第133章 罠を掘る者、罠に沈まず
ウェイン侯爵の言葉を受け、フィルードは深く一礼した。
「承知しました。侯爵様、必ずやお約束どおりに――」
その一言を残すと、彼は大黒の背に飛び乗り、疾風のごとく駆け去っていった。
風を切る音が耳を裂く。
脳裏では、戦略図が無数に描かれては、次々と塗り替えられていく。
――この戦争は、負けられない。
北方が崩壊すれば、領地経営のすべてが無に帰す。
どれだけ兵糧を蓄え、民を統制しても、孤立した要塞に価値はない。
最終的には南へ逃げるしかなくなる。
それは敗北者の末路だ。
フィルードは唇を噛み、わずかに笑った。
「……ならば、逃げる前に全てを掌に収めるだけのことだ。」
帰路の途中、彼は視線を絶えず巡らせていた。
地形の高低、林の密度、土質、風向き――。
伏撃に適した場所は幾つもある。
だが、兵力が少なすぎる今の状況では、仕掛けた瞬間、自ら罠に落ちるだけだ。
焦りは禁物。狙うは確実な勝利、それだけだ。
領地へ戻ると、二人の子爵――フランクとカールトン――がすでに谷の外で軍を率いて待機していた。
休む間もなく彼らを迎え入れ、岩壁の陰の会議場へ。
フランクが開口一番、低い声で問うた。
「フィルード団長、あなたが書簡で述べていた“ディオの裏切り”――あれは真実なのか? 証拠はあるのか?」
カールトンも同じく鋭い眼差しを向けてくる。
フィルードは即座に答えた。
「すでに実証されました。ウェイン侯爵は今、獣人の大軍に包囲されています。敵の数、三万。侯爵は急ぎこちらへ進軍中です。間もなく北方の命運を懸けた戦が始まります。」
言葉が落ちると同時に、空気が凍った。
二人の子爵の顔色が同時に蒼白になる。
カールトンが呻くように言った。
「では――お前の推測はすべて正しかったのか。あの老獪なディオが……なぜそこまでして獣人と手を組む?」
「利益だ。」フィルードは即答した。
「常識を覆すほどの、信じられない見返りがあったのでしょう。でなければ、彼ほどの男があそこまで愚行を犯すはずがない。」
フランクが頷く。
「だが、我々の兵は合わせても五千に満たぬ。ディオは倍の一万。まともに戦えば、押し潰されるのがオチだ。」
「いいえ。」
フィルードの瞳が冷たく光った。
「私の動かせる兵は二千を超えています。非常時には三千を動員可能です。
砦は狭く堅牢で、数百でも十分に持ちこたえられる。
あなた方の兵を合わせれば、我々の総兵力は七千。
対してディオは八千にも届かぬでしょう。兵の質では劣るが、地の利はこちらにある。」
「問題は、“勝てるかどうか”ではなく、“どのように勝つか”です。」
言葉に、二人の子爵は息を呑んだ。
フィルードは続ける。
「我々が敗れれば、王国からの援助は二度と望めません。
残る道は二つ――ディオに屈するか、南へ逃げて名ばかりの貴族となるか。
どちらも終わりです。
ならば、勝つ以外に道はない。」
静寂。
二人の子爵は互いに顔を見合わせ、やがてゆっくりと頷いた。
「……策はあるのか?」フランクが問う。
フィルードは薄く笑う。
「ええ。ずっと温めていた計画が一つあります。」
冷静に、だが確信を持って彼は語り出した。
「数日後、私が千の兵を率い、あなた方と共にディオの陣の近くまで進軍します。
密かに野営地を築き、信頼できる斥候を派遣して、敵情を探らせる。
ただし、“偶然発見される”ように仕向けるのです。」
カールトンが眉をひそめる。
「……わざと見つかる?」
「ええ、それが肝です。
発見の経緯が唐突すぎれば、あの老狐は疑う。
だから自然に、慎重に、少しずつ。
そうしてディオが我々を察知すれば、必ず探りを入れてくる。
そのとき、我々は“撤退を装う”。
彼は好機と見て追撃してくるでしょう。
その瞬間、あらかじめ仕掛けておいた峡谷へ誘い込み、伏撃して叩く――。」
フィルードの口調は静かだった。だが、その瞳には冷たい炎が宿っていた。
「この計画は絶対に口外してはなりません。
斥候にも知られてはならない。
我々の切り札は、敵が我々の兵力を知らないという一点のみです。」
しばしの沈黙。
やがて、二人の子爵の顔に驚愕と――薄ら寒いものが浮かんだ。
フランクは小さく呟いた。
「……なるほど。短期間でここまでの地位に登りつめた理由が、ようやく分かった。」
彼らは悟った。
この男――フィルード――は、冷酷な知略と陰謀を糧に成り上がった。
味方であれば心強い。だが、敵に回せば地獄を見る。
カールトンは沈黙の後、ふっと笑みを漏らした。
「やはり評判通りの男だな。私は異論ない。あなたの指揮に従おう。
あなたは男爵であると同時に、王国の北境治安官でもある。
この戦、あなたに任せる。」
フィルードは軽く頷いた。
その瞳は静かに光りながら、心の中でつぶやいた。
――罠は掘った。あとは、獲物が足を踏み入れるのを待つだけだ。
PS:ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は戦略回ということで、少し頭脳戦寄りの展開になりました。
フィルードの「冷静な狡猾さ」を感じていただけたなら嬉しいです。
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