【10万PV記念・番外編】 黒き渓谷の夜宴
(時間軸:主線の出征前夜——フィルードが一時的に離脱し、秘密任務を遂行する挿話)
峡谷の夜風は、草と泥が混じった生臭さを運び、
空の月はまるで嘲るような銀の皿となって静かに光を放っていた。
フィルードは木製の見張り台の上に立ち、腕を組んだまま無言で闇を見下ろしていた。
その視線は、闇を切り裂く刃のように鋭い。
下方の野営地では、松明の灯が風に煽られ、まるで蛍のように明滅している。
兵たちの寝息は規則正しく、穏やかだった。
――だが、彼だけは眠れなかった。
三日前。
領地へ続く小道で、ある貴族の代理人が補給車を強奪したという報せが届いた。
奪われたのは兵糧と飼料。取り戻せぬほどではないが、放置すれば後方の不安が戦場の致命傷となる。
「……小さな穴が、城を崩す。」
彼は静かに呟き、口元に冷たい笑みを浮かべた。
表向きの返還要求では衝突を招く。
ならば、夜陰に紛れて――奪い返すだけのこと。
彼は選ばれた少数だけを連れて出る。
弓兵一人、夜目に優れた奴隷兵四名、そして補佐のチェリル。
無駄を削ぎ落とした構成。
彼の頭の中では、すでに任務の全工程が秒単位で描かれていた。
天幕の中での指示は、いつものように冷ややかで静かだった。
「侵入地点は渡し場。三ツ時の鐘が鳴る頃、水流が最も速い。
私の合図に従え。それ以外はするな。喋るな。」
チェリルは唇を歪め、冗談めかして言った。
「団長、今夜はあなたの“沈黙”のやり方、じっくり見せてもらいますよ。」
夜風が頬を撫でる。
一行は音もなく小道を進み、砕石を踏むわずかな擦過音と、遠くで鳴く犬の声だけが響いた。
フィルードの体内を魔力が流れている。
冷たい煙のように、指先から散り、すぐに収束する。
意識の奥では静かに思考が回り続けていた。
――感情を殺せ。
――計算を乱すものは、敵より危険だ。
渡し場に着く頃、月光は川面を白く染め、波が銀の糸のように光っていた。
フィルードの指示で弓兵が動く。
静音のボウガンが放たれ、見張りの男たちは麻酔矢に沈み込む。
殺さず、ただ眠らせる。
「命は取らず、支配だけを刻め」
――それが彼の流儀だった。
隊は二手に分かれ、フィルードとチェリルは裏手の馬小屋へ。
そこには幌と藁束で覆われた補給車が数台、月明かりに晒されていた。
「いいか」
彼は低く告げた。
「我々は奪うために来たのではない。正当な権利を、正当な形で取り戻すだけだ。」
行動は時計の歯車のように滑らかに動く。
奴隷兵が鎖を外し、チェリルが荷台の結び目を解く。
フィルードは一つの荷車を開け、中身を確かめた。
思ったより少ない――が、十分だった。
撤退の準備に移ろうとした時、
彼の耳が、微かに速い呼吸音を捉えた。
手の動きで全員を制し、ゆっくりと天幕をめくる。
そこには、貴族風の装飾服を着た若い男が縛られて座っていた。
口を布で塞がれ、目を大きく見開いている。
「……誰だ?」
低く、抑えた声。
男は震えながら語った。
彼らは略奪者ではない。新任の子爵に税を納める途中で、地元の反乱者に捕まっただけだと。
つまり、この事件の背後には――別の権力がある。
フィルードは表情を変えなかった。
怒りでもなく、軽蔑でもない。
ただ、状況を“利用する”ための最適な手を探している目。
彼は男を解放し、無言で指を鳴らした。
チェリルが頷き、墨粉を取り出して男の襟元に小さな紋章を描く。
それは――ブラックスウォーター傭兵団の印。
意味はひとつ。
「借りは返せ。遅れれば、代価を払え。」
敵に恐怖を植えるより、
“選択肢”を残した方が、より深く支配できる。
撤退は静寂そのものだった。
馬車の軋みすら、夜風が飲み込んでいく。
夜明け。
彼らが戻る頃、東の空が白み始めていた。
フィルードは兵糧を分配し、一部を秘密倉庫に隠し、残りを前線へ送った。
「これで三日はもつな。」
冷たい声が、確信に満ちていた。
やがて、件の代理人が帰還したとき、
襟の暗号を見て青ざめた。
“ブラックスウォーター”の名は、すぐに貴族たちの間を駆け抜けた。
恐怖と困惑。
だが、それはフィルードにとって、
最も安上がりで確実な“投資効果”だった。
彼は笑わなかった。
ただ静かに報告書をまとめ、次の指示を下した。
「今夜の収穫は前線の鉄甲兵と長槍兵に優先的に回せ。
彼らが崩れれば、どんな戦略も意味をなさない。
――そして、もし次に補給を横取りする者がいれば、
同じ方法で、今度は“取引”ではなく“制裁”を与える。」
チェリルが苦笑する。
「団長、あなたは本当に……戦場でも市場でも、駆け引きの天才ですね。」
フィルードは無言で頷いた。
その瞳には、炎ではなく冷たい光が宿る。
「戦は消耗だ。
だが、情報と態度は――資産だ。」
彼にとって、夜の作戦など一つの布石に過ぎない。
本当の戦場は、剣ではなく数字と恐怖で支配される場所にある。
数日後、貴族たちは“取引”を持ちかけてきた。
補給の返還、損失の賠償、そして三ヶ月の通行保証。
条件は、彼の想定通りにすべて整った。
署名の音が静かに響く。
羽根ペンの先が紙を掠めた瞬間――
フィルードの心には喜びではなく、“検算の完了”という確信だけが残った。
天幕を出ると、兵たちの笑い声が風に乗って流れてくる。
若い奴隷兵が今夜の“冒険”を語り合い、夜明けの光が彼らの顔を照らしていた。
「……戦場を制する者は、剣ではなく選択肢を持つ者だ。」
月が西に沈む。
チェリルが茶を差し出す。
淡い香が夜風に溶ける。
「団長、あなたはこの策が失敗することを恐れないのですか?」
フィルードは茶碗を持ち上げ、月光を映すその液面を見つめた。
「恐れるのは、兵が飢えることだ。
交渉も策も、全ては生存のための道具にすぎない。
……恐れは、計算に入らない。」
彼は淡く笑みを浮かべた。
「我々が売るのは恐怖ではない。“選択肢”だ。」
夜風が松明を揺らし、炎の影が彼の頬を撫でた。
それはまるで、冷静な将の策謀を称える掌声のようだった。
そして、月はいつものように高く、静かに照らしていた。
フィルードの視線は、その先――次の戦場を見据えていた。
PS:ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
今回は10万PVの感謝を込めて初めての番外編を書いてみました。
正直、誰を主軸にするか少し迷いながらの挑戦だったので、まだ手探りの部分も多いです。
「このキャラの番外が読みたい」「こういう視点も見たい」など、もし希望があればぜひ感想で教えてください。
次の番外は150話のあたりで書けたらと思っています。
なお、夜の通常更新はいつも通り行う予定ですので、そちらもぜひお楽しみに。
そして、もし少しでも面白いと思っていただけたら、【ブックマーク】【評価】【感想】で応援してもらえると嬉しいです。
今後とも、どうぞよろしくお願いします。




