかしその外縁はすでに獣人の大軍によって封鎖されていた。
(……一手遅かったか。だが、まだ道はある)
何度も迂回を重ね、ついに或る夜、彼らはカールトン子爵邸へ帰還した。
兵たちは倒れ込むように眠りにつき、ダービー城への帰還を翌日に延ばす。
十日の休息を経て、再び馬を駆る。
道中、目にしたのは焼け落ちた村々と、山野に漂う流民の群れだった。
彼らが必死に手を振り、助けを求める声を上げても――
ウェイン侯爵は沈黙を守った。




